【第19話】蓮弥編⑥少年は平和の夢を見るか?
宿舎の寝床は、簡素な板の上だった。
蓮弥はそこで寝込み、何日もの間、熱に浮かされ、汗と悪夢にうなされていた。
意識が戻るたび、少年の脳裏には、おぞましい光景がフラッシュバックする。
銃声、悲鳴、そして――英雄だと信じていた日本兵たちの獣のような眼差し。
その映像が、いつまでも蓮弥の心に暗い影を落とした。
数日後、ようやく熱が引いた。
頭の芯に残っていた重い痛みも幾分和らいでいた。
蓮弥は起き上がると、身支度を整えた。
まだふらつくが、それでも意志の力で踏みとどまる。
その意思とは――除隊し、本土へ帰るのだという、強い思いだった。
(もう、ここには、いたくない)
宿舎を出で、向かう先は連隊本部。
中隊長はもう、信用出来ない。
連隊の最高権力者である連隊長に直訴するという、蓮弥の思い切った行動だった。
連隊本部が置かれているのは、南京陥落後に接収された、旧中国政府機関の庁舎。
周囲の街は瓦礫と土埃にまみれているのに、この建物だけが異様に整然としており、巨大な権力の象徴として、街を見下ろしていた。
庁舎の入口に近づくと、武装した歩哨が蓮弥の行く手を遮った。
「これは、これは。蓮弥二等兵。熱はもう引いたのか?」
「……はい」
「そうか、それは良かった。お前の存在は連隊本部でも噂になっていたからな」
「……あの、連隊長殿に、お会いできないでしょうか?」
歩哨は、蓮弥の非常識な面会要求に、顔を歪める。
しかしその無礼も、幼さ故なのだと、すぐに鼻で笑った。
「蓮弥二等兵。用件があれば、まずは直属の中隊長を通して――」
その時だった。
庁舎の奥の方で、爆発音が轟いた。
直後、黒々とした煙が建物の屋根を覆うように勢いよく立ち昇る。
油と焦げ付いた臭いが風に乗って門前にまで押し寄せる。
「な、何だ!?」
歩哨が顔色を変え、銃口を爆発音の方角へ向ける。
庁舎内からも、緊迫した怒号が飛び交い始めた。
「敵襲! 敵襲ーッ!」
「民間人を装った便衣兵だ!」
辺りの日本兵たちが集まってくる。
彼らの形相は、怒りと恐怖に歪んでいた。
「貴様ら、ぼさっとするな! 急行せよ! 便衣兵を制圧しろ!」
下士官が叫び、数名の日本兵が、蓮弥の脇を猛スピードで駆け抜けていく。
混乱の真っ只中、蓮弥は立ち尽くしていた。
銃声と怒号が響き渡る中、蓮弥は呆然とその光景を目にしていた。
蓮弥は目の前の狂乱を、遥か遠い世界の出来事のように感じていた。
「おい! 蓮弥二等兵! 突っ立ってないで物陰に隠れろ! 死にたいのか!」
その声も、蓮弥には届かない。
庁舎から憲兵数名が飛び出してきた。
青ざめた顔をして、前線の兵士に詰め寄る。
「馬鹿者ども! 何をやっているか! 何故こんな場所に支那人がいる!?」
「ここは本部だぞ! 警備は何をしていた!? さっさと射殺しろ!」
慌てふためく日本兵たちが、便衣兵を仕留めようと躍起になる。
(ああ、もう、どうでもいい)
全てが蓮弥の意識を通り過ぎ、ただ遠い残響となって消えていく。
蓮弥はぼんやりと空を見上げる。
建物の奥から上がる黒煙が、空に溶けていく様子を、黙って見送っていた。
(何だか……ボクという存在も、溶けていきそうだ)
銃声が、うるさい。
便衣兵と日本兵の間で、銃声の応酬が最高潮に達していた。
『ドォン!』
放たれた一発が――
空気を切り裂く音もなく――
蓮弥の腹部に命中し、肉と血をえぐり、激しい熱と衝撃を与えた。
「――うッ!?」
声にならない呻きが喉の奥で潰れる。
蓮弥は自分が撃たれたことを、理解していなかった。
内側から体を焼き尽くすような、鉛のように重い激痛が全身を襲う。
糸が切れた人形のように、蓮弥の小さな体は崩れ落ちた。
地面に叩きつけられて、蓮弥の薄れかけていた意識が、更に深い闇へと沈んでいく。
頭上では日本兵の怒声と、忙しない足音、そして銃声が、まだ狂ったように続いていた。
どれほどの時間が経っただろうか。
騒音はまだ続いていたが、遠のいていた。
蓮弥の意識が再び浮上し、ぼんやりと目を開いた時、
視界に入ってきたのは、自分を抱きかかえる六角の姿だった。
「蓮弥……すまぬ……許してくれ……」
六角は肩を震わせ、目に涙を溜めて、謝っていた。
(どうして……六角さんは謝っているのだろう?)
考えを巡らすことは、もう蓮弥には出来なかった。
おぼろげな意識。
自分の体に目を向けると、大量の血が流れ出していた。
その血の色は、光を失い、黒に近い色になっていた。
もう助からないことを、悟った。
意識が沈み切る前に、蓮弥は思った。
何かもう、嫌だな。
戦争なんて、やめて欲しいよな。
狂った世界だよ。
なんで、こんなことになったのさ。
まったく……大人たちの喧嘩は、狂ってるよな。
戦争なんかお終いにして、世の中が平和になれば良いのに。
ずっと、ずっと、平和がいいよ。
たとえばさ。
たくさんの小さな石ころが、
長い、長い年月を経て、組み合わさって、大きな岩になるくらい。
その岩も、長い、長い年月を経て、苔がつくくらい。
長く、長く、それこそ永遠に。
平和が、続きますように。
……あれ?
そんな詩が……無かったっけ……?




