第4話 重く深く、沈んでいく
「さっき、嶋崎さんが再び警察に行った時も相変わらずだと言ったが、嶋崎さんもタダでは引き下がらなかったみたいでね。養女が行方不明であるという相談記録は、半ば強引にとらせたらしいよ。エルのことは相変わらず取り合ってもらえなかったみたいだけれど」
「半ば強引にって……よくそれで記録してもらえたね? 相手は国家権力だよ? 向こうの方がいくらでも強く出られるでしょ」
「その場にいなかったから何とも言えないが、事実どうにかなったみたいだね。さっき言った警察からの呼び出しも、記録をとってもらえたから受けたものだし」
吞み下した途端、石でもねじ込まれたみたいに胸の奥に重く沈む。本当に寒いわけでもないのに、足先同士が自然と互いにすり寄ってしまう。そんな温かみの欠片もない空気の中、目の前で厳しい表情を崩さないままの海老原さんが、さっきよりも早口気味に語り始めた。
それに呼応して、あたしも重たい肺をなるべく意識の外に追い出して、鉛みたいな冷気を押し返すように無理やり口を動かしていた。そうでもしないと、この空気と秒針の非情さに潰されてしまいそうで……とても耐えられない。
「呼び出されたのは嶋崎さんだけで、僕はブルームで留守番してた。彼が帰ってきたのは夕方になってからだ。とても疲れきって……というか普段の覇気が嘘だったみたいに憔悴しきってたが、何があったのかは事細かに教えてくれたよ。……今思えば、情報を共有したかったというよりは、誰でもいいから話して楽になりたかったのかもしれない」
「店主さん、何て?」
「……呼び出されたのは警察署だが、僕らが相談に行った場所とは違う署だった。そこで聞いたのは、火災に見舞われた埠頭倉庫から出てきた遺体の片方が、紗蘭のものかもしれないということだ」
「かもしれないってことは……まだその時は確定してなかったってこと、だよね?」
「遺体は警察署に運ばれたものの、身元が判明した状態じゃなかったからね」
「? だったら何で、紗蘭さんの遺体かもしれないなんて話になったの……?」
「火災現場である埠頭には監視カメラがいくつも設置してあって、その内の何台かに紗蘭と鱓野先輩が一緒に埠頭内を走り抜ける姿が映っていたらしい。相談記録をとらせた際に紗蘭の顔写真を見せたらしく、そこから紗蘭とよく似た人物が映像内にいたことで、嶋崎さんに紗蘭かどうかの確認を……というのが呼び出しの経緯だったそうだ」
「それで……本当に紗蘭さんと、鱓野さんだった、と……」
「嶋崎さんが確認したんだ、間違いないだろう」
伝えられる事実を記そうと動かす右手が、使い慣れたはずのペンが、痛いほど重い。積み重ねられていく残酷さにせめて抗おうとすればするほど、文字は原型を見失って潰れていく。……あとでちゃんと書き直さないと、読み返しもままならないかもしれない。何とか読める形で書き留め終えた時、筆記に集中するあまり忘れかけていた呼吸を思い出して、大きくため息をついた。
ふと、すっかり黙りこくってしまった真璃愛さんが気になって、顔は動かさずに視線をやった。俯き気味で陰を作る前髪の隙間から瑠璃色と目がかち合った……のに、目線が絡まない。虚空のただ一点に意識を放り投げてしまっている彼女の視界には、きっとあたしは入っていない。昏いを通り越して泥のような濁り方をしたまま開ききった瞳孔を見れば分かる。
柔らかいミルクティー色の髪、童話の登場人物が着ていそうなエプロンドレス、普段着とは呼び難いそれがよく似合うほどの可愛い顔立ち、現実離れした羽と光輪とバラバラの手足。愛らしい人形に近い彼女の容姿が、今だけは本当にただの人形みたいに見えて……その異様な無機質さに気づいた瞬間、背筋が冷たく粟立った。
「エル? 大丈夫かい?」
「っ……! だい、じょうぶ…………。ごめん、その、ぼんやりしちゃってた……」
「……話しておいて何だが、無理は禁物だよ。辛かったらすぐ中断するからね?」
「うん、でも平気だから、続けて」
ペンを握り直して、じぃっと海老原さんの目を、少し不自然なまでにまっすぐ見つめる。真璃愛さんを視界から追いやるように。
「紗蘭たちが埠頭内に入ったところは確認できたが、最終的にどこに行ったのかははっきり分からなかったそうだ。ただ、紗蘭はその後何度か埠頭を行き来するところが映っていた反面、鱓野先輩を捉えた映像は最初の物だけだったらしい。だから少なくとも先輩は火災が起こったあの倉庫に入ったのだろう、と」
「その倉庫に入るところは映ってなかったってこと? その周辺には監視カメラなかったの?」
「カメラの有無までは分からないが、映像がなかったことは確かなようだね。……それと、これはあくまで嶋崎さんが感じた印象の話なのだけど。2人は共に埠頭を駆けている間、何度も周囲……特に後ろを確認していたらしい。その様子が、まるで誰かに追われているかのようだったそうだ」
「……実際に追われていたわけじゃなくて?」
「そうだと思うよ。少なくとも映像として記録されていたのは、紗蘭たちの姿だけだったのではないかな」
「…………そっ、か」
追われていると聞いて頭に浮かぶのは、あの2人組。遊園地でずっとあたしたちを尾行してきて、あまつさえ紗蘭さんを殺そうとした、あいつら。今にして思えば、誰も気づかなかっただけで遊園地で待ち伏せされていたか、もしくはその前のどこかから尾行されていたんだろう。
……そんな風に、前回の紗蘭さんたちのことも、あの2人が追い回していたんだろうか。もしくは、認識阻害能力持ちの仲間か。だったら監視カメラに映ってないのも不自然じゃない。機械にまで干渉できるような能力なのかは知らないけど。
いくら考えても憶測の域は出ないけど、今日紗蘭さんの命を狙ったからには、前回は無関係なんてことはないはずだ。というか、そんなこと言わせないし、仮に言われたところで信用なるわけない。
(あの時は考えつきもしなかったけど……1発くらいぶん殴っとけばよかったな、あいつ)
ペンのグリップに右手の爪が食い込んでいく。これやってたのが鱓野さんだったら、今頃ペンはひび割れ通り越して折れてたかもな。
「……また何か考え込んでるようだね。気になることでもあったかい?」
「気になるっていうより、多分あなたと共有しておいた方がいいこと、かな。これも後で言うから、今は続きをお願い」
「ああ。嶋崎さんが確認した映像は3つ。1つはさっきも言った、2人で埠頭に侵入した時の物。2つ目は紗蘭が1人で埠頭から出ていくところ。最後は紗蘭が埠頭に戻ってきたところで……火災が起こる数十分前の物らしい」
「火災の直前……となると、31日の深夜だよね。もう少し具体的な時間は分からなかったの?」
「少なくとも僕は聞いてない……というか聞こうという考えに及べなかったね。紗蘭が遺体で見つかったかもしれないという情報で頭がいっぱいだったものだから……」
「だよね……」
「あ、でも他の映像が撮られた日時は聞かせてもらったんだ、こちらもざっくりではあるけれど。最初のは29日の夜で、2つ目は30日の早朝だそうだ」
「……鱓野さんを殺したタイミングを挟んでるね」
「その通り。考えられる流れとしては、29日に2人で埠頭に侵入、そのまま埠頭内……恐らくは例の倉庫で紗蘭が先輩を殺害。そして数時間滞在した後に一旦埠頭から出て、翌日の深夜に戻ってきた。そしてその直後に火災が発生……と、僕はそう推測している。1日近い空白時間、どこで何をしていたのかまではさっぱり分からないが」
「そうだね、殺害現場に数時間も留まっていた理由も分からないし……。でも、今のところそれが一番ありえそうな流れではあるよね」
あたしの考えも海老原さんと全く同じだ。……というよりは、今持っている情報じゃそうとしか考えようがない、その先を推理できないと言った方が正しいんだけど。
海老原さんから話を聞く前に比べれば、情報は断然集まってきた。前回の鱓野さんたちがどんな動向を辿ったのかも見えてきた。それでも、圧倒的に判断材料が足りない。何でそんな状況に陥ってしまったのか、誰が2人をああまで追い込んだのか。一番怪しいのは例の2人組だけど、そもそもあいつらが何者なのかすら分かってない。認識阻害能力のことを考えると、犯人があいつらだけという可能性の方が薄そうだし……。
これまで手帳に留めた文字列を睨みながら考えるけど、そうしたところで思考のどん詰まりが解決してくれるはずもなく、重めの溜め息を吐く。心理学部生なら心理学でも何でも使って推測してみろって話かもしれないけど、持っている情報が何もかも又聞きでしかない過去の状況と豹変した紗蘭さんじゃ、推測も何もあったものじゃない。その場で観察や洞察ができていたなら話は違ったかもしれないけど。
本当に今だからこそ言えるけど、あの時家に引きこもっていたことが心底悔やまれる。……だからこそ、今は海老原さんから話を聞く方が優先だ。
「ありがとう、火災が起こるまでのことは大体分かった。……それで、店主さんはその映像を見た後どうしたの?」
「嶋崎さんも紗蘭の遺体である可能性が高いと理解して、だから直接遺体を確認させろと警察官に迫ったらしい。……断られたそうだよ。損壊が激しすぎて、顔の判別がつかないから……と……」
「……ほとんど消し炭に近かったみたいよ、その遺体」
「ぁ…………」
思い出したように急に話し出した真璃愛さんに、うっかりかけそうになった声を寸でのところで呑み込んで、恐る恐る視線だけ移す。
冷たいどころじゃなかった無機物感はマシになったけど、それでも眉間を寄せる表情は辛そうなままで、伏せた瞼に隠れかけている瑠璃色の昏さも変わっていない。
「どっちもそうだったらしいわ。何か可燃性のものと一緒に燃やしたみたいな……火事に巻き込まれただけじゃここまではならないってくらいに焼け焦げてたんですって。……嶋崎さん、お兄ちゃんといる間はずっと気丈に振る舞ってたんだけど、この話してる間だけは本っ当に顔色悪くて……お兄ちゃんに心配されても強がり一つ言えなかったのよ。信じられる?」
あの店主さんが、心の底から弱っていた。
……正直、想像もつかない。ちょっとルーズなところあるけど芯はしっかりしてて、心身共に強くて、とっても頼りになる。あたしは店主さんのそういうところしか知らないから。店主さんが精神的に疲弊しているところなんて、言われたところでピンとくるはずもない。
それでも、無理はないとは思えた。それまでは行方不明だけど一度は通話もできたから、会えないだけで無事だとは思ってたであろう養女が見つかったと思いきや、それが多分すごく惨い状態の死体かもしれないなんて。友達のあたしですら前回ああも取り乱したんだから、養親である店主さんが何ともないわけはない。
ごく普通の親ってのは、恐らくそういうものだろうから。
「よほど心にガタがきたのかもね、彼。……僕から聞いたわけじゃないのに、少しだけ自分と紗蘭の身の上話をしてくれたよ」
「……身の上話?」
「本当に少しだけだけどね。紗蘭の実のご両親とは浅からぬ友人付き合いがあって、特にお父さんには多大な恩があるらしい。それこそ一生かけても返しきれないレベルだと言ってたよ。それがご両親に代わって紗蘭を育てていた理由の一つだとも」
初めて聞いた。店主さんにそんな事情があったんだ。
「だから紗蘭の身に万一のことがあっては、ご両親に向ける顔がない。ほとんど紗蘭の遺体だと確定してるようなものなのに、未だに何かの間違いかもって希望が捨てきれない、と……。そんな風に嘆いていたっけな」
「身の上話っていうより、ほとんど泣き言だね……」
「泣き言も言いたくなるだろうさ、あんな状況だと。それでも涙までは流さなかった辺り、あの人の父親としての強さが伺えるよ」
「……それ聞いて、あなたはどうしたの?」
「どうもできなかったよ、情けないことにね。何て声をかければいいのかと迷って……挙句に出てきたのが、貴方の気持ちは分かるという安っぽい慰めだけだった。僕の身の上話も交えてではあるが……それで当時の彼に寄り添いきれるはずもなかったのに」
「海老原さんの……それって──」
「まぁともかく、遺体の身元は最優先で特定するという話になったらしくてね。警察からの連絡を待つ間は嶋崎さんには休んでもらったんだ。とても店を開けられる様子じゃなかったから、臨時休業までしたっけね」
「……………………」
はぐらかした。明らかに。しかもあたしが踏み込む隙も与えず、何なら踏み込まれると感じ取って牽制するかのような、この食い気味の話題逸らし。
……迂闊だったな。家族を亡くしたかもしれない人に、気遣うつもりでする身の上話の内容なんて、想像に難くない。踏み込まれるかもなんて思わせる言動を取るべきじゃなかった。
喉奥が焦げつくような苦々しい感情を噛み殺しながら、視線だけ海老原さんの横に移動させる。両腕だけじゃなく羽も使って、包み込むように兄に寄り添う真璃愛さん。
彼女に関することかもしれないと思ったら、口が勝手に動いていた。牽制云々以前に、真璃愛さんのこと聞いたら、兄に自分の存在を教えないでという真璃愛さんのお願いを無下にすることになりかねないのに。
(それでも……やっぱり、気になっちゃうんだよね。真璃愛さんのこと……)
死んだ時の姿だったという、胴体から切り離されたバラバラの手足。真璃愛さん自身があまりにも明るい性格だから忘れそうになるけど、相当悲惨な死を迎えたはずだ。
何で小学生くらいの幼い女の子がそんな最期に見舞われてしまったのか。聞けずにいるから考えないようにしているだけで、気がかりではあるんだ、ずっと。
「これまで腰が重いところばかり見せられた僕としては警察なんかこれっぽっちも信じてなかったのだが、本当に最優先でやってくれたらしい。3日の早朝には、また嶋崎さんだけ警察に呼ばれたから、ね」
「それは……遺体が紗蘭さんのものだって分かったから?」
「ああ。紗蘭だけじゃなく、もう片方の遺体も鱓野先輩だと判明した。僕がそれを知ったのはブルームで見ていたニュースでだけど……これは前回の時点で話したよね?」
「うん、通話で聞いた。その前にも何度も通話してくれてたのも、あたしに伝えようとしてくれてたんだよね」
「それもあったが、途方もなく嫌な予感がしたのが一番だったんだ。紗蘭も先輩も会えず終いのまま帰らぬ人となったから、一度も連絡が取れてなかった君も同じような目に遭っているんじゃないかと……。あの時はとにかく全ての出来事を最悪の方向で考えてしまったものだから、いても立ってもいられずにブルームを飛び出して、君にひたすら通話を試みて……でも所在が分からないままだから、最寄り駅でしばらく立ち往生してたよ」
「立ち往生っていうか、駅前をうろうろしてたわよね。駅に入ろうと何歩か進んだと思ったら元の場所まで引き返したり、また駅の方行ったり、電話しながらあっちこっちしたり……。今でも気づいてないでしょうけど、あの時のお兄ちゃん、周りの人からすっごい怪しまれてたのよ。職務質問とかされなかったのが奇跡よね、今考えると……」
はぁ~、と盛大な溜め息で独り言を締めた真璃愛さんの様子は、いつの間にやらすっかり元に戻っていた。いや、元にと呼ぶにはくりくりの丸目をじとーって感じに細めてはいるけど。
それでもさっきの作り物みたいな不気味さに比べたら、よっぽどいつもの彼女に近い。よかった、と心の中で胸を撫で下ろした。
「そしてしばらくして、君が出てくれて……………………その後は、もう、分かるだろ?」
「…………ん」
海老原さんに全部教えてもらって、それに耐えられずに錯乱した。そのまま手首を切り裂いて、結果的に海老原さんたちの目の前で……。
そこで終わった。あたしの前回は。
でもそれは、あくまでもあたしの話だ。
「あなたがここに駆けつけてくれたの、そういうわけだったんだね。……本当、ごめんね。あなたが来てくれるとは思ってなかったから……あなたに辛い思いさせちゃった」
「そうだね、辛かったよ、とっても。先輩たちの訃報と立て続けに、というのもあったから。……でもね、エルが悪いなんて思ってないし、あの時ここに向かったことは後悔してないよ。少なくとも君を看取ることはできた。君を死に際まで独りにさせずに済んだから。……というのは、流石に僕の自己満足かな」
「ううん、そんなことない」
きっと海老原さんは、あたしにそう言ってほしいと無意識に縋ったんだと思う。そうでもなきゃ、目の前で死んだ本人に自己満足かなんて問いかけないだろう。
だとしても、それで構わない。本当にそんなことないと思うから。それに……。
「最期にあなたの声を聞けた時、さ。酷いところ見せちゃった罪悪感が強かったけど……ちょっとだけ救われたと思うんだ、前回のあたしは」
言葉では海老原さんだけのように言いつつ、真璃愛さんも当てはまっていると伝わってほしくて、怪しまれない範囲で彼女の目を見ながら言葉を続ける。
「あなたのそれが自己満足だって言うなら、あたしのこれだって自己満足……いや、それよりずっと独りよがりな自分勝手だと思う。だからってわけじゃないけど、それでいいんじゃないかな? お互いの自己満足で、お互いに救われた部分があるならさ」
「……ああ、そうかもね。ならば、どこまでもお互い様だね、僕ら」
彼の目元と口角がふわりと綻んだ拍子に胸元で揺れ動いた、銀製の逆十字。室内灯を反射するそれはキラキラと輝いているけど、何故か一瞬だけ輝きとも呼べない鈍い色で曇ったように見えた。ちょうど、あたしと海老原さんを見ながら少し困ったような笑顔を浮かべる真璃愛さんみたいな。
刹那、胸の奥でも頭でもないどこかがざわついた気がした。強い不安によく似たそんな感覚も、海老原さんの笑顔に押し流されていく。
別に今は何だっていい。お互い様だとすることで、彼の縋りを受け入れて肯定して、あたしが傷つけてしまったその心に瘡蓋を作れるのなら。
それで、前回の彼に少しでも贖えるなら、それ以外は必要ない気すらした。




