【第18話】蓮弥編⑤狂気と理性のはざまで
ある晩のこと――
瓦礫の街と化した南京城の外、焦げ跡の残る荒野に座り込む日本兵が数名。
焚き火を囲むようにして、酒と煙草を回しながら、雑談に興じていた。
「いやぁ、まさか南京まで来るとはなぁ。最初は上海で終わると思ってたで、ほんま」
「次は武漢へ進軍するらしい。戦いは続くぞ」
「続いてもいいけどよ、もうちょっとまともな休みと飯が欲しいよな」
日本兵たちの、乾いた笑い。
それに六角だけは釣られず、神妙な顔つきで呟いた。
「支那は屈服しない。俺たちは終わりの見えない泥沼の戦いに引き込まれたんだ……」
全員が黙り込む。
焚き火が弾けるような音を立てた。
「どないしたん六角? まるで“先のことが見えてる”ような口ぶりやな」
「そう悲観的に捉えるなよ。今の我々は連戦連勝。この勢いなら、支那が停戦講和、和平交渉を持ちかけてくるはずだ」
「そういうこと。だが、早く内地に帰りたい本音は分かるぜ?」
六角は何も言い返さなかった。
焚き火が少し弱くなってきた。
区切りをつけるように、誰ともなく焚き火に薪を足す。
話題は蓮弥の話に移った。
「あの坊主……面白いやっちゃな。他の隊でも有名になっとるわ」
「蓮弥のことか。子どもなのに、献身的によく働いてくれる」
「あのガキ、どこ出身なんだ? 聞いても、わけの分からん事ばかり言いやがる」
「確か上海の戦線で拾われたんだよな。過酷な環境で、頭おかしくなっちまったんだよ。まったく、哀れな子だ」
「そういや、聞いたか? あいつの階級、二等兵だって」
「ほんまかいな!? わいらと同じ末端兵扱いやないか!」
「ガキと同じ兵卒とは……泣ける」
「中隊長や下士官から、やたら好かれとるよな?世渡り上手な坊主やで!」
一陣の風が吹く。
火薬と爆薬の焦げた臭い、それに鉄のような生臭さを乗せて。
日本兵のひとりが目を伏せて、酒瓶を置いた。
「でも……蓮弥のやつ、市街地の裏路地で倒れてたんだってな」
触れてはいけない、それでいて、話さずにはいられない件だった。
「聞いたわ……宿舎に運ばれて、今は寝込んどるんやろ?」
「我々のやっている事を、まともに見てしまったようだ。まだ幼いのに衝撃的だったことだろう」
「オレたちのやってることは、“殺人”に見えたんだろうな」
「……何を今更。全ては《命令》だろ?」
「坊主が次、目を覚ました時、わいらをどんな目で見るんやろな……」
誰かが夜空を見上げた。
雲が流れ、切れ目から星が見える。
その光は遠く、冷たく、尊くも儚いものに見えた。
蓮弥という少年の存在は――
日本兵たちにとって、戦場という熾烈な環境下で、失っていった“良心・人間性”を映し出す鏡でもあった。
日本兵の胸に込み上げる、忘れていたはずの罪悪感。
非人道的な行いの数々。
残虐行為を、誰もがためらいもなく、やっているわけではなかった。
――だが、これが戦争。
善悪や倫理が抑圧される極限状態。
そして集団の心理。
感情を麻痺させねば、戦場に適応できない。
葛藤していては、生き残れない。
それを誰もが理解していた。
環境によって、人は変わる。
そして人は慣れていく。
それがたとえ略奪や強姦、殺人であっても。
すべてを“戦争”という極限状態のせいにして、己を正当化していく。
「まぁ、わいらは生き残る為に、上官に従うだけや」
「その上官も、大本営からの指示で動いている。つまり天皇陛下の“名の下”に、というわけだ」
「我々がとやかく考える必要はない。堂々としていれば良い」
黙り込んでいた六角が口を開ける。
「……陛下が、恐れずに、軍に“やめろ”と言ったら、止められたんだろうか……」
誰もすぐには答えない。
六角の発言の意味を図りかねていた。
燃える火の音だけが間を繋げていた。
「六角はん、何言うとんのや?」
「つまりなんだ? 軍のほうが勝手に突っ走ってるってことか? それを陛下が仕方なく“追認”していると?」
「ああ…そうだ」
焚き火がまた弾けるように音を立てた。
それを皆、黙って見ていた。
火の勢いが弱くなっている。
しかし誰も、新しい薪を足すことを忘れていた。
「そんなことはないさ。南京での司令官の一人に、禍門宮殿下がいるだろ?」
「せやせや! 皇族出身の軍人や! 前線にまで来てもろて、ありがたいかぎりや」
「その禍門宮殿下が、我々の南京での働きを絶賛していたらしいぞ」
「そりゃ、激励としてだよな?」
「いや、それがな。中隊長から聞いた話なんだが、連隊本部で訓示書を読み上げられたそうだ。
支那人に対して、『遠慮はするな、徹底的にやれ』とな」
「なんだと……?」
「その言葉を聞いて中隊長も『これで心置きなくやれる』ってなったそうだ。つまりこの掃討作戦は、最高権威のお墨付きなんだ」
「馬鹿な! 皇族の人間がそんな事を言ったのか!?」
六角は血相を変えて、勢いよく立ち上がった。
「南京で起きているこの現状は軍の暴走だ! 禍門宮殿下は、その非人道的な行為を黙認し、あるいは命じていたというのか!? 信じられん!」
「嘘じゃない! だったらお前も中隊長に聞いてみろ!」
焚き火の燃え上がる炎は、まるで六角の感情そのものだった。
その場にいた日本兵は、彼の尋常ではない気迫にたじろぎながらも、違和感を感じはじめる。
「六角はん、どうしたんや? とりあえず落ち着いてや。さっきからおかしいで、ほんま」
「そうだぞ六角、なに切羽詰まった顔してんだ?」
同僚に指摘されて、六角は自分が荒い息を吐き続けていることに気づいた。
焚き火の明かりの中、皆から向けられる戸惑いの視線を受け、冷静さを取り戻す。
だが、それでも握りしめた拳は解けなかった。
「《証拠》が、欲しい――」
「は?」
「禍門宮殿下の訓示書は、どこにある?」
「そんなもん知るか。連隊本部の文書庫じゃないのか?」
「少しでいい、確認させてもらえないだろうか?」
「無茶言うな。兵卒の我々がそんなもの、見せてもらえるわけないだろう」
焚き火が音を立てる。
乾いた薪が弾けて、小さな火の粉が舞い上がった。
その火の粉の行く末を、誰もが無言で見つめていた。
「すまない、取り乱したな。どうも疲れているらしい。俺はもう寝る」
六角は低く静かな声でそう言って、その場を後にした。
夜空を見上げると、雲の合間から月が顔を出していた。
まるで隠された真実を照らしているかのように光っている。
六角はその白く輝く輪郭に、手を伸ばした。
(どんな手を使ってでも、その訓示書を手に入れてやる)




