【第20話】真澄編①海の向こう、日米開戦
まばゆい白砂の上で、真澄は目を覚ました。
最初に目に飛び込んできたのは、吸い込まれるような大空と、地上を覆い尽くすかのような大海原だった。
耳の奥へと響く、規則的に繰り返される、押しては引いていく波の音。
ひんやりとした砂浜の感触と、潮の香りが鼻をくすぐった。
「あれ……? ここ、どこ……? 私、どうしてこんなところに……?」
真澄はかすれた声を出した。
どうして自分がこんな場所にいるのか、まったくわけが分からなかった。
場違いな光景に戸惑うしかなかったのだが――
逆にこの世界から、真澄の方こそ場違いなのだと、言われているような気がした。
混乱と不安で胸がいっぱいだ。
急激な状況の変化に、少女は呆然と立ち尽くすしかない。
視線を遠くへ向けた、その時だった。
水平線がぼんやりと霞む遥か彼方に、ふたつの人影が立っているのが見えた。
人影は微動だにせず、まるで絵画の一部のように、海を見つめている。
(ここがどこなのか……尋ねてみようかしら……)
真澄は砂を踏みしめながら、恐る恐る人影に近づいていった。
人影は海を向いて立っているため、真澄が近づいてきても、まったく気づく様子がない。
ふたりは20代くらいの、若く見える男性だった。
背筋を伸ばし、太陽に照らされたその背中、服装。
(濃い紺色の学生服……学ラン?)
真澄は最初そう思ったが、よく見ると少し違う。
遊就館で見た写真や資料で目にした、古い時代の軍服に似たような制服を着ている。
強い潮風に、彼らの制服の裾が悠々と揺れていた。
熱に浮かされたように、意気揚々とした調子で何かを話し合っている。
「昨夜のラジオも今朝の新聞も、凄まじい熱気だったぜ」
「ああ。米国の野郎どもも、まさか真珠湾であんなにやられるとは、夢にも思わなかったろうな」
「オレも本当は、南方艦隊に乗って、思いっきり鬼畜米英を叩きのめしてやりたかったぜ」
「そうだな。軍の奴らを羨ましく思うその気持ち、よく分かるさ」
「あの~、お話中のところ、すみません……」
真澄が制服姿のふたりに声をかけると、男たちはまるで電流に打たれたように同時に振り返った。
男たちは真澄を見るなり、驚きのあまり、口が半開きになっている。
「あ、驚かせてしまってごめんなさい。私、ちょっと道に迷ってしまって……」
「な、なんだお前は!? その服装は何だ!?」
男のひとりにそう言われたが、真澄としては、男たちの制服の方こそ疑問だった。
「私の服装は、普通だと思いますけど……? えっと、それを言うなら、お兄さんたちの、その服は何なんですか? “コスプレ”ですか?」
「コス……プレ……?」
「それとも“ドラマ”の撮影ですか? お兄さんたち、俳優だったり?」
「ドラ……マ……?」
正直なところ、真澄の目に、彼らは《凝った劇団員》のように滑稽に映っていた。
しかし、真剣な彼らの表情を見て、まるで“本物”のようにも思えてきた。
「わけの分からない事をべらべらと! 怪しい小娘め!」
「まあ、落ち着け。こんな海岸に、妙な着物の子どもが一人でいるのは確かに怪しい。だが見てみろ、この無邪気な顔を。おそらく、東京から迷い込んできたお嬢さんか何かだろう」
真澄は男たちと会話が噛み合わず、少々戸惑ったが、ここが東京ではないことは判明した。
「あの、ここは、どこですか?」
「ここは九十九里浜だろうが! この小娘……頭大丈夫か?」
「まぁ、そう言ってやるな。世間知らずの箱入り娘というやつだろう」
真澄の服装と佇まい、その異様な派手さと清潔さ。
東京からやって来た富裕層か上流階級の子どもなのだと、制服の男たちは解釈した。
「おい、小娘。お花畑のようなその頭じゃ、世の中で何が起きているか分かってないだろ?」
「……えっと、何の話でしょう?」
「お嬢さん、日本は今、歴史が動く瞬間に立っているのさ」
「……歴史が動く? 何のことですか? やっぱり、撮影か何かですか?」
何も知らない無知な子どもに対して、制服の男たちは自国の勝利を自慢したいという高揚した気分に駆られた。
その顔には抑えきれない誇らしさが浮かんでいる。
「聞くがいい。先日、帝国海軍がハワイの真珠湾で、《卑劣》な米国艦隊を叩き潰したのだ! 神国日本の大勝利だ!」
「そうさ。米国は腰を抜かして、しばらくは起き上がれない。この契機に、我ら大日本帝国は南方へ進軍する」
「亜細亜の全ての国々を《鬼畜米英》、白人どもの支配から解放するのだ!」
「外の世界を知らない温室育ちのお嬢さんも、この国の大いなる活躍は胸に刻んでおくことだな」
「……え?」
真澄は目が点になっていた。
彼らの言葉は、遊就館で見た、戦意高揚のためのプロパガンダ映像のナレーションそのものだった。
(……ハワイ……真珠湾……? それって、私が調べてた……日米開戦のこと?)
(でも、それって大昔の出来事じゃ……)
少しの間、真澄は考えを巡らした。
そして思考の末――
やはり制服の男たちは俳優か何かで、演劇の練習をしているのだという結論に至った。
(このお兄さんたち……凄い! 見た目だけじゃなく、“中身”も本物に成り切ってる!)
俳優として、“完璧”と言って良いほどの迫力ある演技。
きっと絶え間ない壮絶な練習を繰り返し、努力に努力を重ねて至ることの出来る境地に違いない。
(だけど……)
真澄は夏休みの自由研究で大和たちと、日本のかつての“アジア太平洋戦争”について調べていた。
まだ断片的にしか勉強していない段階だったが。
真澄にとって、日本は“被害国”というより、“加害国”としての印象が強かった。
それ故に、自分が知っている範囲の知識を持ち出して、試しに男たちに反論してみようと思った。
「あの、《卑劣》なのは、日本の方ですよ?」
「なんだと? 今、何と言った、小娘!」
「まず、さっき言ってた真珠湾攻撃ですが、通告なしの不意打ちだったじゃないですか。
アメリカに宣戦布告の紙を届ける前に、日本軍が攻撃を始めちゃったでしょう?
だから国際的にも“だまし討ちだ”って、すごく問題になりましたよね?」
「な、何を言っている……。“通告なし”だと!? そんな、馬鹿な!」
「待て待て、落ち着け。子どもの妄言だ。もしかすると、このお嬢さんは本当に頭に障害があるのかもしれん」
真澄は更に続ける。
「それに、《鬼畜米英》って言いましたけど、日本も鬼畜なんですよ。これから日本は、アジアでいっぱい酷いことするんですから!」
真澄は、制服の男たちが信じる(演じる)“正義の戦い”の未来が、凄惨な加害の歴史であることを、無邪気な口調で説明していく。
男たちの、真珠湾での勝利の興奮と血の気が、完全に引いていた。
もう幼い子どもに向ける顔ではない。
怒りに満ちた表情。
つい数分前まで有頂天だった感情が、猛烈な不快感と、耐え難い侮辱感へと急激に変貌していた。
「黙れ! 小娘! 大日本帝国は鬼畜などではない!
大東亜解放を掲げた正義の神国だ! 米英こそ鬼畜の極み!
奴らは数百年にもわたり、亜細亜の国々を植民地にし、我々の兄弟姉妹である人々を奴隷のように扱ってきたのだ!」
「その通り。白人どもは、自分たちが先に世界中の資源と土地を奪っておいて、我々が自立しようとした途端、石油や鉄を止め、飢えさせようとした。
米英が言う“平和”とは、自分たちの支配が続く平和のことだ。
自分たちだけは植民地を作ってもよく、日本が亜細亜を解放しようと立ち上がれば、《正義に反する》と許さない。
こんな偽善があってもいいのか!?」
真澄は真に迫った男たちの怒声に恐怖を覚え、後ずさる。
そして確信した。
(これは――俳優の演技じゃない! 正真正銘の“本物”だ!)
男のひとりが真澄に向かって一歩踏み出した。
「ごちゃごちゃと冗談を言うのも大概にしろ!
一体どこでその狂った思想を植え付けられた?
我ら皇軍の潔白な戦いを、そんな汚い言葉で穢すなぁーっ!」
男は、真澄の服の首根っこを掴んで持ち上げた。
「ちょ、ちょっと!? 何するのよ!」
そして砂浜から波打ち際まで乱暴に運び、躊躇なく、真澄を太平洋へと放り投げた。
『ザッバーン!』
水しぶきが飛ぶ。
冷たい海水に叩きつけられ、服が一瞬で海水を吸い込んだ。
身体を突き刺すような冷たさが、真澄を襲う。
口の中もしょっぱい海水で満たされた。
「小娘! その狂った脳みそを海で濯いでろ! 塩水で浄化してもらえ!」
水しぶきが収まると、真澄はすぐに起き上がった。
びしょびしょになった服が肌に張り付き、容赦なく身体から熱を奪っていく。
ぶるぶると全身の震えが止まらない。
「もーうっ! 最悪!!」
先ほどまでいた制服姿のふたりの男は、振り返ることなくすでに砂浜の向こうへと、遠ざかっていた。
「なんなのよ、あの人たち! 酷すぎじゃない!?」
わけが分からない!
水に濡れた髪をかき上げながら、真澄は怒りに唇を噛んだ。
(う~! 寒い! とにかく、このままじゃ凍えちゃう!)
砂浜を見渡す。
視線の先、砂丘と松林の切れ間に、ぽつりぽつりと建つ古い民家の屋根が見える。
(……誰かに、助けてもらわなきゃ……)
真澄は、砂に足を取られながらも、震える身体で民家の方へ歩き出した。
「まともな大人のひと……いないかな。ていうか、お風呂……せめてタオル……」




