第3話 夢なんかじゃない
鱓野さんは、気さくで人付き合いも得意そうな性格だけど、誰かに頼るということはほとんどしない人だった。
学力も運動神経もいい方だし、人より力が強い割に手先が器用。基本何事も自分1人でこなせるから、わざわざ誰かを頼ったりはしないんだと思う。それは、あたしに対しても例外じゃなかった。
だから鱓野さんに「頼みがある」と言われた時、珍しく彼があたしを頼ってくれたんだって嬉しかったし、本気であたしにできることなら何でもするつもりだった。
……なのに。
「──俺と、もう二度と関わらないでくれ」
その頼みが、よりによって今最も聞きたくない一言だなんて。
「……………………えっ?」
「そーゆーコトだから、もうあんたと会うこともねぇよ。今日が最後な」
「……なん、で──」
「話は終わり。もう真っ暗だし、駅までは送ってくから。とっとと行こーぜ」
「待っ……!」
鱓野さんはあたしの声なんか聞く気ないと言わんばかりにさっさと立ち上がって、スタスタと来た道を戻っていく。
送っていくと言っておきながら、あたしのことなんか意に介していない……そんな足取り。
「っ……待ってってば! 鱓野さん!」
正直状況を飲み込みきれないけど、それでも身体は自然と動くもので、走れば少し先まで行っていた鱓野さんに追いつけた。
そして、飛びつくような勢いで……というか実際に彼の右腕に飛びついて、そのまま全体重をかけてしがみついた。
「勝手に終わらせないでよ……あたしまだ何も言ってない……!」
これ以上進ませまいと、出せる限りの力で鱓野さんの腕を抱きしめ、足を地面に縫い止めるように踏ん張った。あたしが出せる限界なんて、鱓野さんがその気になれば簡単に振り解ける程度の力だと思うけど、彼は足を止めてくれた。
ゆっくり振り向いた鱓野さんは、能面と見紛うような無表情で、竜胆色の瞳は氷みたいに冷たくて、無機質で……何より昏い。
そこに、いつもの快活で優しい鱓野さんはいない。あまりの違いように一瞬背筋に走った悪寒は、夜の寒気よりよっぽど身も心も凍えさせる。
けど、怯みそうになるのを何とか堪えて、離しかけた両手に力を入れ直す。
「……あんたが何言っても、終わりは終わりなの。離してくんね?」
「…………嫌」
「離してって。悪ぃけど、今はあんたのわがまま聞いてる場合じゃねぇんだよ」
「わがままはどっち⁉ いつもみたいに遊んでたじゃない、さっきまで! 楽しかったって言ってたのに、それがいきなり二度と関わるなって……何なのそれ! そんなこと言われて、納得できると思う? 無理だよ、そんなの……!」
「……………………」
「それとも何? あたし、そんな急に嫌われるようなことしちゃった……? だから、関わるななんて言うの? ……だったら、もうしないから。二度とあなたの機嫌損ねたりしないって約束するから! だからっ……ねぇ、お願い──」
あたしを、あなたの傍から捨てないで。
そう紡ぎかけた口は、それを言葉にできずに呼吸ごと止まった。
塞がれたわけじゃない。鱓野さんの腕を掴んでいた両手を叩くように振り払われた、その痛みと衝撃で、体の何もかもが動かなかったから。
まるで害虫でも払うように、他ならぬ彼に。
「……うつ、ぼ、の……さ──」
「……分からず屋もいい加減にしろよ」
「え……」
「それとも、1から全部ハッキリ言わなきゃ理解できねぇの? じゃあ言ってやるよ。……俺が! あんたと! 関わりたくねぇんだよ‼」
爆発音のように轟いた怒鳴り声は、暗夜へと吸い込まれる。なのにあたしの耳には、皮肉なくらい明瞭に刺さって、反響して……残響になって消えてくれない。
そんな程度の闇じゃ、視界の真ん中で酷く歪んでいる鱓野さんの顔だって、よく見えてしまう。その顔は、おちゃらけているけど優しくて温かい……あたしがよく知るそんな鱓野さんが、まるで全部嘘だったみたいに、ぐしゃぐしゃで。
違う。こんなの知らない。こんな鱓野さんは知らない。知りたくない。分かりたくない。
「そうやって俺らに依存じみたことしてんの重っ苦しいって、言われなくても分かれよ!! そのくせ笑いもしねぇで、愛嬌の1つもなくってさぁ! そんなのと一緒にいて楽しい奴とか、いるわけねぇだろ! そんくらいも分かんねぇ? 分かんねぇよなぁ、適当な嘘も真に受けて俺らにつきまとうような、あんたなんかには‼」
依存なんて、そんなつもりじゃなかった。ただ、みんなと、鱓野さんと一緒にいたかっただけで。独りに戻るのだけは嫌だったってだけで。
笑うのも、無理に笑わなくていいって。いつか笑えるようになったら見せてって。そう言ったのは、あなたなのに。
それも、今日楽しかったのも、全部……嘘だったの……?
「こんなことなら、あんたが入学したばっかの時、下手に優しくするんじゃなかったよ! 気まぐれでちょっと親切にしたらこんな懐かれるとか、思ってなかったし……。依存してくるわ、飯食えねぇとかワケわかんねぇわがまま言うわ……そんなのの子守りからやっと開放されるって思うと、心の底から清々するよ‼」
振り払われた両手が熱い。胸の奥が冷たい。どっちも、痛い。いたくて、たまらない。
いきが、できない。しんぞうが、どくどくって、くるしくて。
「あんたとなんか、出会わなきゃよかった。あんたのことなんか──」
いや、いやだよ。もうやめて。ごめんなさい。
だから、おねがい。ききたくない。それいじょうは。
それだけ、は──。
「ずっと……大嫌いだったよ──」
「────…………」
…………そう言われたあとのことは、全く覚えていない。
気がついたら、そこはあたしの家で……マフラーもコートも身につけたまま、リビングダイニングの床に倒れ込んでいた。……心なしか、コートが汚れている気がする。
僅かな隙間を残して閉めてあるカーテンからは白けた光が射し込んで、電気が点いてない薄暗い部屋の微かな明かりになっている。
「…………あたし、何で家に……?」
起き抜けで思うように力を入れられない両腕で、何とか上体を起こす。立ち上がる気力まではなくて、床に座り込んだまま、目を覚ますまでの記憶を手繰り寄せた。
確か……鱓野さんの誘いで一緒に遊んだり、ご飯食べたり、それで……最後に来たことない公園の奥に連れて行かれて……。
そこで、鱓野さんに…………。
「……う……っ」
思い出したくない。信じたくない。
鱓野さんに、ずっと嫌われていただなんて。
「嘘って言ってよ……こんなの……」
嘘だと、夢だと思わせてほしい。
あれはただ、悪い夢を見ていたんだと、現実じゃないと──。
「……うん、そうだよ。夢だよ、あんなの……」
きっと、遊びに行く準備をしてる間にうっかり寝ちゃって、変な夢でも見てたんだ。外も、ほら、まだ明るいから。あんなに明るいなら、待ち合わせまでまだ時間あるだろうな。
だから、大丈夫。これから久しぶりに鱓野さんと会えるんだから。それで……そう、楽しいお出かけが待ってるはずだから。
まずは、寝てる間に崩れちゃった髪と、服を整えなくちゃ。そしたら、家を出るまで、本読んで時間潰して──。
「……?」
立ち上がろうとして床に手をつき直すと、その手に何かが当たった。
それは床に放り出されていた、愛用の手帳。開きっぱなしのページをよく見ると、何故か真っ黒に塗り潰されていた。
……いや、塗り潰されているのとは少し違う。おびただしいまでの文字がページを埋め尽くしているせいで、そう見えたんだ。
こんなの書いた覚えはないし、ほとんど何が書いてあるのか分からないけど、何とか判読できるものもある。
「やだ」「ごめんなさい」「どうして」「すてないで」「きらいにならないで」……。
ページを戻ってみると、日記が記されていた。お出かけのことや、鱓野さんの様子がおかしいことが書かれた……クリスマスイブの、日記が。
「…………嘘だよ、ね。だって、クリスマスは、今日で……まだ日記、つけてなく……て……」
ほとんど首を動かせず、ほぼ視線だけでキョロキョロと周囲を見渡してスマホを探すと、それは床に放り出されているミニリュックの近くに転がっていた。
カタツムリみたいな速度で這って拾いに行って、震える指先でロック画面を点けると、そこに大きく表示された日付は……12月26日。
つまり、クリスマスの翌日。
「…………ゆめ……じゃない、の……?」
いつのことだったか、鱓野さんとツーショットで撮った写真。それを呆然と眺めながら呟くと同時に、画面がブラックアウトして消えた。
その瞬間、鼻の奥がツンと痛んで、目頭が急に熱を持つと同時に、視界に映る何もかもがぼやけた。何故かと思う間もなく、真っ黒な画面に落ちてくる、微温い雫。
頬を、両手を、大粒のそれが濡らしていく。
「っ……ぁ……ひっぐ、う……ぅう……!」
本当は分かってた。全部、悪い夢でも嘘でもないって。
あたしは、鱓野さんに、嫌われたんだって。ずっと前から嫌われてたって。
大好きな友達だと思ってたのは……あたしだけだったんだって。
「ぅうあぁっ……あぁ、ああぁ……! うああぁあぁぁあ‼」
……どのくらいそうしていたのか、分からない。
絶えず押し寄せてくる悲しみのままに、涙で溺れるかと思うほど泣き叫んで、そんな涙も声も枯れた頃に気絶するように眠って……。
次に気がついた時には、外から差し込む光は、白から茜色に変わっていた。