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【第13話】皇后・彩子と皇女・逢子

挿絵(By みてみん)


皇居にある御所の静養室にて――


白いカーテンが、午後の柔らかい光を受け、ゆるやかに揺れていた。

消毒液や調合剤の匂いがかすかに混ざり、静かな部屋に淡く重い空気を醸し出している。


部屋の扉が静かに開き、皇女(ひめみこ)逢子(あいこ)が侍女の一礼を受けて中へ入った。

一歩ずつ靴音を鳴らしながら、母の眠る寝台の傍らへ向かう。


「お母さま!」


その声に、天皇の妻である皇后(こうごう)彩子(あやこ)は、ゆっくりと(まぶた)を開く。

頬はやや青ざめているものの、その眼差しはどこまでも澄んでいた。


「……逢子。中学校はもう終わったの? 駆けつけてくれたのね」

「もちろんです。お母さまが倒れたと聞いて、いても立ってもいられませんでした」


侍女が用意した椅子に腰を下ろし、逢子は母の顔を覗き込む。


「一体、何があったんですか」

「……」


彩子皇后は誤魔化すように微笑もうとしたが、その唇は震えを隠せていなかった。


「お母さま……?」


「実はね……陽仁(はるひと)が……」




――弟・陽仁の失踪。

しかも、陽仁が公用車から逃走したのが事の始まりらしい。


彩子皇后は、文化庁主催の展覧会で来賓挨拶を終えた直後、控室で女官からその報を受け、ショックのあまり倒れてしまったという。

搬送された宮内庁病院で意識を取り戻したのち、いまは御所の静養室で療養のため寝かされているのだった。


(あの子……どうして……)


逢子の胸に動揺が走る。

短い沈黙の後、逢子は母の手にそっと触れた。

冷たく、それでいて確かな温もりを残す手。

幼いころ、自分を抱きしめてくれたその感触が、記憶の奥から蘇る。

今度は、自分が母を安心させる番だ。


「お母さま……陽仁は、必ず戻ってまいります」


逢子はただ、精一杯まっすぐに言葉を紡いだ。

彩子皇后はうっすらと微笑み、天井の淡い光を見つめる。


「……ありがとう、逢子」


その一言を最後に、彩子皇后は静かに瞳を閉じた。

弱々しい吐息が、白いシーツの上で溶けていく。

眠りにつく母の様子をじっと見つめる逢子。

逢子は母の計り知れない苦労を思っていた。



――天皇の妻、皇后(こうごう)彩子(あやこ)


もともとは一般家庭の出身で、外交官として勤めていた。

父(現天皇)から二度のプロポーズを受け、結婚し、皇室入りを決意。

それはまさに、自分の生き方を根本から変えるということ。


外交官としての人生を諦めることへの葛藤。

皇室という日本社会で最も特殊な環境への強い不安。

正妃という重すぎる責任。


母の感じていたプレッシャーは相当なものだったと思う。

皇族はまるで“神”のように、完璧を求められる。

完璧な人間なんて、この世にいるわけがないというのに。


それでも新しい世界で、公のために尽くす母。

『跡継ぎはまだか?懐妊はまだなのか?』

と、メディアや世論から無神経な報道が続いたという。


母が皇室入りして8年目、私(逢子)が産まれた。

しかし、皇室典範では、男性しか皇位を継承できない。


男児誕生を求めていた社会的圧力に反し、女児が産まれたことで、世間はまた、母の心身を疲弊させるような物議を醸した。


父(現天皇)は、母を守るために記者会見で発言をすると、一部の国民から

《皇室が公に不満を言うのは不適切》だと批判された。


私から言わせれば、あなたたちの方が不適切だと、言いたかった。

皇室は、国の歴史と国民の精神的な”象徴”を体現する存在。

その中には、道徳や倫理、公徳的な意味合いも含まれているというのに。


でも逆に――

”皇室”という存在は、国民からの《明確な意思と支持》によって成り立っていることも知った。



母を苦しめる原因が、女に生まれた私ならば、私は母に謝るべきだろうか?

いや、それは見当違いも甚だしい。

そんなことをすれば、母をもっと傷つけることになる。


――私に出来ること。

それは皇室の女に生まれたからこそ、できることもあるのだと自覚すること!

自分の使命を理解し、女としてできることに誇りを持つこと!


もっとも……

世間では一時期、”女性も皇位継承者”としての資格を認める皇室典範の規定の変更案も囁かれたわけだが。

陽仁(おとうと)が産まれたので、政府国会内で”本腰を入れて”議論することも無くなった。




けれど――今、陽仁(おとうと)がいない。

あの子が、国を、皇室を、家族を置いて消えた。

本音を言えば、心配より先に、胸に湧き上がったのは怒りだった。




ガチャリ。

静寂を裂くように、扉の金具がわずかに鳴った。


部屋に入ってきたのは、ひとりの老人だった。

深々と頭を下げ、静かに歩を進める。


「これは……逢子さま。いらしておいででしたか」


落ち着いた声。

その主は宮内庁の侍従・陽仁の教育係、空無(そらなし)だった。


「空無おじさん……」


逢子が思わず立ち上がろうとする。

しかし空無は掌をあげ、穏やかに頷いた。

そして寝台に目を向ける。


「皇后陛下のご容態を拝見に参りました」


彩子皇后の枕元まで歩み寄ると、手を胸の前で合わせ、深い眼差しで見つめた。

その瞳には職務の冷静さと、長年にわたる家族のような情が宿っていた。


空無は宮内庁でも古株の侍従である。

(よわい)六十に近く、その半生を皇室に捧げてきた。

そして、皇室の深奥――

外部には決して漏れぬ事情までを知る、数少ない人物のひとりだった。


陽仁の教育係を務める前は、逢子の教育係でもあった。

礼儀作法だけではなく、《人としての在り方》までを教えてくれた恩師。


(私も陽仁も、空無おじさんに育ててもらったようなもの……)


それだけではない。

父(現天皇)が、若き日に重い決断を迫られた際、陰で支えたのが空無だったと聞く。

また、母が“適応障害”と診断され、公務を長期間休むことになった時、

最も近くで支えてくれたのが、彼だった。


どんな時も、この人は皇室を《影》から支え続けてきた。


故に長年に渡る功績から、宮内庁の中でも、空無には特別な立場が与えられている。

名目上は侍従だが、実際には、父や母、宮内庁長官から直接に指示を受ける“相談役”のような存在になっていた。




「逢子さま。申し訳ございません……」


深々と頭を下げる空無。

その姿を見つめながら、逢子は思う。

――私の教育係だったころよりも、白髪がずいぶんと増えた。

年相応の、おじいちゃんになっていた。


「……陽仁、逃げたんでしょう?」

「面目の次第もございません」


空無はゆっくりと顔を上げた。


「只今、皇宮警察と警視庁、そして内閣官房が合同で捜索にあたっております」

「……」


逢子は唇を噛む。


「――あの子、逃げ出すほど追い詰められていたの?」


問いかけは静かだったが、その声は震えていた。

空無は、少し間を置いてから口を開いた。


「……陽仁さまは、"普通の男の子"でありたかったのだと、お見受けいたします」


「"普通"って……」


逢子は思わず言葉を繰り返した。


どうして……

どうして"皇太子の運命"から逃げるの……?

あなたは、この《重さ》から逃げるために、生まれたのではないはずでしょう……?


逢子は顔を伏せた。

手のひらの中で、母の指先を強く握る。

だがその手は、ひどく冷たかった。



「陽仁さまは一般児童と思われる4人の少年少女たちとともに失踪しました。

おそらく、この件は当面、公にはされません」


「そう……」


「――陛下にはすでに報告が上がっております。

ただ、現在、地方慰問のご公務の途上にあり……東京へのお戻りは、今夜遅くになる見込みです」


逢子は寂寞の念に駆られていた。

母は病床にあり、弟は消息を絶ち、そして――父(天皇)は遠く離れた地にいる。

皇族でありながら、家族でありながら、これほど孤独を感じることはない。



白いカーテンが、風もないのに微かに揺れた。

窓の外、蝉の声が遠くから聞こえる。

空は、どこまでも澄みわたっていた。


空無は、眠る彩子皇后を見つめながら低く呟いた。


「残された皇室の皆さま、そして失踪された陽仁さまのお気持ちを思うと……胸が痛みます。

願わくば――出来ることなら、《根本》から救って差し上げたいのですが……」


その言葉の奥には、何かを言いかけて飲み込むような気配があった。



逢子はそっと目を閉じる。

そして静かに手を組み、祈るのだった。


(陽仁……あなたと、共に消えた子どもたちが……どうか無事でいますように)


(どうか、もう一度――あたたかな"日のもと"へ帰ってきますように)


(……また、"逢えますように")




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