濡れ女
恋をしたのは、後にも先にもその一度きりだった。
小さな港町に生まれ、ありきたりな人生を歩み、ありふれた悩みを抱えた僕が、あの人に出会ったのは十八歳の夏休み。
予備校から家に帰るため、街灯に照らされた海岸沿いの道路を自転車で走っている時だった。
堤防の上に、人影があるのに気がつく。
どうやら、女の人のようだ。
海の方へ足を投げ出して座っていて、下ろした長い髪が、背中にべっとりと張り付いている。
時刻は間もなく十九時になろうかというところ。
辺りは薄暗く、空気は生ぬるい。
不気味に思った僕は、そのまま女の人の後ろを通り過ぎた。
しかし、数メートル進んだところでブレーキを握る。
繰り返される波音を断ち切るように、キィと耳障りな音が鳴った。
後ろを振り返るが、女の人は海の方を見つめたまま。
「あの」
今になってみれば、この時の自分の行動を不思議に思う。
得体の知らぬ人間に、自分から声をかけるなんて。
それだけ息苦しい毎日に、絶望を感じていたという事だろうか。
あの頃の記憶はしっかりと残っているというのに、苦しみまでは思い出す事はできない。
こちらを向いた女の人は、濡れていた。
どしゃ降りにでもあったかのように、頭の先から足の先までびっしょりと。
水を吸った赤いドレスから伸びている腕や足は病的なまでに細く、肌は青白い。
長く黒い髪がテラテラと液体のように光っている。
町では見た事のない若い女の人だ。
それだけで僕の心臓は早くなった。
「だ、大丈夫ですか?」
緊張から声が裏返り、赤くなった僕を、彼女は不思議そうに見つめる。
「も、もしかして、海に落ちたとか?」
彼女は悲しそうな笑みを湛えて、僕に手招きをした。
這うように堤防へ登って行くと、甘ったるい香水の香りが、潮風に混ざって鼻に届く。
「ねぇ。煙草持ってない?電子じゃないやつ」
頂上にたどり着いた僕へ、彼女はボロボロになった紙の箱を見せる。
「い、いえ。未成年なので」
「あー」
そのつまらなそうな声に、後悔が湧く。
僕が煙草を吸うようになったのは、これが切っ掛けだったかもしれない。
「ここで、何を?」
「なんか嫌になっちゃったんだよね」
「なにが?」
「全部」
表情が気になり目を向けると、思いのほか近くに顔があったものだから驚く。
反らした視線が大きく開いた胸元にぶつかり、また慌てて海の方へ目を向けた。
無言の時間がやって来て、何か話そうと頭を働かせるけど、浮かんでくるのは言葉ではなく疑問や憶測。
何故こんなところにいたのだろうか。何故濡れているのだろうか。尋ねて気分を害したりはしないだろうか。
格好からして、夜の店で働いている人なのかもしれない。
駅の近くに、スナックなんかが集まっているエリアがある。
だけど彼女があんな寂れた場所で働いている想像はつかなかった。
口を動かす事が出来ないまま、波が何度も堤防の壁にぶつかり飛沫をあげた。
不意に小さな振動が起こり、彼女は震えるスマホを顔の前に持ってきて、舌打ちを鳴らす。
「これ、防水じゃなかったんだ」
忌々しそうに呟き、立ち上がる。
「海。落ちないようにね」
自分の傍らに置いてあった靴を堤防の下に転がすと、自らもペタペタと道路へと下り始めた。
「あ、あの!」
立ち去ろうとする彼女へ、僕は声にした。
「僕も同じです」
首を傾げた彼女へ、更に続ける。
「僕も嫌なんです!全部。この町には何もないし、周りには馬鹿ばっかりで。それで……」
恋物語の始まりとしては、及第点といったところだったかもしれない。
確かにこの日、僕は彼女に恋をした。
ただ、迎える結末は、これ以上ないほどのバッドエンドだ。
そうでもなければ、僕がこの街に帰ってくる事はなかっただろう。
*
おおよそ二年ぶりに目にする故郷の海は、彼女が命を絶ったという事を抜きにしても、やはり陰鬱としていて好きにはなれない。
町に入ってから、例の幻聴がずっと続いていた。
オギャア、オギャアという泣き声が頭の中を震わせ、苛立ちと頭痛を運んで来る。
額からは汗が滲み、ハンドルを握る力は強くなった。
彼女に近付く事になるため、ある程度は予想はしていたけど、これほど長く幻聴が続くのは初めてだ。
おまけに車の中には悪臭が立ち込めている。
面倒を避けるため窓を開ける事も出来ないため、口だけで呼吸を繰り返し、アクセルを踏み込む。
最初に彼女に会った後、僕は夏休みの暇を利用し、駅の近くやあの堤防の辺りへ足しげく通ったけど、彼女に会う事は叶わなかった。
だけど二学期が始まり、虚しいだけの毎日が彼女への熱を冷まし始めた頃、再会を果たす事になる。
町の駅の西側には、錆でまみれたアパートや古くから続くが船宿、釣具屋が並ぶ、時代に取り残されたエリアがある。
放課後。滅多に立ち寄らないその場所に僕が向かったのは、ほんの気まぐれ。
いつもと違う景色が見たくなって遠回りをして家に帰ろうとしていたというだけの理由で、そんな日に彼女と偶然出会った事は運命と呼べるのかもしれない。
彼女は寂れたビルの前に立っていた。
僕のよく知る人物と一緒に。
予備校で現国を教えている講師だった。
三十代半ばの眼鏡をかけた男で、髪がぼさぼさとしていて陰気な印象。
実際、講義も声が小さくて聞こえない事もあるし、必要な事を淡々と教えてくるだけで、講師というよりは研究者のような人だ。
奥さんも、子供もいる。
この瞬間までは、町の中では珍しく好感の持てる人物だった。
ビルの前で話す二人に、僕は大きく狼狽えた。
そのビルがただのビジネスホテルではない事は、僕でも知っていたから。
並んで立つ二人はどこかよそよそしく、そのよそよそしさが、二人の関係により現実味を与えていた。
思えば、わざわざあんな潰れかけのホテルを使っていたのも、人目を避けて事だったのだろう。
僕はその場から動けなくなってしまった。
呆然として二人の様子を見つめていると、不意に彼女と視線がぶつかる。
つられるようにこちらを向いた先生が、目を大きくさせたその時、僕は慌てて自転車を反転させ、ペダルを踏んだ。
もしあの時、僕が逃げ出していなければ、彼女の人生は違うものになっていたのだろうか。
もしあの時、僕がいつもの道で帰っていたなら、彼女が命を落とす事はなかっただろうか。
*
予約していたホテルに到着すると、そのままベッド倒れ込んだ。
実家に帰るつもりは毛頭なかった。
彼女に関わる事を除き、生まれ育ったこの町に、いい思い出は何もない。
運転の疲れがあったのか、すぐに眠気がやってきた。
しかし瞼が閉じかけたところで、あの幻聴がやってくる。
オギャア、オギャアと、赤ん坊の泣き声が、僕の頭の中で響き始める。
たまらず起き上がろうとすると、体が動かなかった。
どれだけ力を込めようと、上から巨大な力で押さえ付けられているかのように、動かない。
オギャア。オギャア。
泣き声が大きくなっていく。
オギャア。オギャア。
体が押し潰されていく。
視界がぐにゃぐにゃと揺れ、息が苦しい。
全身から吹き出る汗が、体を伝って落ちていく。
「や、やめて……」
口の端から涎を垂らしながら、どうにか言葉にしたその時。
ビチャッ。
水の音が耳に届いた。
赤ん坊の泣き声が響く中、妙にはっきりと聞こえるその音は、ビチャッ。ビチャッと、少しずつこちらへ近付いてくる。
何者かが、僕の枕元に立った。
ハァハァという荒い息づかいと共に、磯の匂いが鼻に届く。
体は動かないまま。
目だけを気配のする方へ向けると、視界の端で濡れた真っ黒な髪が揺れているのが微かに見える。
髪から滴る水滴が、ベットに落ちてボタボタと音を鳴らした。
「あ、焦らないで。もうすぐだから……」
泣き声が止み、フッと体が軽くなる。
起き上がって部屋を見渡すと、入り口のドアからベッドに続く、カーペットの染みだけが残っていた。
*
翌朝、目を覚ました僕はチェックアウトを済ませると車に乗り込んだ。
相変わらず車内は酷い匂いだけど、心は軽い。
ようやく全てを終わらせる事ができる。
彼女の密会を見た翌日。予備校から自宅へ向け自転車を走らせていると、初めて会ったあの場所で、彼女が僕を待っていた。
「あの人の、教え子なんだってね」
堤防の上に腰掛け、夜風に長い髪を靡かせながら、彼女は僕に聞いた。
「講義を受けていただけで、教え子ってわけでは」
「やっぱり見てたの、キミだったんだ」
「あっ……」
「悪いんだけど、内緒にしておいてくれないかな。私達の事」
「あの。先生とはどんな?」
「何もない、って言ったら信じてくれる?」
僕は何も答えられなかった。
「……でも、本当に何もないんだよ。あの人はただ側にいただけ」
そう言って彼女は、自分の身の上を語りだす。
退屈な地元を飛び出し、東京で暮らし始めた事。
よくない男に引っ掛かり、人生をめちゃくちゃにされ、半年くらい前にこの町に逃げ込んできた事。
「よくある話でしょ」と、彼女は哀しそうに笑う。
「あの人とは、ここに来てから働いているお店で出会ったの。本当にそれだけ。ただ、この前、言ったでしょ。何もかもが嫌になったって。だから……」
後に分かった事だけど、彼女の腕には幾つもの傷痕があった。
つまり、先生とホテルの前にいたは、海でずぶ濡れになっていたの同じだと、彼女は言いたいのだろう。
少なくとも当時の僕は、彼女の言葉をそう受け取った。
「でも、それで誰かに迷惑をかけるのは違うから」
「だったら……」
俯いた彼女を見て、僕は拳を握りしめる。
「だったら僕に、先生の変わりをさせてくれませんか?」
彼女は驚いた顔をこちらに見せた後「分かった」と、僕に口づけした。
「な、なにをっ……」
「キミの言う代わりって、つまり。こういう事でしょ」
脅そうなんて考えていたわけじゃない。
僕はただ彼女の助けになりたい一心で、それでも再び迫る唇を、拒む事は出来なかった。
*
景気のいい場所に来ると不思議と煙草が吸いたくなる。
足元に広がる海を眺めながら、僕は煙を燻らせた。
ホテルから彼女が飛び降りたとされる崖までは、車で一時間ほどだった。
流れ着いた場所は違っていたけど、この場所へ向かって行く彼女を町の人間が見ていたそうだ。
先生の代わりになってから、彼女がいなくなるまでの五ヶ月間。僕は度々、彼女の心の中に先生の存在を感じた。
当時の僕はそれを塗り潰す事ばかり考えていた。
その方が彼女の幸せに繋がると思っていた。
だけど、彼女は突如としていなくなってしまった。
遠くの浜で打ち上げられた彼女のお腹に、もう一つの命が宿っていたと知った時、僕はこの町を飛び出した。
試験を終えた僕が行かなくなった後、いつの間にか予備校を辞め、家族と共にどこかへ引っ越していた先生の行方を探すために。
町を離れるために受けた受験は、両親を納得させる丁度いい口実になった。
そして二年の歳月を費やし、僕は先生を見つけた。
しかし先生は、どれだけ問い詰めても彼女との関係を認めようとせず、それどころか彼女の死や、子供がいた事すら知らない様子を見せた。
こんな無責任な人間のために、いなくならなければならなかった彼女達の無念は、きっと計り知れないものだろう。
だからこそ僕は、ここに導かれたのだ。
短くなった煙草を、力強く揉み消した。
車の後ろへ回り、トランクを開くと、悪臭を放つ肉の塊を抱え上げる。
「さあ。罪を償う時が来ましたよ」
呟き、振り返ると、声を失う。
崖を背に、濡れた女が立っていた。
赤いドレス。青紫色の肌。真っ黒な髪が、顔全体を覆っている。
「来てくれたんだ」
僕は彼女に微笑みかけ、足を一歩踏み出す。
次の瞬間。
オギャァア!
今までで一番大きな泣き声が、僕の脳みそを振るわせた。
締め付けられるような痛みが頭に走り、全身から汗が吹き出す。
立っている事ができなくなり地面に膝を着く。先生の体がゴロリとその場に転がった。
泣き声は止まない。
痛みを押さえ込むように頭を抱えたまま、汗と涙でびしょ濡れになった顔を上げると、その先にはこちらを指さす彼女の姿。
「な、なんで……」
不意に、小さな何かが僕の腕を掴んだ。
ああ。そうか。
この子の父親は……。
僕の体は海へ向け、猛スピードで引きずられていく。
完