世界の不穏な気配
甘やかな日々が流れていた。
けれど、世界は決して静止してはくれない。
王宮では近頃、異様なほどに重々しい空気が漂っていた。謁見の間では昼夜を問わず灯火が絶えず、宰相や重臣たちが慌ただしく行き交っている。
国王は玉座に深く腰を下ろしながらも、その眼差しは鋭く険しい。次々に訪れるのは、隣国や遠方からの密使たちだった。豪奢な衣をまとった使者は決まって同じ話題を口にする。
「――この国には、『古代魔法の継承者』がいると聞き及びました」
その言葉に、王宮の空気は凍りつく。
大陸の均衡を揺るがす存在。それがアリシアの名とともに広まり始めていた。
国王は眉間に皺を刻み、宰相は深く頭を垂れて答える。
「確かに、我が国には星光の令嬢が存在いたします。ですが彼女は何よりも大切に守るべき存在。政略の駒などには――」
「それでは困る。大陸の平和のためには、彼女を同盟の証として迎える必要がある」
各国からの圧力は日に日に強まっていた。王国の威信を盾に突っぱねてはいるが、いずれは大きな火種となるのは必定だった。
◇ ◇ ◇
アリシアは塔での日常を続けながらも、外のざわめきが耳に入らぬはずもなかった。
街に出れば、子供たちが「光の令嬢だ!」と駆け寄り、貴婦人たちが羨望と憧れの眼差しを向ける。
人々の期待は、温かなものと同時に、彼女の肩に重くのしかかる。
ひとりの少女としてはただ穏やかに生きたい。けれど、古代魔法を継ぐ者としての宿命は、否応なく彼女を大陸規模の渦へと押し上げていくのだった。
◇ ◇ ◇
一方、塔の上層にある静かな研究室では、レオンが古の魔法書をひも解いていた。
書き込まれた古代語は解読困難だったが、長年の研鑽を積んだ彼の目はそこに隠された警告を読み取る。
「……やはり、そうか」
ページの奥底から立ち昇るような文字列。そこには、「世界を飲み込む災厄」が再び目覚めようとしていると記されていた。
大地を裂き、空を覆い、人々の魂を飲み込む漆黒の影――。それは数百年前、古代魔導士たちが命を賭して封じた存在だった。
そして、その災厄を完全に鎮められるのは「古代魔法の継承者」と「彼女を護る契約者」だけ。
レオンの心臓が強く脈打った。
――アリシア。
◇ ◇ ◇
その夜。窓辺に月光が差し込む塔の一室で、アリシアは彼に抱き寄せられていた。
「れ、レオン様……? こんな夜更けに……」
「起こしてすまない。だが、どうしても伝えておきたかった」
彼の声音は低く、緊迫を帯びている。
大きな手で彼女の肩を包み込み、耳元に囁いた。
「君を狙うものが、大陸の至るところにいる。各国の密使たちは皆、君を奪いに来ている。……そして、古の災厄もまた、君を求めている」
「……私を……?」
「そうだ。だから俺から離れるな。君を護るのは、この世で俺だけだ」
強く、まるで決意を刻み込むように言い切る。その熱は甘さと同時に、確かな不安を伴っていた。
アリシアは小さな手で彼の胸元を掴み返す。
不安はあった。震えもした。だが――。
「……私は、一人ではありませんものね」
彼女の瞳は揺れても、決して怯えきらなかった。そこには、彼と共に歩むと決めた誇りがあった。
レオンは彼女の額にそっと口づけ、囁く。
「必ず護る。君が俺を選んでくれたあの日から、俺の生は君のためにある」
アリシアは胸に広がる温もりを抱き締め、微笑んだ。
こうして二人は互いの温もりを確かめ合う。
けれど、外の世界は確実に嵐の前触れに包まれていた。
密使の足音、王宮の会議、古代書に刻まれた警告。
全てが一つの未来を示していた。
――大陸規模の脅威が、迫っている。
愛と幸福に満たされた日常。その裏で、世界の均衡は静かに崩れ始めていたのだった。




