第4話 崩壊と絶望、その先に
──あれから、多分何日かは経ったと思う。
カーテンを閉め切った、薄暗くて寒いリビングダイニング。そこであたしは、ひたすら膝を抱えていた。
呼吸すら億劫なほど重い体を無理やり動かして、部屋着に着替えて髪も下ろしたけど、残滓に等しかったあたしの気力はそこで尽きた。以降は何もする気になれずにいる。
食欲なんかいつも以上に失せているし、暇さえあれば読み耽るほど好きな本すら、最早興味も湧かない。動くことがあるとすれば、限界まで喉が渇いた時に作り置きのアイスティーを飲むくらいだ。
今日は何日で、今何時なんだろう。外が明るいから夜じゃないのは分かるけど、カレンダーや壁掛け時計に視線を動かす体力もないし、時折チャットの通知音が鳴るスマホは触ってすらいない。
日付も読書も、何もかもどうでもいい。頭の中を占めるのは、鱓野さんのことばっかり。
「……鱓野さん、どうして……」
考える度に、あの時の彼の顔がフラッシュバックする。
一緒にいたかっただけなのに、それが依存じみてて重苦しいって。笑顔も愛嬌もないあたしなんか、いても楽しくないって。わがままなあたしから開放されて、清々するって。
あたしと出会わなきゃよかった、あたしなんか大嫌いだ……って。
そう怒鳴り散らしていた鱓野さんは、あの時……。
その声とは裏腹に、両目に溜めた涙が零れ落ちるのを必死に堪えるような、ひどく苦しそうな顔をしていた。
「……何で、あんな顔してたの……?」
あの時は彼の言葉に気を取られて気づけなかったけど、よく考えてみればおかしな話だと思う。
あの言葉が本心なら……本当にあたしのことが大嫌いなら。何であんな、まるで身を切られている最中のような苦悶の顔をする必要があったんだろうか、と。
分からない。だから、知りたい。彼の泣きそうな顔なんて見たことなかったから。
あんなに苦しそうにしながら言っていたくらいだから、もしかしたら……。
あの言葉は、鱓野さんの本心じゃないのかもしれない。
だって、昨日一昨日とずっと様子がおかしかったし、そもそも1ヶ月も休学していたんだ。なら、その間に何か……そう言わなきゃいけない事情ができたのかもしれない。
もしそうなら……だとしたら──。
「……だとしたって、何だって言うの」
彼の本心がどうであれ、彼があたしとの絶縁を望んだことに変わりはないんだ。どんな推測立てたって、それはあたしの「こうであってほしい」という願望でしかない。
何より、それを鱓野さんに確かめる勇気がない。万一本心だったらあたしの連絡なんか無視するだろうし、そうでなくとも、またあんな拒絶と嫌悪を浴びせられたら……。
「…………もう、やだ」
壁に沿ってズルズルと床に倒れ込んで、そのまま抱えた膝に顔を埋めて目を閉じる。
もう、いい加減に惨めだ。こうかもしれない、ああかもしれない……なんて妄想を頼りに、この期に及んでまだ鱓野さんに縋ろうとしている。そんなんだから依存じみて重いなんて言われるんだ、あたしは。
だから、やめよう。無意味に希望を作ろうとするのは。このまま独りっきりで、誰の目にも触れず、幸せな思い出にだけ溺れ続けて……そのまま跡形もなく消えてしまえたら。
そうすれば、鱓野さんにも誰にも、もう嫌われずに済むよね。
「……今までごめんね、鱓野さん」
そうしてあたしは、目を開けることすらやめた。
覚えている限りの楽しかった日々を、走馬灯よろしく頭に巡らせて……辛いことは、思い出しそうになったそばから記憶の外へ追い出して。そうしていれば、いつか消えるまで幸せでいられるだろうから。
……なのに、喉が痛くなるまで渇けば、テーブルの上に放置したアイスティーに手が伸びてしまう。その度、内心自嘲が込み上げてくる。
何度も何度も、それを繰り返している。
「……やだな、ほんと。何してるの、あたし」
けれど、何となく分かっている。
もう消えたいことに嘘はないけど、でも……本当は、あたしは……。
──そんな中、また喉の渇きに耐えられなくなったあたしは体を起こす。ずっと固いフローリングに横たわっているからか、身体のどこもかしこも軋んで言うことを聞いてくれない。
それ以前に全身至るところが痛いし、同じくらい体も頭も痒い。……当たり前か、もうずっとお風呂に入ってすらいないんだから。
壁まで戻る気力も失ったあたしは、テーブルのすぐ横に倒れていた。だからテーブルに掴まりさえすれば、何とか身体を起こすことはできる。そうやって起きようとした瞬間、デスクから聞き覚えのある音楽が流れてきた。
(この音……通話の着信音か)
そういえば、スマホはデスクに置いてそのままだっけ。すっかり忘れてた。
出る気になれない着信は無視して膝立ちになり、ウォーターピッチャーからグラスに注いだアイスティーを、時間をかけて喉に流し込んでいく。その間に着信音は途切れた。
こうやって水分は最低限摂っているものの、食べ物はクリスマス以来何も口にしていない。おかげで膝で身体を支えるのも辛くてその場に転がった時、また着信音がリビングダイニングに響いた。
無視しても、着信音はしつこくあたしを呼び続ける。途切れては鳴り出し、途切れては鳴り出し……かけてくる相手は一向に諦める気配がない。
「……煩いな。何なの……?」
流石に聞き流せなくなったあたしは、這いつくばいながらデスクに向かって、膝立ちになってデスク上のスマホを手探りで掴んだ……と同時に着信音は切れた。
デスクに凭れて座りながら画面を点けると、鱓野さんと撮った写真が視界に飛び込んでくる。彼の眩しい笑顔を視界から追い出すようにように目を向けた日時の表示は、1月3日の11:35だった。
「……嘘、もうそんなに経ってたの……?」
まさか年まで明けていたなんて……。チャットたくさん来ているだろうなとは思っていたけど、流石にそこまで放置していたとは思ってもみなかったから、途端に申し訳なさが込み上げてくる。
「にしても、一体誰から……って、え……?」
ロックを解除し、ホーム画面にあるチャットアプリのアイコン横に表示されている、未読通知の数……それは300を超えていた。
届いているのは海老原さんや紗蘭さん、それとバイト先の店主さんからのメッセージ。……当然だけど、鱓野さんからは何も来ていない。
けど、それ以上に目を引くのは……。
「兄様からの通知……200件近くも……!?」
普段はあまりメッセージを送ってこない実の兄。その兄様からの通知が一番多かった。
油断した。年末は帰省しろって言われていなかったのに、まさか兄様から連絡が来るなんて。しかも、こんなに……。
見なくても分かる、確実に既読すらつけなかったことを怒っているはずだ。兄様と知っていて無視したわけじゃないけど、そんな言い訳で許してくれる人じゃない。
というか、さっきの着信……もしかして全部兄様からなんじゃ──。
「わ……!」
嫌な汗が背中を伝い始めた時、また着信音が流れてスマホが震え始める。驚いた拍子に視界から外してしまったスマホの画面へ、恐る恐る視線を戻す……が、そこに出た名前は兄様のものではなく……。
(……海老原さん?)
今までの着信も、海老原さんからだったのかな。タイミングからしてそうだと思うけど……とにかく兄様じゃないなら良かった。
詰まっていた息をホッとつきながら、あたしは通話開始のボタンをタップした。
「もしも──」
『エル⁉ ああよかった、やっと出てくれた……‼』
電話口から鼓膜に刺さってきた海老原さんの声は、叫んでいるに等しい焦りに満ちたものだった。思わず少しスマホと距離を取ってしまう。
彼の口ぶりから察するに、着信は全て海老原さんからみたい。
「……どうしたの、何回もかけてきてたみたいだけど」
『エル、君は今どこにいるんだ⁉』
「あたし……? 家だけど……」
『そうか、家か……よかった……!』
「……それで、何の用事?」
『あ、ああ……。エル、今朝のニュースは、その……見たかい?』
「……いや」
『…………なら……落ち着いて聞いてくれ』
「……何」
『2人が──鱓野先輩と紗蘭が、死んでいたんだ』
…………………………………………。
「……………………は……?」
『都内の倉庫で遺体が見つかったニュース、あっただろう? ほら、年明けの。その遺体が2人のもので、身元が判明したのが今朝だったらしくて……僕もニュースで知ったんだけれど──』
「うそ、でしょ……」
『……気持ちは分かるが、嘘じゃないんだ』
「嘘、嘘だそんなの! 信じられない……いくら海老原さんだからって、そんな冗談許さないから!」
『冗談で言うものか、こんな縁起でもないこと‼ 僕だって信じられなかったさ……悪い夢でも見てるんじゃないかって! 先輩と紗蘭の悪趣味なイタズラなんじゃないかって、そうであってくれって‼』
「──っ‼」
『……すまない、取り乱して。でも、本当に嘘じゃないんだ。どうしても信じられないのなら、ニュースを見てくれ。ちょうど今、流れているはずだから』
「……分かった」
スマホを片手に、デスクに体重を預けながら立ち上がる。ふらついて転びそうになるのを何とかこらえながら、デスク上のテレビリモコンを手に取った。
微かに震える手でテレビに向けたリモコンの電源ボタンを押すと、数秒遅れてテレビ画面が点く。
チャンネルは、ちょうどお昼のニュースだった。
『──では、最新の情報です。先月31日未明、東京都内の埠頭倉庫にて火災が発生し、倉庫内から2人の遺体が見つかった事件。DNA鑑定の結果、都内在住の大学生である鱓野 仁さんと、嶋崎 紗蘭さんの遺体であることが判明しました』
「────────」
ニュースキャスターの声に合わせて切り替わった、焼け落ちた倉庫と思しき、大きな黒焦げの骨組みの映像。それを背景に映し出される、2人分の写真と名前。
それは見間違いようもない、あたしがよく知る……。
鱓野さんと紗蘭さんの、顔と、名前。
『鱓野さんは遺体の状況から当初は焼死と思われていましたが、検死の結果、遺体には刺し傷が見られ、直接の死因はこの刺し傷とのことです。嶋崎さんの死因は焼死と見られています。警視庁は、鱓野さんは他殺の可能性があると見ており、発見時には少なくとも死後2日が経過していたとの見解を示しています』
何これ。何の話してるの。紗蘭さんが焼死? 鱓野さんに刺し傷? 他殺?
死後2日って、じゃあ、あたしが何も知らずに塞ぎ込んでた間に……鱓野さんは……。
『また、現場からはライターと思しき物が発見されており、異憑の能力の痕跡が現場に残っていないことから、警視庁はこれが火元と見て事件事故両面で捜査を──』
「……………………」
『エル……』
「…………んで」
『え?』
「なんでっ……なんで、こんなことなってるの……? 鱓野さん……殺されたの? 焼死? 紗蘭さんが? そんな、そんなのって、何で……何で、なんでなんでなんで!」
『エル! 落ち着い──』
「鱓野さんだって、クリスマスの時は生きてて……なのに、こんな……こんなの……」
『……クリスマス?』
「やめて……もうやめて……しらない、なんもききたくない、こんなの……やだ……やだやだやだやだ……っ!」
『エルっ──』
『尚、鱓野 仁さんは東京都内に拠点を置く──』
「いやあぁああぁあ!!!」
自分のものとはとても思えない絶叫と、バリンという破砕音が、どこか遠くに聞こえた。テレビに投げつけたスマホはその液晶を叩き割って黒く染め、そのまま床に落ちた。
さっきまで立つのもやっとだったのに、どこにそんな余力があったのか不思議なくらい、あたしは叫び散らす。
叫んで、喚いて……目につく物を片っ端から床に叩きつけていく。そうやって感情を吐き散らかさないと、二度と正気に戻れないくらいに気が触れてしまいそうで、止まれない。いや、もうとっくに正気じゃないのかもしれない。
あれだけ重たかった体が嘘みたいに簡単に動いて、今だけあたしの体じゃなくなったみたいで。自分の絶叫で満ちる部屋が、自分の手で荒れていく様を、どこかぼんやりと眺めている。
あたしを暴れさせるこの感情は何なんだろう。怒りなのか、悲しみなのか、虚しさなのか……どれも違うような、全部に蝕まれているような。それでいて、この感情に覚えがあるような。昔、散々味わわされた絶望の感覚が、今のこれとよく似ていたような。
暴れ狂う体に反して妙に冷静な頭は、他人事みたいにそんなことを考えていた。
……ようやく体が止まった頃には、もう疲れ果てて本当に動けなくなっていた。
空き巣に漁られたあとのような部屋で、あたしは床にへたり込んで俯く。
「……どう、して…………どうして……?」
何の音もしなくなった空間で、ひたすら虚空に問いかける。うわ言は勝手に零れるのに、涙は欠片も零れない。こんなに悲しいのに。
あたし、何のために生きてたんだろう。鱓野さんに嫌われても尚、心のどこかで会いたいって願っていて、だから命は手放せなかったのに。
鱓野さんはいない。紗蘭さんもいない。海老原さんと真璃愛さんがいてくれたって、この辛さには、きっと耐えきれない。
このまま生きていたって、いずれは実家に連れ戻される。逃げ道はない。逃げようとしたって、兄様や実家の人間が追ってくる。あんな風に、大量のメッセージをよこしてきたように。そして、あたしはあの家の私腹の肥やしとして、きっと死ぬまで利用されるんだ。
実家にとって、あたしは無憑という劣等種だから。劣等種は、娘でも妹でもないから。どう足掻いたって、あたしは地獄にしか行き着けない。
ならばもう……そうなる前に、本当に消えてしまえたら……。
「…………あ」
ふと、ある物が床に転がっていることに気づく。デスク上のペン立てに差してあったであろう、細いカッターナイフ。
吸い寄せられるように手に取ったそれは、ほとんど使っていない物。だから、きっと……人間の手首なんか、簡単に切れるはずだ。
「そうだよ。消えちゃえばいいんだよ、あたしも」
日常も友情も、とっくに壊れきった。だから、あたしの命も壊れてしまえ。取り返しもつかないほどに、跡形もなく、終わってしまえばいい。
……落ちていた手帳とペンを拾って、真っ白なページにサラサラとペン先を走らせる。
クリスマスに起こったこと、その後と今日のこと、もう生きていく希望も見出せないこと、だからこれから自殺すること……。
それらを淡々と綴った、見る人がいるかも分からない簡素な遺書をデスクに残して、あたしはカッターを手にバスルームへ向かう。疲れ果てていたのにスタスタと、我ながら死にに行くとは思えないほど軽い足取りで。
そしてバスタブにお湯を張って、カッターで左手首を切り裂いて。そうして、仄暗く寒いバスルームで、駆けつけてきた海老原さんと真璃愛さんに看取られながら……。
あたしは幸せいっぱいに、息絶えることができたと……当たり前だけど、そう思っていた。
次に目を開けた、その先。
真冬とは思えないくらい蒸し暑い大学の中庭で、死んだはずの鱓野さんがクリスマスのことなど覚えていないかのように笑いかけてくるのを、この目で確かに見るまでは──。