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【第8話】近くて遠い、天皇陛下

挿絵(By みてみん)


遊就館(ゆうしゅうかん)の室内は、やわらかな照明に包まれていた。

それでいて、戦争の資料館らしい厳粛な空気に満ちている。

静けさの中に、重みのある時間だけが流れていた。


展示フロアには、ところどころに見学する来館者の姿がある。

年配者から学生までの老若男女――そして、5人の子どもたちがいた。

大和(やまと)蓮弥(れんや)真澄(ますみ)咲良(さくら)、そして陽仁(はるひと)

彼らはガラスケースの前に立ち、並んで展示物を覗き込んでいる。

子供らしい好奇心で輝いた眼差しで見入っていた。



――離れた場所で、そんな子どもたちの様子を伺う複数の影。


間違いない。髪型、服装、情報通り。


「殿下を確認。付近に危険因子なし。同行者は一般児童と思われる」


胸元のマイクに口を寄せ、SP(皇室警護専従班)の緑川(みどりかわ)は小声で報告した。


逃走中の皇太子・陽仁はついに見つかった。

SP班長からの無線が入る。


――"即接触禁止"。


対象を動揺させてしまうと、再び逃走するか、周囲の注目を集める恐れがある。


緑川は一般の来館者を装って近くのパンフレットを手に取った。

同じフロアに散っていたSPの二人が壁際に移動し、目線で合図を送る。

展示室全体を、彼らが囲む形になっていた。

子どもたちを含め、一般の来館者は誰も、SPには気づいていない。


耳元のイヤホンから別働のSPより無線が入る。


「職員用裏口の確保完了。対象の誘導、いつでも可能です」


緑川は短く応じた。


「こちらも接触可能」


「了解。――もう少しだけ、待て」


班長の命令は"待機"だった。


殿下の保護。

陽仁が、ただの少年から"皇太子"へ戻る瞬間は、確実に近づいている。

前代未聞の逃走劇も、もうすぐ終幕を迎える。

この時までは、SPの誰もがそう思っていた――




ひんやりとした空気の中、大和たちは展示ガラスの向こうに並ぶ品々に、目を奪われていた。

作戦電文、日章旗、軍服、元帥刀――そして、戦争で命を落とした人々の遺品。

それらは、時を遡った過去から、静かに語りかけてくるようだった。


「この水筒、オレが持ってる水筒より小せえな!」

「確かに小さいな。遠征中の日本兵はこれで足りたのか?」


大和と蓮弥が首をかしげると、真澄が展示パネルを読んで答える。


「"一人分の一日水量"って書いてあるわ。一日たったこれだけしか飲めなかったって事かしら?」

「マジかよ、全然足りねーだろ! オレ一日に麦茶2リットルは飲むぜ」

「当時の日本兵は過酷だったんだな」


蓮弥は感心するように言った。



すぐそばの展示ガラスに飾られていたのは勲章の数々。


「これ、もらった人は嬉しかったのかな…?」


咲良がぽつりと呟き、隣にいた陽仁に聞いてきた。


「えっと、嬉しいんじゃないかな?」


続いて大和が食い入るように勲章に顔を近づけて言う。


「かっけえデザインだな! オレも欲しくなってきた! 今度買おう!」


「え? 買えるの!?」


陽仁が驚いていると、真澄が呆れた表情で答えた。


「大和が言ってるのは、100円ショップに売ってるメダルのことじゃない?」


大和がそうそう、と得意気に笑うと、陽仁もつられて笑った。

その笑い声は小さく、それでも純粋な、"子ども"の笑いだった。

そんな小さなやり取りが、展示室の空気の中に溶けていく。


誰も、そこに"皇太子"がいるとは思わない。

肩書きも格式もない。

あるのは、同じ時間を共有する子どもたちの姿。

今この時だけ、陽仁は普通の友達同士として溶け込んでいた。


――それは、彼にとって何よりも貴重な時間だった。



やがて展示フロアの一角、戦没者の家族への手紙や遺言状のコーナーで、子どもたちは足を止めた。

そこには、戦争で命を落とした人々の遺品や、最期に残した言葉が丁寧に展示されている。

封の破れた便箋、色の薄れた写真、そして震えるような筆跡の文字。


子どもたちなりに、手紙の並々ならぬ、悲痛な想いを感じ取っていた。


やがて咲良が気づく。


「"天皇陛下万歳"って書いてある手紙が多いね…」


その言葉に、大和が首をかしげた。


「天皇陛下って、そんなにスゲー人だったのか!」


「ふっ、当時の日本人は、みんな天皇を慕っていたってことさ」


蓮弥がそう言うと、真澄も手紙の中から気になる文章を探し当てた。


「"国のため、陛下のために命を捧げる"……って書いてあるわ」


「つまり、命を捧げるくらい偉大な存在だったってことさ」


「まるで神様…」


「すげえな! 天皇って! 国民からモテモテじゃん!」


真澄が眉間にシワを寄せて、呟く。


「でも、命を懸けてまで、どうしてそこまで――」


陽仁だけは黙って何も言わず、ただガラスの向こうを見つめていた。

古い便箋の文字が浮き上がり、まるで自分に語りかけてくるように思えた。


"天皇"――その言葉が、彼の胸の奥で静かに重く響いていた。


(この頃の天皇……"ひいおじいちゃん"のことだ)


陽仁はふと気になり出した。


(大和たちって、この国の天皇(お父さん)のこと、どう思ってるんだろう?)



「ねぇ…みんな、天皇のこと、どう思う?」


ぽつりと、無意識のうちに陽仁は口に出していた。


「とりあえず日本で一番えらい人! オレがテストで100点取るより、はるかにえらい人!」


大和が威勢よく答える。


「なにその比較? 当たり前でしょ!?」


真澄は突っ込みを入れた後、思ったことを打ち明ける。


「正直、よく分からないわ。日本の"象徴"よね? 手紙には"天皇陛下万歳"とか"陛下に命を捧げる"とか書いてあるけれど。私はそんなに……」


「ふむ、ボクもあんまり意識したことないな。テレビや教科書で見たことあるけど、遠い存在って感じさ」


蓮弥が肩をすくめる。


「普段の生活に直接関わらないから、あんまり気にしてない…」


咲良も続いて答えた。



"――国民は天皇に無関心"?


陽仁はそんな微妙な雰囲気を感じ取っていた。


「でもよ~? 元旦にテレビで天皇が挨拶してるの見ると、なんかホッとするぜ!」


茶化すように大和が言う。


「うん分かる。新しい年が始まったんだなって思うよな」

「よくわかんないけど、なんか安心する…」


蓮弥と咲良も同意する。


陽仁の胸に複雑な感情が湧いていた。

肩の荷が少し下りたような安堵感と、寂しい気持ち。


(大和たちは子どもとはいえ、これが国民の"本音"なのかもしれない)




挿絵(By みてみん)


大和たちの足は、少しずつ展示室のあちこちに散らばっていった。

やがて5人はバラバラになり、それぞれが興味のある展示物に釘付けになった。

気づけば、フロアにいるのは子どもたちだけ。



――その時だった。



「陽仁さま」



陽仁の背後から突然の声。

ささやきに近い控えめな声量は、床の静寂に吸い込まれるようだった。


陽仁が驚いて振り返ると、そこには壁のように大きく屈強な体つきの男。

まったく気づかなかった。

男の雰囲気から、すぐにSPだと分かった。

周囲を見渡すと、離れたところで陽仁を取り囲むように佇む数人のSPらしき大人の姿。

大和たちは彼らに気づいていない。



陽仁の顔から笑みが消え、瞳に影が落ちた。

――すべてを悟った陽仁は、静かに頷く。


夏休み、"自由"と"普通"を求めた冒険は、もう終わるのだと。


逃げても無駄。

自分が抵抗すれば大和たちにも迷惑がかかるだろう。

もう既に大人たちにはだいぶ迷惑をかけた。

前代未聞の逃走劇。

これから皇居の御所へ連れ戻され、どんな(いさ)めを受けるのだろうか。


陽仁の観念し、弁えた態度にSPの緑川が頭を下げ、そして低い声で告げる。


「こちらへ――」


緑川は手を差し伸べ、陽仁を静かに誘導する。

陽仁は何の抵抗もせずに応じた。


――ただ、大和たちには、しっかりとお別れを言いたかった。


ひっそりと消えていく自分。

それだけが、陽仁の心残りだった。


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