【第26話】真澄編⑦巣鴨刑務所にて――
真澄は政治犯や思想犯を収容する巣鴨刑務所へ連行された。
子どもであっても、その"異常さ"から、国家に逆らう危険人物であると見なされ、容赦はされなかった。
過酷な監視と尋問の日々。
真澄は正直に全てを打ち明けた。
だが、『未来からタイムスリップしてきた』など――信じてもらえるわけがなかった。
日に日に、真澄は疲弊していく。
それは衰弱死へと至る過程だった。
無力感と孤独感。
気力は著しく低下し、精神的にも圧迫され、憔悴していった。
食べ物も喉を通らなくなり、まともに何かを口にすることも出来なくなった。
栄養失調、それに不安や恐怖、ストレスによる睡眠障害。
気づけば、真澄の身体は痩せ細り、髪の毛はフケだらけになっていた。
独房へ入れられて、どれだけの時間が過ぎ去っただろうか。
もう真澄には時間の感覚もない。
少女は、身体も心も、すっかり廃れ果ててしまった。
「出ろ、尋問の時間だ」
檻の外、看守から声をかけられた。
真澄はゆっくりと目を開く。
起き上がろうにも、身体が動かない。
おそらく、看守が何を言ったのかも、理解できていない。
それだけ、少女は衰弱しきっていた。
やがて若い制服の男が、真澄の独房に入ってきた。
特高警察の男。
横たわる真澄の前で歩を止め、少女を見下ろす。
「オレのことは、覚えているか?」
「……」
「随分と、無様な姿になったものだな」
男はまるで回想するように、独房内を行ったり来たりして語りだした。
「九十九里浜の空は、あの日、やけに澄んでいたな。海の向こう、真珠湾の報が届いたとき、オレは胸が高鳴った。ついに日米開戦だと、国が動いたと、誇らしかった。だが――お前が現れて、台無しにしやがった」
真澄は黙ったまま、反応がない。
「天皇陛下の行幸中、沿道から車列に飛び出した少女がいたと聞いた。あれも、お前だろう? 見逃してもらえたのは、奇跡に近いぞ。どうしてその幸運を無駄にするような真似をした? まったく――馬鹿な小娘だ」
真澄は口を閉ざしたまま、微動だにしない。
「ラジオ局に押しかけて、反戦の声を届けたいと訴えたそうだな。通報を受けてオレが駆けつけたときの、お前の顔――あれは見ものだった」
少女は、そこでようやく特高の男に気付いた様子だった。
静かに男を見上げる。
その目には、生気が宿っていなかった。
「誰にその思想を植え付けられた? 他にも同じようなことを考えている者はいるか? 誰かと共謀しているのか?」
「……うぅ……」
「答えろ!」
特高の男は横たわる真澄の腹を、つま先で軽く蹴りつけた。
「……お願い、やめて……」
真澄は腹を押さえて、掠れた声をあげた。
この時代、この状況下で、小さな子どもへの暴力を忌避するような道徳は期待できない。
「お前の尋問記録には目を通した。《未来からきた》とな。よくもまぁそんな奇天烈な作り話を通そうとしたものだ」
「…本当の、こと、です……」
「オレたちは論理・証拠・思想の因果関係を重視する。『未来からやって来た。だからこの戦争の結末を知っている』という、お前の説明は完全に無効だ。自分でもおかしいとは思わないのか?」
「……私、嘘、ついてないです……」
「言え!誰に刷り込まれた? 組織や人物が背後にいるはずだ! 共産党の連中か?どこの思想団体だ? 吐け!!」
真澄は伍代のことも話さなかった。
話せば自分をこの時代で保護してくれた伍代にも、危害や迷惑がかかると思ったからだ。
「分かった……お前のその根性だけは認める。小娘にしては大したものだ。それに免じて助言をくれてやる」
特高の男はわざとらしく、声色を高くした。
「『全て私の妄想です。他に仲間はいません。悪ふざけでやりました。深く考えずにやりました。周囲の反応が面白くて、つい調子に乗ってしまいました。度が過ぎてしまったと、後悔してます。反省してます』」
そこで咳払いを挟み、続ける。
「そう言え。……それでお前は、ここよりもマシな、少年院へ送られる」
「……私…未来から…やってきたの……」
「また、それか。いい加減にしろ!」
「……戦争を…やめて……こんなの…間違ってる……」
「"間違ってる"……だと?」
「お願い……日本の、未来を……守って――」
「ふざけるなぁああああ!!!!!」
怒号が独房内の空気を引き裂いた。
特高の男はしゃがみ込み、勢いよく真澄の胸ぐらを掴む。
そして、一気にまくしたてる。
「そんな綺麗事を! この時代のことを何も知らない小娘が!!」
「オレ達の生きてきた歴史は本物だ!」
「生きるために!家族のために!この国のために! みんな懸命に生きているんだ!」
「そうやって必死に生きて、刻まれてきた記憶が、日本の歴史なんだ!」
「それがたとえ、どんなものであろうとも!!」
「何一つ偽りなんてない!恥もない!後悔もない! 本気で生きてきたオレたちの証なんだ!!」
男は胸ぐらを掴むその手に、力を込める。
拳は震えていた。
「それを! 未来の安全な場所からやって来た奴が、結果だけ見て、否定しやがって!」
「オレ達がひとつひとつ積みあげてきたものを、上から土足で踏みつけやがって!」
「未来人は、そんなに偉いのかよ!?」
「お前の命だって、お前がいた未来の日本だって、今、この時代で、もがいていたオレたちのお陰だろーが!!」
「オレたちを、"間違い"だなんて、言うんじゃねぇえーーっ!!」
特高の男は真澄を、鬼の形相で睨みつける。
鋭い刃のような視線を、少女の目に突き刺す。
だが――
少女の乾いた瞳は虚ろで、一切の光が、既に失われていた。
真澄は――
もう、ただの抜け殻同然になっていた。
それに気付いた特高の男は、少女の胸ぐらを掴んでいた手を、静かに解いた。
独房を立ち去る時、看守に低い声で告げる。
「あの小娘、見た目以上にひどく衰弱している。このままでは取り調べを続けられない。すぐに医者に診察を求めろ」
「承知しました。すぐに手配します」
独房の薄暗い床に、真澄はひとり横たわっていた。
起き上がる体力も気力も、尽き果てた。
体は冷たく、呼吸は浅く、目を開けることすら、精一杯だった。
未来を知り、救いたいと使命感を持ったが故に、理解されず排除される悲劇。
人知れず、歴史と戦った少女は、静かにその命を終えようとしている。
真澄はもう、なぜ自分が生きているのかも分からなかった。
独房の鉄格子のついた窓から、一筋の陽光が牢の中に差し込んでいる。
その光で舞い上がった埃がきらきらと輝いていた。
ただ、それを、綺麗だなと、思った。
鉄格子の窓の向こうから、大勢の足音が聞こえてくる。
兵隊の行進だろうか?
聞いたことのない軍歌も聞こえてきた。
少女は戦争の道を進むこの国を、止められなかった。
――想いは、報われなかった。
やがて、聞き覚えのある旋律が聞こえてきた。
君が代――
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君が代は
千代に八千代に
さざれ石の 巌となりて
苔のむすまで
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日本の国歌。
確か……平和を願う歌だったはず……
いや……
あれは……
平和を祈る詩……なんかじゃない……
あれは……
呪いの詩だ……
少女はゆっくりと目を閉じる。
それっきり――
真澄はもう動くことはなかった。
独房は時間が止まったような静けさに包まれている。
まるで一枚の静止した絵画のように。
ただ……
舞い散る埃だけが、煌めいていた。




