第14話 真実は時として-後編-
「最初にタイムリープの話を始めたのはエルだから、君の聞きたいことから聞こう。何が聞きたい?」
あたしの手帳の一部だった紙と、海老原さんのペン。その上に組んだ両手を置いている海老原さんも、傍らに浮遊する真璃愛さんも、無表情ではあるものの様子は至って穏やかだ。
(何が聞きたい、か……そうだな……)
薄く引かれた罫線以外には何もない手帳のページに、ペン先を置きながら思案を巡らせる。何がと言われると聞きたいことばかりで迷ってしまう、けど……。
まずは手始めに、一番確かめておかなきゃいけないことを確かめて、必要なら認識を擦り合わせなきゃだ。
「聞く前に、少し確認させてほしい」
「うん」
「あたしの記憶が正しければ、海老原さんは前回と違う行動を取ることが割とあったよね。ブルームに来たこともそうだけど、その前に大学の図書館で会ったことや、前回は来週だったはずのお出かけの予定や行き先を変えたり……。前回の記憶がない人は、前回と同じ行動を繰り返すはずだから……あれはわざとやってたんだよね?」
「そうだね、未来を変えるために」
「その目的というか……理由を聞いていい? 何で未来を変えたいのか」
「……質問を返すようだが、仮にエルが僕の立場だったらどうする? 例えるなら、自分の世界を形作っているピースの多くが気づいたら消えていて、かろうじて残った最後の1つは目の前で消えてしまった……。そんな悲劇を避けられるかもしれないチャンスがあったとしたら」
ぽつりぽつりと、語るというよりは当時の心境が口から溢れてくると言った方が正しいであろう、そんな海老原さんの言葉。
1つ溢れるごとに瞼に覆われていく切れ長の緋色と、苦々しく歪んでいく端正な顔。俯く目線の先の紙に立てている爪が、それに巻き込まれて微かな皺を作る紙面が、単なる例え話じゃないことを物語っている。
(自分の世界を形作っているもの、か……。海老原さんにとってはそんな存在なんだ、あたしたちって……)
海老原さんは優しくて温かくて、兄様よりも兄みたいで、誰に対しても親切で物腰の柔らかい人。でも、誰とでも仲良くするわけじゃない。あたしたちには特別親しくしてくれていると、それは分かっていた。
でも、そこまでの存在だとまでは思わなかった。さっき店主さんに、あたしたちのことは大切に思っているとは言っていたけど。
あやすような手つきの真璃愛さんに肩を擦られる彼は、質問の答えを求めるように瞼を開き直して、あたしを見つめてくる。
顔をやや伏せているせいで、捉えようによっては睨んでいるようにも見えかねない上目遣いに既視感を覚えたけど、その正体はすぐに気づけた。
あたしに縋ったあの時の、迷子に似た顔。表情自体は違うのに、同じ顔をしている、と。
「……あたしだったら、鱓野さんも紗蘭さんも、いなくならないでほしい。ましてや殺されたり、焼け死んだりなんて……そんな末路辿ってほしくない。だから、みんなを喪わないために足掻きたい……あたしはそうするつもり。……そうしようって決断させてくれたから、あなたが」
「……僕が……?」
「うん。さっきだって言ったじゃない。未来を変えられると思うかって、あたしに縋ったって。あの時だよ」
「え……あれが?」
縋る目つきだった海老原さんが、顔を上げながらその緋色を瞬かせる。少し呆けたようにも見える驚きの表情は、迷子の顔よりよほど幼い。
そんな海老原さんを見遣る真璃愛さんも瑠璃色の両目も瞬かせて、兄とそっくりの呆けた顔をしていた。
「救いたいんだよね、鱓野さんたちを。あたしも救いたいの、みんなで一緒にいたいから。……海老原さんは、違うの?」
「……いいや、違わないさ。僕だってそのために足掻いていたんだ。先輩と紗蘭……それからエル、君を救うために」
「私も、気持ちはお兄ちゃんと同じよ! ……エルさんたちがいなくなっちゃうなんて、もう絶対に嫌。お兄ちゃんも私も、あの時は本当に辛かったんだから」
柔らかく、それでいて悲しげな微笑みを浮かべる海老原さんと、あの時はと言いながら今まさに辛そうな視線を向けてくる真璃愛さんが口にした、その言葉。
拒むような冷たさも、傷にしてやろうなんて鋭さもないはずのそれが、グサリと確かな重さを持っていて、心臓も肺も貫かれたような錯覚に陥る。
ああ、そうだ。あたしが喪ったのは鱓野さんと紗蘭さんだけど、海老原さんたちにとっては違うんだ。あたしのことだって喪ったんだ。
あたしが早まったせいで。喪った友達と残った実家に、耐えられなかったせいで。
今更そんなことに気づいたと同時に、左手の爪先が手帳の紙面を引っ掻いて、それに巻き込まれた紙を引き裂く寸前くらいに握り潰している。
「……ごめん、なさい」
「あ……違うんだ、君を責めたいわけじゃない」
「でも、あたし、辛い思いさせて……」
「そんなことはない……とは、とても言えないけど、今はこうしてみんな戻ってきてくれたじゃないか。……僕はただ、もう誰も死なないでほしいだけ、そのために足掻きたいだけだよ。同じなんだろう? エルも」
「うん……」
「とはいえ……君には申し訳ないが、君の死を過ぎたことだからと軽々しく流せはしない。だからね、その罪滅ぼしだと思って、僕に協力してくれないかな?」
あたしから言おう、でも何て切り出せば……とぐるぐる悩んでいたことを海老原さんの方から告げられて、言葉どころか声すら出ずに面食らってしまった。
そんなこっちの心情など露ほども知らないであろう海老原さんは、神妙な表情を変えずに話を続ける。
「君が前回の記憶を持っていると分かった以上、君がいてくれた方がありがたいんだ。先輩も紗蘭も明らかに隠し事だらけな上、今日みたいに前回から大幅に行動を変えても直接的な危険は排除しきれなくて……。正直、君の買い物に付き合った頃から少し手詰まりを感じてはいたんだが、いよいよそれが色濃くなってきたところだ」
「……そんなに追い詰められてたの?」
「記憶を持っていてほしくない君に、思わず縋って救いを求めてしまうくらいにはね。本当なら、全部教える代わりに聞かなかったことにしてくれと言いたいところだが……。わざわざこうして前回のことを聞いてきたくらいだ。それじゃ納得してくれないだろう?」
「あなたには悪いけど、そんなこと言われたら納得できないどころか怒ってたと思う」
「だよね。君はおっとりしているようで、実は芯の強い子だから」
「……そう、なのかな」
「そうだよ。……それにね、いざという時に僕の手の届くところにいてくれたら安心できる、というのもあるんだ。そのついでで構わないから、どうか手を貸しておくれ」
お互いに前回の記憶を持っている。それが確定して尚、海老原さんはあたしを遠ざけたいらしい。じゃなきゃ言わないはずだ、聞かなかったことにしてくれと言いたいなんて……そんな無理難題を、この期に及んで。
言うまでもないけど、こっちはそれを呑んであげるわけにはいかないし、呑むわけない。それは分かっているからこそ、協力を求めているんだろう。
遠ざけたいけど、あたしが遠ざかろうとしない。だからせめて協力という形で手の届く場所にいさせて、言い方は悪いけど監視しよう。万一またあたしが死にそうになったら対処できるように。……海老原さんの表情や言動を洞察した感じ、魂胆はそんなところだろう。
要は協力とは名ばかりだけど、彼に乗っかろう。元よりあたしの目的からは逸れることもないし。……ただ、呑みっぱなしはフェアじゃない。あたしだって譲れないものは譲れない。
「……それね、あたしが言おうと思ってた」
「え?」
「あたしだって鱓野さんたちに死なないでほしくて、だから足掻きたくて……でも、あたしだけじゃ足掻ききれないって分かった。前回何があったのか、ほとんど分からないまま死んじゃったから、あなたに助けてほしくて……。記憶あるか確かめるためにあんなことしておいて、どうお願いしようかと思ってたけど……まさか先に言われるとは思ってなかった。……同じこと考えてたんだね、あたしたち」
そう、同じこと。未来を変えるための協力は、海老原さんの方が先に言い出したことだ。あたしは海老原さんの提案に乗っかっただけ。
だから、拒否できない。万一あたしが今回も死なないよう見張っておきたい、海老原さんには。
あたしを守ろうとしてくれている彼には悪いけど、あたしはそこにつけ込ませてもらおう。協力体制を敷くという言質は取ったんだから、その範囲で自分の目的を果たせばいい。
……それなら、あの時の拒絶みたいな遠ざけられ方はしない、はず。
「……ああ、そのようだ。ならば、返事はイエスだと思っていいんだね?」
「もちろん」
「じゃあ、これからは共同戦線といこう。改めてよろしくね、エル」
「こちらこそ。だから、これからは頼り合っていこうね、お互いに」
「……うん」
握手を求めて右手を差し出してきた海老原さんの表情は、一見ふわりと花笑んだように見えるけど、観察してみればそれだけじゃないと分かる。
不安と罪悪感が色濃く滲む、複雑な笑顔……。多分、海老原さんも分かっているんだろうな。あたしがタダで自分の手の届くところにいるつもりじゃないこと。
そんな彼に「ごめんね」と「大丈夫だよ」の気持ちを込めて笑顔代わりの握手を返すと、あたしの手を握った海老原さんの手に、真璃愛さんが小さな手を重ねた。
海老原さんの右手越しで、そうでなくとも肉体を持たない故に何の感触もないはずのその手から、気のせいか何か伝わってくる。あたしの手を包む体温が、海老原さんだけのものじゃないような、そんな温かな気のせい。
「ありがとうは私のセリフよ、エルさん。私にできることなんて本当に限られてると思うけど、私も協力するわ。だから……傍にいてあげてね、お兄ちゃんの」
そう言った真璃愛さんも笑顔だった。海老原さんのとは少し違った……何か決意のようなものを感じる、凛とした微笑。
大丈夫だよ、あたしも自分が何をできるか分からないけど、きっと海老原さんの助けになってみせるから。……そんな気持ちが伝わればいいなと、真璃愛さんの目を見ながらほんのちょっとだけ頷いた。
彼女の微笑が満面の笑みに変わったところを見ると、少なくともあたしの気持ちは伝わったらしい。
「それじゃ、確かめたいことも済んだし……本格的に情報交換しよ。あたしから聞いていいんだよね?」
「ああ」
「……私、少し静かにしておくわ。私が知ってることは大体お兄ちゃんも知ってるし、2人で話した方がスムーズでしょ?」
握手を解くと同時に、あたしたちはお互いにペンを持ち直した。依然として海老原さんの肩に留まったままの真璃愛さんも、手を引っ込めた。
かなり遠回りになっちゃったけど、本番はここからだ。
「海老原さんに聞きたいことは色々あるけど、まずは一番聞きたいことを教えて。前回のクリスマスから、鱓野さんたちが死んじゃうまで、何があったの? その間のあたし、ずっと家に引きこもってたから何も分からなくて……」
「……そのクリスマスの日に、鱓野先輩から大嫌いと言われたからかい?」
「えっ……? な、何で知って……」
「そう書いてあったのを読んだからさ。遺書のつもりで書いたのだろう? その手帳に」
「あっ……」
自分でやったことながら、すっかり忘れていた。自殺する前、手帳に認めた遺書の存在を。
それをデスクの上に開きっぱなしにしてたんだから、あの時駆けつけてくれた海老原さんたちなら読んでいてもおかしくない。
「本当なのかい? そのクリスマスのことは……」
「……自殺なんてしでかす寸前に、嘘であんなこと遺すと思う?」
「すまない、エルを疑ってるわけじゃなくて、ただ……とても信じられなかったから」
「まぁ、そうだよね。普段の鱓野さん、あんな酷いこと言うような人じゃないもん」
「そうじゃなくて……いや、それもあるのだけど。……エルは、先輩のその言葉が本心だと信じているのかい?」
「……本当にあたしのことが大嫌いなら、普段の優しい鱓野さんは何なのって話だし、あれが演技には見えない。それに、大嫌いって言ってた時の鱓野さん、すっごく辛そうな顔してた。あたしを傷つけること言いながら、下手したら鱓野さんの方が傷ついてるみたいな……。だから、あれは本心じゃなかったのかも、とは思ってる。けど、今回の彼からしたら身に覚えのない言葉だし、そうじゃなくても確認なんて……そんな勇気は……」
話すほどに脳裏に甦ってくる。心の一番脆いところと、記憶の一番深いところに刺さって抜けない、嫌悪と拒絶の棘。もうあれから3ヶ月も経ったのに、傷は癒えるどころか瘡蓋にすらなっていないんだと、改めて思い知る。
それだけショックで、今でも呑み込みきれないんだ、鱓野さんに拒絶されたことは。それでもタイムリープという形で生き返ってくれたことは嬉しい。今でも鱓野さんは一緒にいると楽しくて、胸が温かくて、触れてもらえたら安心する、大好きな友達。……あたしにとっては。
「ありがとう、教えてくれて。……クリスマスから先輩たちが亡くなるまでに何があったか、だったね。僕が初めて事を把握したのは、そのクリスマスの深夜……23時を過ぎた辺りだったかな。突然、鱓野先輩から通話がかかってきた時だ」
26日になる直前……あたしを拒絶したのが21時以降だから、それからほんの数時間後のことか。
そんな時に海老原さんと通話してたんだ、鱓野さん。こっちがどんな思いしていたのかも知らないで。
「11月頭の休学以来、初めての連絡だった上、普段の先輩はそんな非常識な時間に通話なんてかけてこないからね。よく印象に残ってるよ……電話口の先輩が話していたことも」
「……あんな時にわざわざあなたに連絡して、一体何の話してたの、あの人」
「君のことだよ、エル」
「…………え」
……あたしの、こと……? あの時の鱓野さんが……?
「突き放すつもりでぶつけた言葉で、エルを深く傷つけた。もう一度会いたい、酷い嘘ついてごめんと謝りたいけど、もうそれすら叶わない。だからせめて、僕だけは傍にいてやってほしい。エルを頼む、と……そう言っていたよ、鱓野先輩は。……とてもじゃないが先輩のものとは思えない、憔悴しきった声だった」
「私も聞いてたわ、それ。あの時の仁さん、今にも泣きそうな感じ……というか少し涙声っぽかったわ。電話越しだったから、実際泣いてたかは分からないけど」
鱓野さんをフォローする言葉と共に告げられた事実に、思考回路が麻痺していく。
だって、そうでしょ。わけ分かんないよ。あたしにはあんなこと言って、海老原さんにはそのあたしのことを託すみたいな、そんな話して。
でも、会いたいって、嘘ついてって、その言葉は。それじゃあ、やっぱり、あの人は……。
「これは僕の推測だが……先輩が暴言を吐いてまで君を拒絶したのは、先輩の本心ではなく……何か、君を冷酷な形で突き放さなければならない事情があったんじゃないかな。そうじゃないなら辻褄が合わないだろう? 嘘ついたことも、謝りたいというのも。まさかあの先輩が、そこまで酷な言葉を吐いていたとは思わなかったが──え、エル!?」
「えっ!? ちょっとエルさん、どうしたのよ!?」
穏やかだった海老原さんと真璃愛さんの声音が、焦りの色に染まる。無理もない、黙って話を聞いていたあたしが、手帳の上に倒れるように突っ伏したんだから。
手帳がクッションになったからか、額から落ちるように突っ込んだけど特に痛くはない。多分今だったら、痛くても気にならないと思う。
「……海老原さん……それ、ほんと……? 鱓野さんが、言ってたの……」
「つくわけないだろう、そんなエルの心を弄ぶような酷い嘘を」
「…………よかっ……た……」
「え?」
「嫌われてたんじゃないんだ、あたし……鱓野さんに……」
本心じゃないかもとは思っていた。けど、確たる証拠はなく、本人に確かめることもできなかった。いつもの優しい鱓野さんが演技には見えなかったけど、眩しい笑顔に本心を隠しがちな彼に関しては、それだけじゃ確信するには至れなくて。
推測というよりは希望的観測と言った方が正しいままだったそれが、こんな形で確証を得られるなんて思ってもみなかった。
安堵の脱力から起き上がれないまま心を埋め尽くしたのは、鱓野さんに嫌われていなかったという確信への、呼吸を忘れかけるほどの喜び。
よかったとうわ言のように反芻する口元は、相変わらず能面じみていると見なくても分かる。いつもならそんな自分の顔を恨めしく思うのに、今は嬉しくてそれどころじゃない。
「大丈夫、鱓野先輩が君を嫌うわけないさ。嫌いな人間を拒めないほど気の弱い人じゃないって、エルなら分かってるだろう? 何の事情でエルを突き放したのかまでは分からない。確実に言えるのは、君のことを好ましく思うから、これまで君と一緒にいて……嘘をついてまで君を遠ざけたのだろうということだ。万が一それでも納得できないのなら、僕に任せておくれ。エルの溜飲が下がるまで、先輩にビンタをお見舞いしてこよう」
「だ、大丈夫。嫌われてないって分かっただけで十分だから」
「そっか。エルがそう言うのなら、しないでおくよ。……まぁ自分で言っておいて何なんだが、そんなことしたら間違いなく反撃を食らうから、できないの方が正しいかな。喧嘩強いしね、あの人」
「えっ……そうなの? 運動神経いいのは知ってるけど、そういう印象はなかった……」
「だろうね、エルからすれば。僕だって先輩が喧嘩してるところを見たのは、高校時代の一度だけだから」
「あ、私も見たわよ! いつも通り、お兄ちゃんと一緒にいたから」
体から抜けた力がやっと戻ってきたあたしはテーブルから起き上がりつつ、突然出された思いもよらない鱓野さんの情報に興味を掻き立てられる。
……深掘りしてみようかな、少しだけ。話の本筋からは逸れちゃうけど、あたしの知らない鱓野さんを、もうちょっとだけ知りたい。
「……ちなみに、強いってどのくらい?」
「喧嘩慣れしてるであろう大勢を1人で相手して、ほぼ無傷で勝った……と言ったら伝わるかな? 実際にそうだったんだ。あの時ほど、鱓野先輩が敵にならないでくれてよかったと思ったことはないよ……」
「敵にならないでって……鱓野さんがあなたの敵になるようなことある?」
「今はないと思うが……高校時代、とりわけ先輩と知り合ったばかりの頃の僕は、かなり人格が荒んでいてね。当時の先輩への態度を思い返すと、先輩はよくあんな僕を気に入ってくれたなとしか言いようがなくて……。一体僕の何がそんなにお気に召したのか、今でもよく分からないが……」
荒んでいた海老原さん、というこれまた唐突な新情報にも興味が湧いて、そっちも聞いてみよう……と思ったけど、口を開いた瞬間にやめた。
気まずそうな自嘲を浮かべながら語る海老原さんに反して、彼を抱きしめる真璃愛さんの表情が、とても悲痛な歪み方をしていたから。
少なくとも海老原さんのことに関しては、これ以上深く聞き出すべきじゃない。真璃愛さんが浮かべた辛苦の表情は、そう決めるには十分すぎる判断材料だった。
「そう、だったんだ……。……にしても、分からないね。鱓野さんがあたしを突き放した理由は元より、海老原さんがああ言うほど強い鱓野さんが、誰に殺されたのかも。鱓野さんだって無敵ってわけじゃないだろうけど、腕に覚えがあるのは確かってことでしょ? そんな人を刺し殺すなんて、誰がそんなことできるんだろう……」
少し不自然だったかもしれないけど、話を戻すためにも話題を転換する。真璃愛さんの表情から目を逸しながら振ったその話題に、答える声はなかった。
急に沈黙した海老原さんにどうしたんだろうと視線を戻すと、今度は海老原さんが悲痛な表情を見せていた。あたしから視線を外すその顔を少し観察すれば、その中に葛藤の色も垣間見える。
真璃愛さんも同じ表情をしているけど、その視線はまっすぐとあたしを見据えている。
「……海老原さん?」
「……分かっているんだ。鱓野先輩を殺害したのは、誰なのか」
「えっ……?」
「分かっていると言うより、前回の本人が自供したと言うべきだね……この場合は」
「……じゃあ、あなた……ずっと、知ってたの? 鱓野さんを、殺した、人……」
「…………ああ」
震えて詰まる息に、声を搾り出そうにも阻害される。何とか言葉にできた音を海老原さんが肯定した瞬間、心臓がドクリと波打つ感触と、締めつけられて停止しそうな感覚が同時に襲ってきた。
「っ……だれ、誰なのっ……。あたしたちから、鱓野さんを、奪ったの……!」
大切な友達を悲惨な末路に追いやった犯人が誰なのか、その答えが、すぐ手の届くそこにある。急激に茹だる腹の底と頭に任せて、彼に答えを急かしてしまう。
……海老原さんの表情は、どんどん重苦しくなっていく。あたし以上に震えた息で、大きな深呼吸を繰り返している。真璃愛さんは首を左右に振りながら、とうとう唇を噛みしめて目を閉じてしまった。
口にしたくない、認めたくないと無言で叫ぶ2人を、あたしはただ見つめて次の言葉を待つことしかできない。しかしそれから幾ばくもなく、辛くも意を決したような眼差しになった海老原さんと、視線が絡み合った。
「……これはあくまで、僕が本人の口から聞いたことで、本人が先輩を殺した瞬間を目の当たりにしたわけじゃない。だから、本人の言葉が全て事実だとするなら、という前提ではあるが、本人は…………彼女は、確かに言っていた。家族同然の幼馴染みを、この手で殺した……と」
「……………………え」
家族同然の、幼馴染み。彼女。つまり、それは、鱓野さんの……幼馴染みの、女性。
知ってる、あたし。その2つに当てはまる人を。海老原さんも、真璃愛さんも、知ってる人。
でも、それは、待って。そんなの、だって、そんな、わけ。
「彼女の言葉が、真実だとするなら──」
「まっ、て……えびはら、さん……なに、言、て……」
「鱓野先輩を、殺したのは──紗蘭だ」




