第3話 いつものみんなと
拡声器越しの演説。ビル外壁の大型ビジョンから流れるニュースの音声。通行人の雑踏やら、話し声やら。
周囲の雑音のどれよりも街に紛れて消えそうなほど弱々しい声なのに、そのどれよりもあたしの脳髄まで届いたのは、2年間の付き合いで海老原さんの声が耳に馴染んだからじゃない。
(……初めてだ、多分。海老原さんが、こんなこと言うの)
「どうかな。エルはどう思う? ……聞かせてくれないかい?」
返事を急かすように、けどあくまで穏やかな声色でまくし立ててくる海老原さんの顔は、一見すると平穏そのもので、大きな感情の変化は見当たらない。
でも……。
(表情……というか目に不安と焦りが出てるな。返答の求め方からして、答えが聞きたいっていうより、あたしの返事を頼りにどうにか何かから逃れたいって感じに見える。……まるで、あたしに縋りついてるみたいだ)
無憑への差別が常識として横行する故郷に存在している実家では、当然ながら無憑は人間にすらなれなかった。実家の人間の機嫌次第であたしの安全など一瞬で奪われることも日常の一部だった環境は、あたしのある才能を伸ばしてくれた。それが、今は趣味となった人間観察。
家人の機嫌次第で安全が脅かされるのならば、機嫌を損ねないように動けばいい。そのために人間観察を繰り返し、他人の顔色や感情の機微を人一倍窺って生きてきた。
そんな立ち回りにすら「気に食わない」「劣等種のくせに生意気だ」と罵声やら暴力やら浴びせられたこともあったけど、おかげで今ではうっかり見落としてしまいそうな他者の些末な変化でも、自然と感じ取れるようになった。毎日顔を合わせる友達なら尚更の話だ。
それでも、観察だけで分かることは、たったのあれだけ。海老原さんが何に焦って、何を不安がっているのか、何て答えるのがベストなのか……。肝心な部分は観察だけじゃ分からない。
海老原さんは「足掻くことで未来を変えられるか」って聞いてきた。そんな風に変えたがる未来が、彼にあるのかな……。
(……心当たりなら1つだけある。でも……)
あれを、海老原さんが覚えているわけがない。彼にそんな素振りがあったことはないし、それは鱓野さんも紗蘭さんも、真璃愛さんだってそうだった。
あれを覚えているのは、あたしだけのはずだ。
だからこそ分からない。海老原さんが変えたい未来って、何なんだろう……。
「……あのさ、答える前に1つ聞かせて。海老原さん、何か変えたいことでもあるの? 未来って、どういう──わっ」
もう確かめた方が早いかと口を開いたのに、急に伸びてきた海老原さんの手によって、それを遮られた。
口を塞がれたわけじゃなく、ただあたしの頭を撫でているだけ。でも、どこか視界を塞ぐように前髪を乱してくるその手は、いつもの海老原さんじゃ考えられないほど乱雑なもの。
その仕草は、何だか「こっちを見ないで」と声なく言っているように感じた。
「ごめん、やっぱり変だったよね。ちょっとした例え話で、深い意味はないんだ。……お願い、忘れておくれ」
海老原さんの手が、どこかぎこちない動きで離れていく。遮蔽物がなくなった視界の真ん中で、海老原さんが微笑んでいる。口元は確かに緩やかな弧を描いているのに、僅かに寄せられた眉と、その下で細まる緋色の両目は涙ぐんでいるわけでもないのに今にも泣きそうで……どちらもひどく切ないものに見えた。
そんな顔すら見えたのはほんの一瞬で、海老原さんはあたしの目線から逃れるように顔を背けてしまった。右目を覆う形に前髪を整えながら、あたしはそんな彼の様子にお腹の底が沸々と煮えて、その沸騰した何かが喉元までせり上がってくるのをはっきりと感じた。
(そんな白々しい嘘、あたしが分からないと思ってるの? こんな毎日一緒にいるっていうのに……)
本当にただの例え話なら、そんな母親とはぐれた子供みたいな目をするのはどうして? ただの例え話を、何でわざわざ忘れてなんて言うの? 何であたしに縋ったりなんかしたの?
苛立ち混じりの疑問を、喉元にせり上がってきた勢いに任せてぶつけたくなるけど……できない。
海老原さんが終わらせた話をわざわざ蒸し返すのも憚られるし、何よりしつこくして彼の機嫌を損ねてしまうのは嫌だから。
「……………………」
「……………………」
会話がなくなって、お互いの間に沈黙が流れる。
いつもなら海老原さんとの沈黙は苦に思わない……むしろ不思議な安心感すら覚えるけど、今に限ってはどうしても気まずさが勝ってしまう。
(かと言って、こんなタイミングで解散するのも、何だかなぁ……。せめてこの空気をどうにかできる話題でもあれば……)
そんな考えから目線だけキョロキョロとさせていると、海老原さんの紙袋が目に留まった。中身に注視してみると、丁寧にシュリンクされた本たちは、背表紙を上にした状態で隙間なくキッチリ収まっている。
かくなる上は海老原さんのオカルトトークにどうにかしてもらおうかな、なんて考えながら紙袋の中身とにらめっこしていたら、ふとあることに気づいた。
「……変わった入れ方だ」
「ん? 何がだい?」
「ほら、あなたが買った本。本屋さんで買った本って、あたしの分みたいに背表紙が横になるように詰められるけど、これは上になってるから変わってるなって」
「……おや、本当だ。気づかなかったな」
特に気にしてなさそうな海老原さんを横目に、あたしはまじまじと本のタイトルに注目する。
”悪魔の歴史、その全て”、”あなたの身近にいるかもしれない悪魔たち”などなど……どれもこれも悪魔に関するもの。
前回もオカルト本ばっかり買っていたことは確実に記憶しているけど、ここまで悪魔関連の本ばっかりだったっけ……?
「……今日、やたらレパートリー偏ってるね?」
「そうかい? いつも大体こんなものだと思うけれど」
「いつもはむしろ色んなやつとごちゃ混ぜじゃない、都市伝説とか」
「ああ……言われてみれば、そうかもね」
「……純粋な疑問なんだけどさ。海老原さんって、やっぱり悪魔の実在は信じてる派?」
「信じてる、という表現は正しくないかな。実際にいるのだから」
「自信たっぷりだね。存在自体が不確かな種族なのに」
超常種の1つとされている種族、悪魔。
世界の様々な逸話でその名が挙がっているのに、その実態に迫る情報は不自然に少なく、実際悪魔に関しては多くが未解明。
分かっているのは、超常種の中で唯一異憑に憑依しない種族ということ。特定の手順で呼び出さなければ会えないこと、会えた暁にはあらゆる願いを叶えてくれるらしいこと。そんな利益をもたらす種族と言われているにも関わらず、何故か邪悪な存在かのような呼ばれ方をしていること……これだけだ。
文献自体は世界中で見つかっているのに、実際に会えたという例は数えるほどしかない上、大体は勘違いやでっち上げ。それもあって、超常種の専門家の間でも実在するか否かの意見すら、完全に二分化している。
人間にとって悪魔というのは、例え実在していてもそれくらい遠い存在だ。
「ならば、エルは知っているかい? 今でこそ超常種の最高格として誰もが知る存在である神が、ずっと昔は空想の産物だと信じられていたことを」
「……そうなんだ」
「ああ。その頃からいたというのに、人間たちが気づかなかったせいで非実在だと思われていたのさ。悪魔だって同じだよ。あちらは僕らが思っている以上に、僕らの近くにいる。ただ単に僕らが気づかないだけであって──」
スイッチが入り始めたのか、軽く手振りを交えながら早口になり始める海老原さん。彼の動きに合わせて揺れる逆十字が、夕日の色を纏って妖しく輝く。
流石に止めようかと考え始めた時、海老原さんは何故か視線をあたしの顔から少し上に外して、軽く目を見開いた。そして直後に少し吹き出し、喉だけでくつくつと笑いだす。
そんなにおかしなものでも見つけたのかと視線の先を辿ろうとしたけど、その答えはあたしが確かめる前に海老原さん自身が教えてくれた。
「例えば、今君の背後でイタズラの機会を窺っている鱓野先輩の存在に、君自身が気づいていないように……ね?」
「……………………えっ」
数秒かけてやっと海老原さんの言葉の意味を理解できたあたしは、弾かれたように振り返った。その瞬間、見慣れた顔があたしの視界のほとんどを覆いつくす。
青紫のキャップから伸びる、ウルトラマリンブルーのメッシュが入った枯緑の長髪。同じ色のメッシュが入った前髪から覗く、竜胆の花を思わせる淡い青紫の瞳と視線がかち合った瞬間、気づかなかったことと思ってたよりも近かった鱓野さんとの距離に驚いて、反射的に仰け反ってしまう。
「あ、まずい」と思った時には遅かった。急に重心を移動させたせいでベンチについていた手が滑り、バランスを崩した身体はずり落ちそうになる。
「~~~っ⁉」
「うおぉっ、と……っぶねぇ!」
地面に転がり落ちる寸前、鱓野さんの大きな手があたしの腕を掴んでくれたおかげで、何とか落ちずに済んだ。掴まれたところに痛みはなく、でもしっかりと力強さは感じるその手は、あたしを元の体勢に引き戻してくれた。
ホッと胸を撫で下ろした視界の端では、海老原さんがあたしに伸ばしかけた手をそのままに安堵の顔を見せている。
「っあー、びっくらこいたぁ! なぁにやってんだよ~エルちゃん!」
「それはこっちのセリフだよ。落ちかけたの、鱓野さんのせいだから。無言で後ろに立たれてたら、あんな反応にもなる」
「そうですよ、先輩。高校時代から再三に渡って言ってますが、イタズラ好きも程々に願います。どうするつもりだったんですか、これでエルが怪我でもしてしまっていたら」
「教えた海老君がそれ言っちまうのぉ? つーか今回はイタズラしようとしてたワケじゃねぇから。話しかけるタイミング見計らってただけですぅ~」
「大抵の場合は企ててるから言ってるんですよ」
「で、その被害に遭うの、ほぼあたしたちだし。数日に1回くらいのペースで」
「ん~、それ言われちまうと反論できねぇな~」
綺麗に切り揃えられた前髪をかき上げるように額に手を当てる彼は、鱓野 仁さん。あたしと同じ心理学部で、あたしの1つ上の先輩、つまり4年生。あたしは大学で知り合ったけど、海老原さんは高校時代からの付き合いらしい。
その海老原さん曰く、どうもその頃からイタズラ癖が治らず、何なら大学入ってから悪化しているとか何とか。
イタズラの内容は何てことないものばかりだけど、せめて頻度は落としてくれないかなぁと日頃から思っている。同時に落ちないんだろうなと諦めてもいるけど。
「というか、先輩は何故ここに? 用事があったのでは?」
「そーだけど、思ったより早く済んじまったの。んで、この後どーすっかなーって言い合いながらぶらついてたら、見覚えある顔みっけたから声かけるかーってなったっつーワケ」
「じゃあせめて正面から来てくれませんかね。何でわざわざ後ろから?」
「だってほらぁ、その方がおもろそーじゃん?」
「そういうとこですよ、本当」
「……言い合いって、そばに誰もいないけど」
「そぉれがいるんだな〜! 海老君の後ろにっ!」
「は?」
「というわけで、海老原君の背後からこんばんは〜!」
「っ⁉」
「うわあぁ⁉ なっ……紗蘭⁉ 何で君まで後ろから!」
いつの間に忍び寄ってたのか、これまた見慣れた顔が海老原さんの後ろから、やたら高めのテンションで声をかけてきた。実際に背後に立たれた海老原さんはもちろん、隣にいるあたしも本日2度目のドッキリを食らう羽目になった。
情けなく肩を跳ねさせて声の方に振り向けば、そこにいたのは栗色のセミロングと編み込みカチューシャ、それを留める赤い薔薇のミニバレッタが目を引く、良家のお嬢様みたいな淑やかな服装と雰囲気の美人な女性。
彼女はクスクスと上品に、けど心底面白そうに黒縁眼鏡の奥で金色の両目を細めている。
「ふふっ、イタズラ大成功ですね、仁君!」
「いぇ〜い! さっすが紗蘭ぁ〜!」
「結局イタズラじゃない……」
「勘弁してくれ……本当に心臓に悪い。何の音もしなかったから、これっぽっちも気づかなかったよ……」
「すみません、つい忍び寄りたくなるくらい隙だらけだったもので。でも、私の能力を忘れられては困りますよ」
眩しいくらいの素敵な笑顔で鱓野さんとハイタッチしながら、反省のはの字もないことを言う彼女は、嶋崎 紗蘭さん。
海老原さんと同い年だけど、誰にでも敬語で話す彼女の癖は、海老原さんに対しても例外じゃない。あたしは高校時代に、海老原さんは大学に入ってから彼女と知り合ったけど、鱓野さんは小さい頃から家族ぐるみの付き合いがある、所謂幼馴染みというやつらしい。
そしてメガネフクロウの霊を憑依させた霊憑である紗蘭さんは、足音を始めとした自身が出す物音を一時的に消すという能力を持っている。つまり彼女がその気になれば、さっきのように人の背後なんて取り放題ってわけだ。恐ろしいことに。
「……ところで、2人一緒ということは、もしかして同じ用事だったのかい?」
「ええ、そんな感じです」
「っつーか、海老君とエルちゃんはこんなトコでなぁに黄昏れてたワケぇ? 俺らもうとっくに2人共帰ったモンだと思ってたわ」
「別に黄昏れてたわけでは。ただエルと買い物して、少し休憩してただけですよ」
「買い物……あ、その紙袋ですか。聞くまでもない気がしますが、何を買ったかお聞きしても?」
「見ての通り、全部本さ」
「うへぇ~、3つもあんじゃん。まぁたこんな買いまくったんかよ~エルちゃん?」
「1つは海老原さんの分だよ」
「それでも買いすぎだっつーのぉ」
「エル先輩……まさかとは思いますが、また生活費を削ったりなどは……」
「してない。海老原さんにも同じこと言われたんだけど、何で2人してあたしの生活の心配してくるの」
「仕方ないさ、エルならやりかねないからね。特に食費は」
「う……」
「あぁ~っ! 食費で思い出したけどさぁ、エルちゃん今日飯食ったぁ?」
わざわざ屈んであたしの顔を覗き込むように目線を合わせてきた鱓野さん。彼が持つ正円の瞳は人と比べて変わった形ではあるものの、水晶玉みたいなそれはずっと見つめていたくなるほど綺麗で。自分の顔が映り込む様も相まって、時折本当に宝石と錯覚しそう。
竜胆色のそれに見据えられるのは嫌いじゃないけど、尋問態勢に入った今は、どうしても目を逸らしたくなる。
「……た、食べたよ」
「なぁ〜んか嘘っぽい気ぃすんだよなぁ〜? 俺今日あんたが昼食ってるトコ見てねぇけどぉ?」
「た、確かにお昼は食べてないけど、でも平気だよ。昨日ちゃんと食べた……あっ」
「……エル?」
「あら、今おかしな単語が聞こえましたね?」
「ふ~ん……昨日ねぇ……」
慌てて口を塞ぐも、時既に遅し。海老原さんと紗蘭さんの耳に届いた声が、あたしの目と鼻の先にいる鱓野さんに聞こえてないなんてことあるはずもなく。
細まった正円の瞳からは、隠す気のない不満とちょっとの苛立ちが、観察するまでもなく見て取れた。
「や、今のは違くて……言い間違え……」
「ふふ……それで私たちが納得するとでも? まだ悪足掻きするようなら、いくら可愛いエル先輩といえど容赦しませんよ?」
「……ぐ、具体的には……?」
「そうですねー。先輩のお口に手を突っ込んで、胃袋に直接食べ物ねじ込みます」
「ひっ……」
「また紗蘭は笑顔でそんな物騒なことを……」
「そーいやさぁ、俺らまだ晩飯食ってねぇんだけど、そっちは?」
「僕たちもまだですね。だからというのも何ですけど、今からみんなでご飯でも行きません? ……って、何だい、3人揃ってキョトンとして」
「だって、海老原君からお食事のお誘いなんて珍しいので」
「そーそー! いっつも俺からだし、何ならお前って「えーまたですか?」とか言って面倒臭がってばっかじゃん。どーゆー風の吹き回しかなぁ~?」
確かにそれもあるけど、あたしはそれだけじゃない。
前回、海老原さんは晩ご飯になんて誘ってこなかった。あの時も合流して、いつもみたいに鱓野さんから誘ってきて、でも何だかんだで解散になったのに。
さっき初めて聞いたあの質問といい、どうしても引っかかるな……。
「食事の誘いを口にしただけで、そこまで言われることあります? 強いて言うなら歩き回って空腹なので、先輩のお金で夕食にありつきたいだけです」
「ホントちゃっかりしてるよな〜海老君。まー元からそのつもりだったからいーけどっ! ほんじゃ、この前この近くで美味い洋食屋みっけたんだけどさぁ、そこにしねぇ?」
「あら、いいですね!」
「僕もそこがいいです、オムライスがあるならですが」
「っあー、あるぜ〜確か。海老君ホント好きだよな〜オムライス。エルちゃんはどお? そこでいーい?」
「うん、いいよ。ちょっと路地に入った、個人経営のところだよね。あそこのなら食べきれる」
「……あれ、エルちゃん行ったことあんの? 俺まだ連れてってねぇよな?」
「あっ……」
ベンチから立ち上がりながら口にした言葉に、目をまんまるにした鱓野さんからツッコまれて、思わず口元を抑えた。
しまった……今回のあたしは、まだ行ったことないんだった。
「えっと……前に1人で、ね……」
「まぁじでぇ⁉ なんだよ〜俺が最初に連れて行きたかったのにぃ~!」
「エルが1人で外食なんて、その方が珍しいんじゃないかい?」
「思っていたよりも、ちゃんとご飯食べてらっしゃるんですね。ふふ、安心しました」
「まーでも、エルちゃんも食えるって分かったし、結果オーライっつーことで! 早速行こーぜ!」
先導する鱓野さんの後ろを、海老原さんと紗蘭さんが続いていく。すぐさま雑談に花を咲かせる3人は、この上なく楽しそうに声を弾ませて、幸せそうな笑顔が溢れている。
あたしも内心で笑みを零しながらそれに続こうとした、その時。
『みなさーん! 2020年のハロウィンまで、あと1ヶ月とちょっと! 今年はどんな仮装で過ごそうか、今から悩んじゃいますよね〜!』
一際大きな声が駅前に響いて、思わずその方向に体ごと振り返る。
音源はビル外壁の大型ビジョン。さっきまでニュースが流れていた画面の中では、簡素な魔女の仮装をした女性タレントが、おもちゃのステッキを持ちながら溌剌とした笑顔で話している。
大型ビジョンの流す番組は、いつの間にかハロウィン特集に切り替わっていたらしい。
(……そっか、1ヶ月後にハロウィンか。だったら……)
ミニリュックから取り出した、表紙に青い石の装飾が施された愛用の手帳。それをパラパラとめくっていって、あるページでその手を止めた。そこは待ち合わせの時に見ていた日記。日付は、2020年のクリスマスイブ。
本来ならまだ認めているわけもない日記だけど、これは決して日付の書き間違いなんかじゃない。
「……あのクリスマスまで、あと少ししかないんだ」
次のページをめくれば、そこは当然クリスマス当日の日記……ではなく、最早日記とは呼べない……ページを真っ黒に塗り潰すほどの、おびただしい書き殴りの数々。
かろうじて読めるのは「やだ」「ごめんなさい」「どうして」「すてないで」「きらいにならないで」……。あとはもう何が書いてあるのか、どんな嘆きをここに吐き出したのか……これを書いたあたしですら分からない。
「……あんな思いするの、もう、嫌だな……」
これは日付の間違いでも、趣味の悪い冗談でもない。あたしは確かに、2020年のクリスマスを迎えた。
そして、2021年の年明け。鱓野さんと紗蘭さんが死んだと聞かされたあたしは、自宅のバスルームで手首を切って死んだ……はずだった。
なのに今、あたしは生きている。深く切り裂いたはずの手首は傷1つすらない。ただ単に死に損なったとか、そんな次元の話じゃない。
あたしの自殺も、鱓野さんたちの死も、なかったことになっていた。
あたしの死後起こった、タイムリープによって。
「……何で、あんなことに、なっちゃったかな」
考えても分からない。何で時間が戻ったのか、何であたしだけ記憶を持ったままなのか。
分かるのは、自分が自殺なんてしでかした動機と、そこに至るまでの経緯だけ。
きっかけは……そう、あの電話。
2020年のクリスマスイブ、鱓野さんからかかってきた1本の電話だった──。
ここまで読んでくださり、ありがとうございますm(_ _)m
お気に召しましたらブックマークや星評価、感想などくださると嬉しいです。
第1章はこれにて完結です。
次回から始まる第2章は、エルが自殺に至るまでの回想話となります。
お楽しみにm(_ _)m