第14話 真実は時として-前編-
あたしの真正面に座る海老原さんの様子は、息遣いすら見えそうなほどにはっきりと伝わってくる。だからこそ、すぐに分かった。大げさに呑んだ息も、オムライスに刺さったままのスプーンごと震え始めた手も。
その傍らで、真璃愛さんは明らかに狼狽えていた。ミルクティー色の髪と、水色のエプロンドレスの裾……蓮の花弁製の襞襟まで振り乱して、絶望の数歩手前みたいな歪んだ表情で。この様子を見るに、真璃愛さんも海老原さんと同じと考えて間違いなさそうだ。
驚くようなことじゃない。前回と違って海老原さんの傍にいないことがあったり、面識ないはずの店主さんのことを「何度か怖いなって思った」なんて言っていたように、そういう兆候は今まで十分あった。
真璃愛さんはほとんど認めているに等しい反応だけど、それでも海老原さんは一瞬険しさに呑まれた笑顔をぎこちなく貼り直した。何とか体勢を立て直そうとする彼には悪いけど、それを許すわけにはいかない。
また黙らせられる前に、こっちが主導権を握らないと。
「……何を……急に、言い出すのかな、君は。それより……ほら、ちゃんと食べないと──」
「前回に起こったことの記憶もあるよね。じゃなきゃ出てこないでしょ、鱓野さんの方がなんて言葉。記憶がないなら、むしろあたしが紗蘭さんの方がって言った時点で疑問に思うはずじゃないの。鱓野さんが殺されたこと知ってるからでしょ、疑問じゃなくて同意を返したの」
「それは……いや……」
「さっき店主さんに食ってかかった時も「紗蘭の方が」って言ってたの覚えてるよ、あたし。……店主さんといえば、紗蘭さんと店主さんが血縁関係のない親子だって知ってたのは何で? あなたたちがブルームに来た日、紗蘭さんは店主さんのこと、父としか紹介してなかった。……血が繋がってないなんて、一言も言ってなかったよ。何で紗蘭さんが言ってない、あなたが知らないはずのこと知ってるの」
「ぁ……」
「来店前に鱓野さんが説明してた……わけはないよね。だったら紗蘭さんが店主さんの紹介した時、あなたの反応が薄かったことにツッコんだりしないし、そもそもあの人は他人の複雑な事情を本人の許可なくベラベラ喋ったりもしない。あなただって知ってるでしょ」
「……………………」
「それにあなた、最初から紗蘭さんは計画的に狙われた前提で話してるけど……突然殺されそうになった状況なのに、何で通り魔的なものだって可能性を排除してるの。むしろ真っ先に考えそうなものじゃない?」
尾行に気づいた真璃愛さんやあたしと違って、海老原さんは紗蘭さんが殺されかけたその瞬間まで、実行犯の存在にすら気づかなかった。
紗蘭さんがずっと狙われていたことに気づかなかったのだとしたら、尚更計画性なんて疑いそうもないのに。
「っ……分からない、な……何の話か……」
それでも彼は歪んだ笑顔を冷や汗で湿らせながら、しらばっくれる意思を曲げない。声は震えて、目は合わなくて……もうとっくに自白しているも同然なのに。
……やっぱり認めてもらうには、この手を使うしかなさそうだ。本当だったら極力言いたくない、海老原さんに思い出させたくないことだけど。
彼が認めてくれないことには、話が進まないのだから。
「そう、分からないんだ。……あたしは覚えてるよ、前回のあの日のこと。忘れられるわけない。鱓野さんたちの死を、あなたが教えてくれたこと。その後、あたしが何をしたのかも」
「────────」
「エルさん待って! それ以上は──」
「この家のバスルームで手首を切って、あなたの目の前で、あたしも──」
「やめろッ‼」
半ば悲鳴と呼んでいいくらいの怒号と、カトラリーが微かに振動するほどの力で叩かれたテーブルから伝わってきた衝撃音に、息も言葉も呑まされた。
意地でも言いきるつもりだった。そうでもしないと彼は認めてくれずに、またあたしを遠ざけようとすると思ったから。それに気圧されるわけにはいかないから。
……そのつもり、だったのに。
「やめてくれっ……思い出させるな、頼むから……!」
テーブルを両の掌で殴りつけたと同時に立ち上がった海老原さんは、深く深く項垂れている。まだ悲鳴の名残が感じられるその声はか細いけど、それが発した言葉は秒針の音程度じゃ掻き消えなかった。
そのまま糸切れたように椅子に身体を落とした海老原さんの肩を、真璃愛さんが抱きしめる。海老原さんは、今にも毟るんじゃないかと思うほど両手で髪を握りしめて、項垂れたままの頭を抱えている。
そうする直前に一瞬見えた掌は、腫れているのかと心配になるほど真っ赤だった。
(……やっぱり、思い出したくないことだったんだ。あたしの死に際は……)
手段は選ばないつもりだった、足掻くためなら。それでも、大好きな友達に辛い思いをさせた後悔と罪悪感が真っ先に湧き上がった。
次いで、ちょっとだけ……本当にちょっとだけ、あたしの死を辛いと感じてくれたことを嬉しいなんて思った。今際の際に聞いたあの絶叫で察していたけど、実際にこうして辛そうにしている様を目の当たりにして、それがじわじわと実感を呼んで。
そんな自分が最悪すぎて、心の底から反吐が出る。
(こんな醜いあたし、海老原さんにも真璃愛さんにも知られたくないな……)
ごめん、海老原さん。後で必ず謝る。だから……。
今だけ、あなたの心を蔑ろにすることを許してほしい。
「……それ、認めたって受け取っていい? タイムリープのこと知ってるって」
我ながら非情だと思う。目の前で苦しんでいる友達に、その原因を作った上で追い打ちをかけるなんて……到底友達がやることじゃない。
あたしの言葉にバッと振り向いた真璃愛さんもそう思っているのか、顔全体に僅かな非難の色が見える。それを甘んじて受けようと思う反面で、いつも優しい真璃愛さんに責めるような表情を向けられるのは……やっぱり少し堪えてしまう。
「…………いつ、から……」
「お兄ちゃん?」
真璃愛さんの腕の中、深呼吸を繰り返していた海老原さんの声は、喘鳴のように掠れていた。彼の呼吸が落ち着くのを待ちながら、あたしは無言で続きを促す。
「……いつから、気づいていたんだ……? タイムリープに……」
ようやく息が元通りに近づいてきた頃、海老原さんは顔を上げてくれた。前髪の隙間から覗く額には脂汗が滲んでいる、けど……。
眼窩の中で細められた緋色は、悲痛さを物語るように鈍く……それでも優しい光を宿している。
「2021年の1月3日に自殺したあと、目を開けたら半年前……2020年の7月3日だった。気づいたのはそこ」
「……つまり、最初からか」
海老原さんはそう呟いて、ゆっくりと目を閉じながら少しだけまた俯いた。何か思案を巡らせているようなその様子に、声をかけるのを躊躇ってしまったのは、何て声をかけたらいいか分からなかったからだ。
記憶があると認めてくれたまではいい。けど、そもそもの目的は認めてもらうことじゃない。鱓野さんたちを喪わないために協力を求めることだ。
……でも、こんな状況を作った上で助けてなんて、どの面下げて言えばいい? いくら優しい海老原さんでも、そんなこと言ったら怒らせちゃうんじゃ……?
手段を選んでいたら彼は認めてくれないと思ったからやったことだけど、自分で撒いた種ながら、どう二の句を継げばいいか分からない。
(覚悟は決めたはず……なんだけどな……)
沈黙の中で存在感を増していく秒針が、心地の悪さを引き立てる。逃れるように海老原さんから視線を逸らした先で、真璃愛さんと目が合った。
物悲しそうな表情だけど、少なくとも非難の気配はない。そのことに思わず安堵した。
「……もう分かってるかもしれないけど、タイムリープ前の記憶があるのは私もよ。知らんぷりして隠してたことは……ごめんなさい」
あたしの視線をどう受け取ったのか、真璃愛さんは気のせい程度に目を伏せながらそう告白した。
分かってるよ、謝らないで。あたしこそ、あなたの家族に酷いことしてごめんね。
……言いたいことは色々あるけど、海老原さんがここにいる以上はお預けだ。
「薄々……ね。そうなんじゃないかとは思っていたんだ」
「……海老原さん」
「半年間タイムリープした直後、鱓野先輩が「エルちゃんと喋ってたら突然逃げられた」って大騒ぎしてたから。前回の7月には、そんな出来事なかったのに」
「あぁ……そうだったね。気づいたら家じゃなくて大学にいるし、冬とは思えないくらい暑かったし、何より鱓野さんが目の前にいたから……つい……」
「それは無理もないさ。……それでも最初はそんなはずないと思って……いや、思い込もうとしたんだ。でも、一度頭に浮かんだら疑惑は膨らんでいくばかりで、もしかしたら本当に記憶があるのかもと考えるようになった。だから、つい……君に縋ったこともあったよ。未来を変えられると思うかって」
「あ……本屋さんでの買い物に付き合ってくれた日のこと……?」
「うん」
「……だったら、何で言ってくれなかったの。聞こうとしたのに……あなたがブルームに来た日……。なのに、あなたは……っ!」
あの時突然浴びせられた強い拒絶がフラッシュバックして、そんなつもりはないのに海老原さんを責めるような言葉を吐いてしまう。
……今のあたしに、彼を責める権利なんかないのに。
「すまなかった、あの時は。……記憶を持っていてほしくないあまり、咄嗟に拒んでしまったんだ。そもそも、君が記憶を持っていること自体がおかしいから」
「? どういう意味……?」
「……その辺りも含めて話し合い、もとい情報交換させてくれ。こうなってしまった以上、君に確認したいことができたし……君だって、何か目的があって僕にこの話をしたんじゃないかい? タイムリープ前の僕の様子を知った上で、ただ意地悪するためにこんな話をするような子じゃないだろう、エルは」
微笑と共に小首を傾げる海老原さんは、呼吸も声色もすっかり元通りになっている。優しい笑顔、穏やかな緋色の目元、温かい声……それらがこの張り詰めた空気を和らげてくれる。
そんな海老原さんの様子に、悲しげだった真璃愛さんの表情にも微かに笑顔が戻った。海老原さんの肩を抱きしめたままだった両腕を解いて、彼女はあたしの目を見据えてくる。
「エルさん……お兄ちゃんの助けになってあげて。私じゃ何の力にもなれないから。私たちと同じように記憶を持ってるエルさんじゃなきゃ、頼めないことなのよ……お願い……!」
言葉の通り願うように、祈るように、両手の指を組み合わせる真璃愛さんの表情は切実そのもの。海老原さんの助けになってほしい……それが冗談でも何でもなく、本当にそうしてほしいと願うからこそ口にした言葉なんだと伝わってくる。
真璃愛さんの言う助けが何のことなのかは分からない、けれど心当たりはある。それは今まで海老原さんが取ってきた、あからさまに過去と違う言動。
あたしに縋ったのはついやってしまったことだと言っていたけど、鱓野さんにブルームへ案内させたことは確信犯だろう。今日の遊園地だって、元を正せば別の場所へ遊びに行くはずで、前回は来週行っていたはずだった。今日のお出かけは、全部海老原さんが仕向けたことだ、行き先を遊園地にしたこと以外は。
やっぱり、海老原さんにも何か目的があって未来を変えようとしてたんだ、きっと。その目的が何なのか分からないけど、もし、それがあたしと同じ……鱓野さんと紗蘭さんの末路を変えることだとしたら。仮に違っても、それも達成できうるものだとしたら。
助けになれるかもしれない、真璃愛さんの願い通り。文字通り死ぬまで引きこもっていたあたしが、一体どう助けになるのかも分からないけど。
そもそも海老原さんに目的があったとして、まだそれが何なのかも不明瞭なんだ。それを教えてもらうためにも……。
「分かった。お互いの知ってること教え合おう。あなたの言う通りあたしも目的があるし、前回の出来事について聞きたいことが山ほどある。それで……ごめん。記憶があるのか確かめたかったとはいえ、あなたが思い出したくないこと、思い出させて……」
「……あの時のことは、確かに思い出したくないくらい辛い出来事だったさ。けれどね、酷いのはお互い様だろう? 僕だって、君が記憶を持っていると思いたくなかったからって、君を怖がらせるなんて酷いことをしてしまったのだから。本当にすまなかった、あの時は。僕は君を許すから、エルも僕を許してくれないかな?」
「もちろんだよ……ごめん……」
「ああ、謝らないでおくれ。ここまできたら痛み分けだってば」
テーブルに腕をついて身を乗り出した海老原さんの、空いている右手があたしの頭へ伸びてくる。会釈する形でその手を迎え入れた、そんなあたしの頭を彼の右手が撫でてくれる。
ポニーテールを崩さないように優しく、それでも大丈夫と宥めるような力強さも感じる、よく知った手つき。その向こう側で、手の主とその妹さんが微笑んでくれる。その何もかもが温かくて、胸の中の何かが解れていくようで。
寒くもないのに鼻の奥がツンと痛んだのと、視界に映る全てが一瞬にして輪郭を失ったのは、ほぼ同時のことだった。何が起こったのか、考えるより早くに熱くなった目頭が物語るから、思わず伏せ気味だった顔を叩くように両手で覆った。
「エル? ……あれ、泣いてるのかい……?」
「ちょっと、エルさん!? まさかお兄ちゃんのなでなで嫌だった!?」
「ごめん、何か気に障ってしまったかな」
「ちが……違うのっ……。そうじゃなく、て……ぅ……」
いざという時に何もできないあたしだけじゃ力不足だと悟った。1人じゃ足掻ききれないと思ったから、手段も選ばずに海老原さんに縋った。それは確かだ。
でも……多分あたしは、同時に不安だったんだ。1人と同じくらい、独りであることが。タイムリープしているなんて誰にも話せなくて、頼れる味方もいなくて……それが寂しかったんだと思う。
だからきっと、内心ずっと求めていたんだ。誰も知らないはずの事実を分かち合えて、あたしを独りにしないでくれる味方を。
それが海老原さんと真璃愛さんで良かったと、心の底から安堵した。まだ記憶を持っているということしか分かってないのに。
「ぁ……あたし、だけじゃっ、ない、って……。あたし以外、にも、ひぐっ……タイムリープのこと、知ってた、て……分かった、の……あんしん、しちゃ、て……。そした、ら、急に……涙、止ま、なくてっ……ごめ……」
「……そっか、今まで心細かったんだね。そんな君の安心材料になれたのか、僕は。それはよかったよ、本当に」
「私も安心したわ、記憶を持ってるのがエルさんで。私とも共有してくれるエルさんなら、頼もしさ100倍だもん!」
「安心してくれたことは嬉しいけれど、君が泣いていては素直に喜べないかな。……ほら、そんな拭い方では目元を傷めてしまうし、せっかくの可愛い顔に傷をつけてはいけないよ」
「っ……かわいく、ないっ……て……ぅう……」
頭の上に置いてくれていた手は、ブラウスの袖で粗雑に目元を擦るあたしの手の間に滑り込んで、人差し指の背で涙を拭ってくれた。鱓野さんほどじゃないけど大きくて骨ばった手からは、髪を隔てていない分その温もりが直に伝わってくる。
前髪で覆い隠している右目の涙は、前髪を除けないように慎重に手を差し込んで拭いた。それでもしばらくは拭っても拭っても溢れてきたし、鼻はぐずついて過呼吸寸前だったけど、次第に落ち着いていった。
洗面所を借りるとだけ言って離席した海老原さんは、ハンガーラックのチェスターコートから何かを取り出すと、その足でダイニングを出た。
しばらくして戻ってきた彼は、軽く畳まれたハンカチを持っている。
「はい、あとはこれで目元を冷やして」
「あ……ごめん」
差し出されたハンカチを受け取ると、ひんやりと湿っている。泣き腫らしてしまったであろう左目に充てがうと、目元の熱が吸い取られていくようで気持ちいい。
「ハンカチ、ありがとう。洗って今度返すね」
「気にしなくていいのに……でも、お言葉に甘えさせてもらおうかな。じゃあ、情報交換に入る前に……まずはご飯食べようか」
「……あ」
少し目線を下げた海老原さんの前には、まだ半分くらい残っているオムライスと、ほとんど手をつけてないサラダ。あたしの前にも、一切手つかずのサラダが置いてある。
それを見て呆けた声を漏らした途端、真璃愛さんが鈴の音色みたいな可愛らしい声混じりに吹き出した。
「もー、エルさんってば、さてはご飯中なの忘れてたんでしょ〜? うっかり屋さんなんだから〜」
腕だけこっちに飛ばしてあたしの頬をつつきながら悪戯っぽく笑う真璃愛さんの言葉は図星で、でもからかわれたのが悔しくて、思わず頬を膨らませてしまう。
そんなあたしに気づいたのか、海老原さんが小首を傾げた。まずい、流石に露骨だったかな……。
「あー……そのオムライス、もう冷めちゃってるでしょ。温め直そっか?」
「いや、大丈夫。冷めても美味しいよ、君の料理は」
「お兄ちゃん、今度こそ私が食べてる気分になれるくらいの食レポ頼むわよ……って、こらー! 自分だけ黙々と味わわないで! それを見せられる私の気持ち考えてちょうだい! 私だって食べたいのよ!?」
真璃愛さんが半泣きで抗議していることなど知る由もない海老原さんは、再びオムライスを食べ進める。頬張りながら綻ぶ目尻にホッとした気分になりながら、あたしもやっとサラダに手をつけ始めた。
いつもより速く食べているつもりだけど、口にすら入れたくない物を胃袋に押し込んでいくだけの作業は、なかなか手が進まない。あたしはサラダだけなのに、結局食べ終えたのはハイペースでオムライスもサラダも消費していく海老原さんと、ほぼ同じタイミングだった。
「ごちそうさまでした。とても幸せな晩ご飯だったよ」
「結局お兄ちゃんばっかり楽しんじゃって~……幸せなのはいいことだけどっ」
「お粗末様でした。お皿、流しに置いてくるね」
「ありがとう。僕はメモ帳を準備してくるよ。書き出して整理しながらの方が話しやすいからね」
「分かった」
あたしは食器をまとめてキッチンへ、海老原さんたちは自分のトートバッグをかけてあるハンガーラックに向かう。
洗い物は後でいいかとシンクに食器を置いて水を溜めてから、あたしも寝室に置いていた自分の手帳を取りに戻った。表紙に青い石の装飾がついている手帳を手に取った時、ふとあることを思い出す。
(そういえば、この手帳の話もするべきかな……?)
人の記憶も物の状態も時間と共に巻き戻った世界で、タイムリープしたことを示す証拠は2つ。1つはあたしたち3人の記憶。もう1つは、今も前回の状態を維持している手帳。
死者の命すら元通りになる現象の中で、タイムリープした半年分に記した内容は全て手帳に残ったままだった。本来ならその日記だって、消えて無くなってなきゃおかしいのに。こんなイレギュラーな物、あたしが知る限りではこの手帳しかない。
あたしたちの記憶と同じことが起こっていること、海老原さんたちにも伝えた方がいいのかな。タイムリープと関係があるかは分からないけど……。
(でも今はそれより、あたしが引きこもってた間の話をしたいし……。まぁ、手帳のことはタイミングがあったらでいいか)
室内灯が反射して、やけに眩しく光る青い石が目を引く手帳。それとペンを手にダイニングに戻ると、海老原さんは難しい顔をしながらトートバッグを漁っていて、真璃愛さんもそこを覗き込んでいる。
「どうしたの?」
「ん……いやそれが、ペンはあるのだけどメモ帳が見当たらなくてね。いつもこのバッグに入れておいてるのに……家に置いてきたか……?」
「あ、だったらあたしの手帳の紙あげるから、それ使って」
「いいのかい? すまないね」
開いた手帳から真っ白なページを1枚破り取って、ペンを持ってテーブルに戻ってきた海老原さんにそれを手渡した。
お礼の言葉と共に受け取った海老原さんはテーブルの定位置に再び腰を下ろし、真璃愛さんは海老原さんの肩に両腕を置いて留まった。彼の向かいに座ったところで、神妙な顔をした海老原さんが重い声音であたしの名前を呼んだ。
その声と、無情な秒針の音が急にまた主張を強めて、そんな空気が呼吸を喉の浅いところで凍らせる。
「君はさっき、前回の出来事について聞きたいことがあると言ったね?」
「? うん」
「君が望むなら、僕が知る限りのことをありのままに伝えると約束しよう。ただし……」
「……ただし……?」
「先に言っておく。その中には、君にとって非常に辛いもの……君が知りたくないであろうことも含まれる」
「え……」
「あの時の……正確には恐らく今も、だが。事態はきっと君が思っているよりも深刻だし、残酷なものだ。……それでも聞いて、受け止めるだけの覚悟はある?」
「…………ある」
「そんな簡単に言っていいのかい?」
「簡単じゃないよ。……あの時は、本当に死ぬしか逃げ道がなかったんだ、あたしには。だって……仕方なかったじゃない。大好きな友達が死んだんだよ。しかも、2人も。それで十分だったの。あたしが死んだ理由なんて」
「……………………」
「エルさん……」
「それくらいの絶望だったんだよ……少なくとも、あたしにとっては。そんな経験したあたしが思うより深刻で残酷で、知りたくないほど辛い出来事って……正直聞くのも怖いけど、それでも聞く。……紗蘭さんが殺されそうになった時、あなたは紗蘭さんを助けて、鱓野さんは実行犯を捕まえた。何もできなかったのは、あたしだけだ」
「そんなことは──」
「あるよ。またそうなりたくないから、鱓野さんたちを助けるために、今度こそちゃんと足掻きたいから。そのためなら、どんな事実でも聞くつもり」
「……そうか。君の決意が固いことは十二分に伝わったよ。それならもう、僕が案ずるべきことはない」
相変わらず煩いくらいに響く秒針は室内の体感温度を下げて、心臓から血管の端まで凍らせるほどの緊張を絶やさない。手帳をめくる指先が震えそうになる。
そんな中で、あたしを見据えてくる緋色と瑠璃色だけが、冷たくなかった。
「それじゃあ……始めようか」




