第2話 待ちわびたクリスマス
読書も手につかず、なかなか寝つけないほど待ちに待った、クリスマス当日。星月が瞬く闇色の空には、街の全てを照らすように張り巡らされた色とりどりのイルミネーションがよく映えている。
そんな眩いほど鮮やかな街を、あたしは大学最寄り駅前の広場で眺めていた。
待ち合わせ場所といえばここ、と言われるくらい有名なこの広場には、あたしの他にも待ち合わせと思しき多くの人がいる。
「うぅ、さむ……。こんな早く来るんじゃなかった……」
手袋の中でさえ悴みそうな手でスマホの画面を点けると、時刻は17時半過ぎを表示していた。いくら今日のお出かけが楽しみだからって、流石に時間配分を間違えすぎた。普通に大学行く時だったら、こんなこと絶対しないのに。
夜まで続く予報だった降雪は、夕方前には止んだ。雪はそこかしこにしっかり積もっているものの、傘を差さなくていいのはとても助かる。けど、雪が降らなくなったところで寒いものは寒い。厚手のマフラーに鼻先まで埋めても、気休めにすらなってくれない。
このままじゃ、鱓野さんが来る前に風邪ひいちゃいそうだ。時間になるまで建物の中で寒さ凌ごうかな……なんて考えながら駅ビルへ足を向けようとした、その時。
「エルちゃん⁉」
駅ビルとは反対の方向……大学へ続く方面から、まだ聞こえるはずのない声があたしの名前を呼んだ。
その声に引っ張られるように、くるりと勢い良く振り向けば、小走りでこっちに向かってくる驚いた顔の待ち合わせ相手。目が回るような人混みの中でも、抜きん出て背の高い彼の表情はよく見える。
1ヶ月ぶりに会ったその顔は、見慣れたもののはずなのに懐かしさすら込み上げてきて……。思わずこっちも駆け寄ってしまうほど嬉しくてたまらなくなる。無表情は張りついたままだけど、きっとこの喜びは彼に伝わっているはず。
「鱓野さん……!」
「はっっやくねぇ⁉ まだ30分もあんだけど⁉」
「そうだけど、あなたと遊べるの久しぶりだから、すっごく楽しみで……早く来ちゃった」
「そう言ってくれんのは嬉しいけどさぁ……だったら連絡してよ! 知ってりゃもっと早く来たのによぉ〜」
「ごめん、そこまで考えが及ばなくて。……ところで、何で大学の方から来たの? てっきり駅から出てくるとばっかり思ってた」
「ん〜、ちぃっと大学に用事あってな〜……って、んなこたどーでもいーんだよっ。ほらもー、鼻真っ赤っかなってんじゃん……一体いつから待ってたワケぇ?」
「えっと……20分くらい前?」
「遠足前の子供じゃん、やってることがさぁ! んなコトしたら、いくらもこもこマフラーで武装したって、身体がカチコチなっちまうっつーの! あんた、ただでさえ寒がりなのに……ったく、手ぇかかる後輩ちゃんだぜ〜」
溜め息混じりにお小言を言いながら、ずり落ちてきたあたしのマフラーを持ち上げて鼻先をすっぽり覆ってくれた鱓野さん。叱るような口調の割に、それを口にする鱓野さんの表情も声も、寒さが気にならなくなるくらいに穏やかで……とても温かい。
人にイタズラしかけて楽しむのが好きな割に、いつも気配りが細やかな彼だけど、今日は何だか一段と世話焼きな気がする。マフラーでは覆えていない胸の辺りが、ちょっとぽかぽかしてくすぐったい。
……あ、格好といえば。
「鱓野さん……いつもと格好違うね」
「ん? あぁ〜、やっぱ気づくよなぁエルちゃんはっ。ほらぁあれあれ、イメチェン的な? どーよ、似合ってる?」
「うん、似合ってる……けど……」
いつもの鱓野さんは、ラフでシンプルだけど明るい色のアイテムが多めな上、枯緑にウルトラマリンブルーのメッシュが入っている長髪、男性の中でもかなり大柄な体格も相まって自然と目立つ格好になっている。
けど今の彼は一転して、黒いダウンジャケットに黒いネックウォーマー、果ては被っているキャップまで黒という、文字通りの黒ずくめ。この変わり具合なら、あたしじゃなくても気づく。
キャップはいつもより目深に被っているし、これじゃイメチェンというより、まるで……。
(人目を避けているような……)
「まっ、それはこっちに置いときましてぇ~……早速行きますかっと! まず何したい〜?」
「そう言われても、行くところあなたに任せちゃったから……。あ、じゃあご飯食べよう」
「お〜? あの少食ちゃんが飯をご所望とは……さては昨日から何も食ってねぇな?」
「鱓野さん、時間的にお腹空いてるでしょ? そのままじゃ申し訳ないだけだよ。……一応、連れてってくれるって言ってたから、あたしもお腹空かせてきたけど。今ならお子様ランチだって完食できるよ」
「それは胸張ってドヤ顔で言うことじゃないかんな? んじゃ、ご要望通り飯食いにレッツゴー! ちょーどエルちゃんも食えそうなサイズが置いてある洋食屋が近くにあんだよ。個人経営で、ちょっと路地入ったトコなんだけど、そこが結構美味くってさぁ!」
鱓野さんはこれから行くであろうお店の紹介をしつつ、1つに括っている枯緑の長髪を翻しながら踵を返す。あたしもそれに続いて、駅ビルを背に2人で並んで歩き出す。脚の長い鱓野さんはその分歩幅も大きいけど、あたしに合わせてくれるおかげでとても歩きやすい。
広場は相変わらずの人混みで、気を抜くと通行人にぶつかりそうになってしまう。人波に流されるほどではないけど、はぐれちゃうんじゃないかと不安になって、鱓野さんのダウンジャケットの裾を指先で握った。
「……鱓野さん、よくこの中からあたしを見つけられたね。あたしの身長だと埋もれそうなものなのに」
「まーエルちゃんがちまっこいのは否定しねぇけど、俺からすりゃあ全員ちっこい方だしな~。だからこーゆートコから人捜すのは慣れっこだぜぇ?」
「流石、身長190センチ超えの人は世界が違うね」
「それに……」
「? それに?」
「何でか分かんねぇけどさ……あんたのことは、どこにいても見っけられる自信あるんだわ。……何でだろーなぁ?」
朗らかに、穏やかに笑う鱓野さんの口から、彼の特徴的なギザギザした歯が覗く。とても見慣れた満面の笑みから放たれたその一言は、とても聞き慣れないもので。
胸の辺りがこそばゆくなると同時に、こんな真冬の冷気の中にも関わらず、少し熱く感じるくらいの温もりに包まれる。見つけられると言ってくれて、実際に見つけてくれたことが嬉しくて。
彼のダウンジャケットを握る指に力が入る。彼の笑顔と優しさに凭れるように、5本の指全てを裾に絡ませる。
「……分かんないよ。あたしに聞かれても」
「あっはは! だよなぁ〜!」
「でも……ありがとう」
「……どーいたしましてっ」
──そこからのお出かけは、久しぶりなのも相まって本当に楽しかった。
連れて行ってくれた洋食屋さんの料理はとっても美味しかったし、お腹空かせておいたおかげでちゃんと完食できた。
お腹を満たしたあとは、あたしの希望で本屋さんに立ち寄ったり、たまに鱓野さんに連れられて行くゲームセンターで柄にもなく遊び倒したり……。
クリスマスの特別感はほぼないけど、また元の日常に戻れた実感が少しずつ湧いてきて、普段は少し付き合う程度なのに今日はつい心ゆくまで遊んでしまった。
鱓野さんも楽しく遊んでいる……ように見える。パッと見は。
でも、ふとした瞬間にキョロキョロと周囲を見回していたり、普段はあまり見ないスマホの時計をやたらと確認していたり……やっぱり昨日の通話中と同じで、明らかに様子がおかしかった。
それについて何度か聞いてみようとしたけど、鱓野さんが何かに追い立てられているかのように忙しなくあれをやろう、これで遊ぼうとあたしの手を引いて動き回るせいで、聞くタイミングをことごとく失っている。……いや、そうやってあちこち連れ回して、あたしに余計なことを考えさせないようにしているんじゃないかとすら思えてくる。
……何も聞けないままそうこうしている内に、時間だけが過ぎていった。
「もうすぐ9時か〜……結構遊んだなー! エルちゃん楽しめたぁ?」
「うん……とっても。今日、ありがとうね。ご飯も、ごちそうさま」
「さっきも聞いたぜ〜それ。んじゃ、いい時間だしここいらで解散……って言いたいトコなんだけどぉ」
「?」
「最後にさ、あんたと行きたいトコあんだよ。外だから寒ぃかもだけど、へーき?」
「いいけど……どこに行くの?」
「そーれは着いてのお楽しみっ! ほんじゃ、早速レッツゴー!」
そうして鱓野さんについて行くこと、数十分。辿り着いたのは、閑静な住宅街の中だと少々場違いにも感じるような、大きめの公園だった。
ポツポツと点在する外灯に照らされているそこは、隅に追いやられるように遊具とベンチがいくつかあるけど、あとは雪化粧した樹木や植え込みだけ。
敷地の大きさの割には公園らしい要素が少なくて、初めて来た場所ながら寂しく感じる。時間的に当然だけど、あたしたち以外に人の姿はない。
「……こんな公園あったんだね。知らなかった」
「大学とは反対方向だし、遊ぶのだっていつも駅前辺りだからな〜。エルちゃん、こっちこっち。目的地はもーちょい奥の方だぜ」
ちょいちょいと手招きする鱓野さんに誘われるまま、奥の方へと足を進めていく。
奥は林のようになっていて、そこを割るように道が進行方向へ続いていく。ここら辺は、公園というより遊歩道の方が近いかもしれない。人が踏み入った形跡の見当たらない雪に隠れているであろう道は、しっかり舗装されているのか歩きにくくはないけど、明かりは外灯ほど明るくない足元灯だけ。
奥に行けば行くほど明かりは少なくなって、本当に必要最低限しかなくなった辺りで、水の流れる音が聞こえ始めた。鱓野さんがスマホのライトで足元を照らしてくれるから歩けるけど、そうじゃなかったら多分怖くて進めないほどに、遊歩道の先は夜に飲み込まれていた。
「転ばないよーに気ぃつけてな〜。不安なら、ほら、俺の手に掴まっときなぁ?」
「ありがと。……さっきから水の音するけど、近くに川でもあるの?」
「公園ん中にちょっとしたせせらぎが流れてっから、それだな〜……っと、とーちゃ〜く!」
鱓野さんに手を頼りに辿り着いた先は、必要最低限の明かりすらない真っ暗な場所。
スマホライトの先には、大きな石を平らに切っただけのベンチらしき物が、小さな東屋の下にある。雪はそこだけ積もっていない。
休憩にはもってこいだけど、わざわざそのために来るには街から離れすぎている。鱓野さんは、一体何の目的であたしをここに連れてきたんだろう。
「……何もないね、ここ」
「と、思うじゃん? ところがどっこい、初夏辺りは割と家族連れとかで賑わってたりするんだな〜これが! 今はシーズンオフだから、だーれもいねぇけどっ」
「シーズン? 何の?」
「まーまー。色々連れ回しちまったし、歩きっぱで疲れたっしょ? 立ち話も何だし、座って座って〜!」
「……うん」
外気で冷えた石製のベンチに並んで腰かけ、あたしは痛んできた足を放り出して休憩に入った。
思っていた以上に歩き回ったからか、脚がパンパンだ。帰ったらお風呂入りながらマッサージでもしようかなぁ……。
「……ん?」
ふと頭上から視線を感じて、両脚に落としていた視線を上げてみると、鱓野さんがじぃっとあたしを見ていた。
正円を描いた、竜胆色の双眸。いつもはキラキラと宝石のような輝きを持っているのに、今あたしを見据えるそれは、昏くくすんでいるように見える。
いつもより目深に被った黒いキャップの陰のせいか、もしくはロクな明かりもないこの東屋が彼の瞳の光すら奪っているのか、あるいは……。
「……どうかしたの?」
「いやぁ……今日、楽しかったなぁ〜って」
「そっか」
「久しぶりなのもあるけどさぁ、ホントにあっという間だったよ。そんくらい楽しかった。……おかげで、いい思い出作れたわ」
「……鱓野さん?」
「エルちゃんが俺の傍にいてくれて、海老君もいて、紗蘭もいて……当然みたいに4人一緒でさ。それだけで、毎日本っ当に楽しくて、幸せで……どんな嫌なことあっても、不思議なくらいぜーんぶ吹っ飛んだんだわ。そんな毎日が、ずーっと続いてくれたら……よかったのに、なぁ……」
緩やかな弧を描く唇から落ちていく言葉に釣られるように、鱓野さんの目線があたしから離れていく。まるで独り言みたいなそんな言葉が、彼の艱難に塗れた微笑から零れては、夜の帳に飲み込まれる。彼のものとは思えない、この凍るような空気に溶けて消えそうな声で。
あたしの胸が痛くなるほど悲しいその笑顔と言葉と、鱓野さん特有の軽快な口調が突然消えたことに、頭の中が粟立つのをはっきりと感じた。
恐怖に限りなく近い猛烈な不穏の予感に、思考が支配されていく。
「……いいじゃない、続けたら」
「……エルちゃん」
「あなたはもうすぐ卒業しちゃうけど、それで終わりじゃないでしょ? 毎日は難しいだろうけど、またみんなで時間作って会えばいいじゃない。なのに……なのに何でっ、そんな……もう終わりみたいなこと言うの?」
「……………………」
「ねぇ……昨日から思ってたけど、あなた何かおかしいよ。今日だってずっと落ち着きなかったの、あたし気づいてるよ。休学してる間に何かあったんでしょ? 教えて、あなたに何があったのか。それで……あたしのこと、頼ってほしい。不安なことがあるなら、解決できるよう精一杯力になるから。だから……!」
お願い。これで最後なんて、そんなこと言わないで。
お別れは嫌だ。鱓野さんとも、誰とも、さよならなんかしたくないよ。
もう二度と……独りぼっちには、戻りたくない。
「…………あ、はは」
「……笑いごとじゃない」
「うん、そーだな。ごめん。……やっぱ優しい子だよなぁ、あんた」
「はぐらかさないでよ。真面目に答えて……!」
「大真面目だよ、俺。エルちゃんは優しいし、俺のことよく見てくれてるし……鋭いよなぁ、ホント」
「なに……何の話してるの……? あたしの質問に答えてっ……!」
「悪ぃけど、そりゃできねぇ相談なの。……ごめんな」
「そん、な……」
「その代わりってのも変だけど……1つだけ、頼みがあんだわ。聞いてくれる?」
「……もちろん。あたしにできることなら、何だってする」
それで、あなたとさよならせずに済むなら、何でもするから。
あたしなら、きっとできるから。
「ありがと。それで、頼みなんだけど……」
「うん」
「──俺と、もう二度と関わらないでくれ」
「……………………えっ?」