第12話 何もできないままなんて
遊園地の最寄り駅から途中で乗り換えを経て、ブルームの最寄り駅へ向かう電車内。ドア上にある液晶パネルが次の停車駅として目的地の駅名を表示する頃には、もう紗蘭さんの金眼は眩さを取り戻していた。
しっかり前を見据えるその顔は、いつも通りの微笑みを湛えすらしている。
というより……。
(いつも通りすぎない……?)
「エル先輩? 何か私の顔に気になるものでも?」
「え? いや、その……」
あたしと横並びで座る紗蘭さんが、ふとあたしに視線をよこした。その顔を正面から観察しても、やっぱりいつも通りの微笑にしか見えない。
彼女が突然命を狙われてから、まだ1時間も経っていない。だというのに紗蘭さんの声も表情も、平常心そのもの。いつもの明るさまでは流石に元通りではないけど、気丈に振る舞ってとか、あたしたちを気遣ってとか、そういう不自然さはいくら観察しても見当たらない。
あなた、さっき殺されそうになったんだよ? 何でそんな平静でいられるの?
……なんてこと聞けるほどデリカシー無しのつもりはない。紗蘭さんの問いかけに二の句が継げず、不明瞭な誤魔化しを反芻しながら目を逸らすのが精一杯だった。
(何であんな自然な笑顔してられるんだろ……ブルームのお客さんで慣れてるとか……?)
でも、ドスの迷惑客みたいに凶器を持ち出す人はレアケースだし、常連さんはあんなこと絶対にしない。こんなすぐ平常心に戻れるほど慣れているとは、流石に……。
……あるいは、あたしが普段見ている笑顔自体が、自然の……本物の笑顔じゃないとか? 今こうして湛える微笑みも、いつも見せてくれる明るい笑顔も、実は無理に作った偽物……?
(いや……だったら普段からおかしいはずでしょ。作り笑いって、それ自体がすごく不自然なものなんだから。初対面の相手でも、観察するまでもなくすぐ気づけるくらいに……)
それに、高校時代からの……実質初めてできた友達である紗蘭さんが見せてくれていた笑顔が嘘の産物だったなんて、考えたくない。
だって、そんなの……笑顔だけじゃなくて、まるで今まであたしにくれた親愛すら、偽物みたいじゃ──。
「エル?」
「!」
「大丈夫? もうすぐブルームの最寄り駅じゃないかい?」
あたしたちの正面で吊革を握って立っている海老原さんが、心配の色が混ざった優しい表情であたしに声をかける。それに意識を引き上げられて初めて、間もなく目的地に到着することを告げる車内アナウンスが耳に入ってきた。
「……うん、そうだね。降りる準備しとく」
膝の上に乗せたミニリュックを背負いながら、さっきまで考えていたことを頭から追い出した。
今あたしがするべきことは、紗蘭さんをブルームまで送り届けることだ。余計な憶測を膨らませている場合じゃない。
……程なくして減速し始めた車体は完全に停車して、開いた電車のドアからホームを目指して、結構な人数が流れていく。
「紗蘭、立てる?」
「大丈夫です、もう自力で歩けますので」
「……そうかい、失礼したね」
降車する人の流れのままにホームへ降りて、改札への歩き慣れた道を、紗蘭さんはあたしたちを先導するようにスタスタと歩いていく。電車に乗る前は海老原さんの支えなしじゃマトモに歩けなかった人の足取りとは、とても思えない。
追い出したはずの憶測がまた脳内に湧いてきそうになって、軽く頭を振った。その横で海老原さんは、紗蘭さんを見ながら心配半分、怪訝半分みたいな複雑な顔をしていた。
邪念を払うためにも、あたしは周りに不審な人がいないか警戒しつつ、真璃愛さんが帰ってこないか探しているけど、どちらも見当たらない。
(不審者がいないのはいいけど、真璃愛さん……どこまで追いかけてるんだろう……)
人目に映らないあの子に限って何かに巻き込まれたとは考えにくいけど、気がかりなものは気がかりだ。……とはいえ連絡手段なんてないし、黙って待つしかない。
紗蘭さんに続いてしばらく歩くと、いつも使っている改札に出た。出口の先から差し込んでくる光も空も、すっかり茜一色だ。
改札を出てブルームへ急ごうとした時、行き交う人々の中に1つだけ早足でこっちに向かってくる人影があることに気づいた。一瞬身構えたけどその正体が分かった瞬間、向こうが先に口を開く。
「紗蘭!」
「蔵市郎さん!?」
紗蘭さんがその人影の名を呼びながら駆け寄って、あたしたちもそれを追う。
半ば抱きつく形で店主さんの胸元に飛び込んだ紗蘭さんを、店主さんはそのまま受け止めた。軽く紗蘭さんの肩を擦るその様は、怪我がないか確かめているように見える。
店主さんは珍しくタバコを咥えていないけど、いつもの仕事着のままで、子供に泣かれそうな人相の悪さもいつも通り。だけど紗蘭さんを見遣る暗褐色の三白眼は心配の色を纏っているし、オールバックに撫でつけた髪によって露わになっている額には汗の粒がいくつも光っている。気温が高いわけでもないのに。
「事情は仁から聞いてる。エル、ここに来るまで変わったことなかったか? 不審な野郎は?」
「大丈夫です、いませんでした。店主さん、わざわざ迎えに来てくれたんですね」
「まだ店開ける時間じゃねェしな。……悪ィな、ここまで送らせちまって」
「いえ、あたしは付き添ってただけで……。紗蘭さんを助けてくれたのだって、海老原さんですから……」
「あァ……そうか。ありがとな、海老原」
「いえ、ちゃんと紗蘭を貴方の元に送り届けられて良かったです」
……店主さんの人相の悪さ、さっきはいつも通りだと思ったけど、よく見たらそんなことないな。いつもの5割増しくらい悪い……この前の迷惑客に向けていたのとほとんど同じだ。何とか表に出さないよう、なるべくセーブしている様子はあるけど。
あの時も今も、紗蘭さんが危ない目に遭わされた直後のことだ。養女が命の危険に晒されて、気が立っているのかもしれない。
……あまり長居しない方がよさそうだな。冷静でいようとしてくれる店主さんを変に刺激したくないし、こんな人の多い場所よりブルームの方が紗蘭さんも安全だろうから。
「それじゃ、2人共……あたしたちはこれで」
「あァ。……寄り道すんじゃねェぞ」
「先輩も海老原君も、ここまでありがとうございました」
ペコリと会釈した紗蘭さんは踵を返して歩き出し、それに寄り添うように店主さんも離れていく。
何だかいつもより淡白に感じるお別れの挨拶を物寂しく思いつつ、あたしたちも帰ろうと海老原さんに言おうとした……その時。
「待って下さい」
数歩離れた2人の背に、海老原さんがそんな言葉を投げつけた。足を止めて振り向いた紗蘭さんは不思議そうな顔を、店主さんは怪訝と苛立ちが混ざった顔をしている。
もうやるべきことはやり遂げたんだから、わざわざ引き止める理由なんかないはずなのに。海老原さんの意図が分からず、あたしも首を傾げることしかできない。
「……まだ何かあんのか」
「嶋崎さん、先程事情は鱓野先輩から聞いたと言ってましたよね。ならば、紗蘭の身に何があったかご存知でしょう?」
「だったら何だってんだ」
「その割には、随分冷静だと思いまして。血の繋がりがないとはいえ、養女が命を狙われたというのに」
「……あ゛ァ?」
「海老原さん……!」
ドスがきいているなんてレベルじゃない、そんな店主さんのがなり声を浴びたのはあたしじゃないのに全身が跳ねて、半ば縋りつくように海老原さんの腕を掴んだ。
ただでさえ気が立っている店主さんの神経を逆撫でるようなことを言う、そんな海老原さんの意図が本気で分からなくて、とにかくこのまま店主さんを怒らせたらマズいという一心で海老原さんを制止する。
けど、海老原さんは店主さんを見据えたまま、あたしを一瞥すらしない。切れ長の緋色から放たれる眼差しは真剣そのもので、どう見てもふざけたり冗談を言っているようには見えない、焦りの色が混じった険しい表情。
だからこそ、余計に分からない。何を考えてこんな海老原さんらしくないことをするのか、何に焦っているのか。
「さっきから何が言いてェんだよ、てめェは」
「先に断っておきますが、間違っても貴方を非難したくてこんな話をしてるわけではありません。ただ、僕は……貴方が何かご存知なのではと思っただけです。紗蘭の方が狙われたことについて」
「ッ……仮に俺が何か知ってたとしてよォ、てめェに教えてやる義理なんざねェだろうが‼」
「蔵市郎さん!」
瞠られた三白眼から愕然と焦燥が顔全体に広がって、今にも破砕音が聞こえてきそうなほどに、店主さんは強く奥歯を食いしばる。それがもたらした一瞬の沈黙の後、眉間の皺を深める店主さんがツカツカと海老原さんに歩み寄って行く。
そして咆哮に似た怒号を轟かせながら、険しい顔と強い視線を保ったままの海老原さんの胸倉を掴んだ。出たのが脚じゃない辺り、まだ本気では怒っていないみたいだけど、いつ海老原さんを蹴り飛ばしてもおかしくないくらいの剣幕だ。
紗蘭さんが慌てて店主さんを止めるけど、どちらも一歩も引かない。暗褐色と緋色が真正面からぶつかり合って、見えない火花を散らしているのが分かる。
あたしも止めないと、とは思いつつ、本音を言うと思考は全く別の方に向いていた。
(何だろう……さっきから海老原さんの言葉に、違和感があるような……)
店主さんを挑発する意図が分からないのとは別の、海老原さんの言葉への違和感を何度か覚えている。何なのか分からないけど、とにかく強烈に何か引っかかる気がしてならない。
「……やっと動揺を見せてくれましたね。僕にエルや鱓野先輩ほどの観察眼はありませんが、貴方のそれが図星の顔であることくらいは察しがつきます」
「何が目的なんだよ、てめェは……ッ‼」
「蔵市郎さん、落ち着いてください! 周りの人が……!」
紗蘭さんの悲鳴混じりの制止に、あたしはハッとした。そうだ、ここ、駅の真ん前だった。
ぐるりと辺りを見渡せば、こっちを見ながらヒソヒソとざわめいている人、面倒事はごめんだとばかりに小走りで通り過ぎる人……。様々いるけど、目立ってしまっていることは確かだ。
店主さんもそれに気づいたらしく、軽く放り投げるような形で海老原さんを開放してから、自分の肩を掴んでいる紗蘭さんの手をやんわり解かせた。
そのまま後方に数歩離れて、カーキ色のウエストポーチからタバコとライターを取り出し、タバコに火を点けて吸い出した。まだ眉間に皺こそ寄っているものの、苛立ちよりも苦々しさが目立つ表情をしている。
バツが悪いと言いたげなその様子は、ヘビースモーカーなら慣れたものであるはずのライターの着火に手間取っていた辺りからも感じ取れた。
「意地の悪い問答をしかけたことは謝罪します。目的は単純に……紗蘭の殺害を企てた輩について知りたいだけですよ」
「……あ」
若干乱れた衣服を整えながら、静かな声で海老原さんが言った、その言葉。そこであたしは、ようやく違和感の正体に辿り着いた。
そんなあたしを他所に、海老原さんは言い終えて一呼吸置いてから、やっとあたしに顔を向けた。いつもの海老原さんらしい、柔らかな微笑を。
「すまなかったね、エル。もう大丈夫だから」
「え? ……あっ」
挑発をやめさせようと、ずっと海老原さんの腕を握っていた手。そこに海老原さんの無骨で大きな手が重ねられるまで、握っていることすらすっかり忘れていた。
少し観察してみても、険しさも焦りも大分和らいでいる。それを確認して、重ねられた手からするりと自分の手を抜き取る。
海老原さんは「ありがとう」と呟いてから、ウエストポーチにライターをしまった代わりに携帯灰皿を取り出した店主さんに視線を戻した。
「もしかすると、貴方には紗蘭が狙われた心当たりがあるのかもと思いましたが……。先程の様子を考えるに、やはり何かご存知ですよね」
「……だとしても、お前にゃ関係ねェだろうが」
「関係ない? 日頃から紗蘭と交流があり、紗蘭が殺されかけた現場に居合わせ、鱓野先輩の頼みとはいえ貴方の元まで紗蘭を送り届けたのに、それはいくら何でもあんまりでは? 先程僕の胸倉に掴みかかった人の言葉とは思えませんね。あれは立派な暴力行為ですよ?」
「それで俺を強請ろうってか? とんだヒヨコだなァ、おい。それが狙いで挑発してきたのか? 人畜無害なツラして、随分と手段選ばねェマネしやがるじゃねェか」
「さて、どうでしょうね。嶋崎さんの好きなように考えてくれて構いませんよ」
さっきよりは落ち着いた様子で言葉を交わす2人だけど、放つ空気は見ているだけのこっちが息苦しく感じる程度にはひりついている。
けど、それは決して怒りや敵対心じゃない。互いに譲れない何かがあって、それがぶつかり合っているからこその空気。2人もそれは分かっているんだと思う。
何にせよ、無闇に口出しできる雰囲気じゃないことに変わりはない。紗蘭さんもそう考えているのか、若干の心配を金眼に滲ませつつも静観している。
「そうまでして何で知りたがる?」
「理由は色々ありますが……一番は許せないからです。キザな言い方ではありますが、僕はこれでも紗蘭のことは大切に思っているつもりです。もちろんエルも、本人には言ってやりませんが鱓野先輩も。僕にとって大切な人を脅かす輩など、誰一人とて許すわけにはいきません」
「そりゃ大層なこったなァ。……で? 知ったところでお前に何ができるってんだ? ただのカタギのヒヨコによォ」
「……正直、分かりません。それでも……そうだとしても許したくないし、向こうの思い通りになどさせたくない。今回紗蘭を狙った輩について少しでも知ることで、紗蘭を……ひいてはみんなを守れるのであれば、せめてそのために足掻くことはしたい。例え、孤立無援の状況だとしても。そうすれば……いずれは何かを変えられるかもしれないから」
「……海老原君……」
呆けたような声で海老原さんを呼ぶ紗蘭さんの頬を、ほんの僅かに赤が染めた。今空を覆う夕焼け色……とは、少し違うような。
そんな紗蘭さんを横目に捉えつつも、あたしの視線は海老原さんに釘付けだった。まっすぐな緋色の眼差しで放ったあの言葉に、ひどく聞き覚えがあったから。
─何かしらの形で足掻き続けることで、いずれは自分や身近な誰かを取り巻く未来を、ほんの少しでも変えられるなんて……。そんなこと、可能だと思うかい?─
あの時の海老原さんは、綺麗な緋色に不安と焦りを滲ませた、縋り先を探す目をしていた。今もまだ、さっきのような焦りがぶり返しつつある。
それでも、その目は滲みを物ともしないほど澄んで、凛としていた。あの時見せた親とはぐれた子供みたいな表情との、唯一の相違点。
思えば、海老原さんのあの言葉がきっかけだった。未来を変えられるものなら変えたいと願って、だから足掻いてはみようと、あたしがそう決めたのは。
決めた……はずだった、のに。
「綺麗事をほざいている自覚はあります。ただ、もう……手段を選んでいられる猶予はないとも考えています。……理由はそんなところです」
「ご高説お疲れさん。拍手でもくれてやろうか?」
「ありがとうございます。一緒に貴方が知る情報もくださると尚嬉しいのですが」
「はっ、ピヨピヨと口の減らねェヒヨコだよ、本当によォ。……だがまァ、そうだな……さっき掴みかかっちまった詫びとして、1つだけ俺が言えることを教えてやらァ」
吸い終えたタバコを携帯灰皿に突っ込みながらそう言う店主さんに、海老原さんが軽く息を呑んだのが分かった。
ウエストポーチに灰皿をしまうと、鋭さに拍車をかけた三白眼があたしを一瞥して、また海老原さんを見据えて、そして……。
「何も知るな、関わるな。お前も、エルも」
「……はい?」
あたしたちを突き放すようにも聞こえる強く静かな声音で、そう言い放った。
対する海老原さんは、店主さんに引けを取らないくらいに眉間に皺を刻んで、両目をジトリと細める。
「この期に及んで、まだはぐらかすつもりですか? それとも僕が信用ならないと? 知り合って日の浅い若造なんて頼りにならないかもしれませんが、僕にだって何かできることは──」
「ねェよ。……あっちゃならねェんだ、お前らにできることなんざ。……帰るぞ、紗蘭」
「あ……はい」
それを最後に店主さんは踵を返した。もうこれ以上話すことなんかないと、足早に遠ざかる背中から聞こえる気がする。海老原さんもそう感じ取ったのか、一瞬店主さんに伸ばしかけた手を名残惜しそうに引っ込めた。
紗蘭さんも店主さんに続いたけど、ふと何か思い出したように急に足を止めて、こっちに振り返った。
「あの、さっきは蔵市郎さんがすみませんでした。2人共、気をつけて帰ってくださいね」
それだけ言ってこっちの返答を待たずにまた踵を返した紗蘭さんは、途中で彼女が止まったことに気づいて同じく足を止めた店主さんに追いついて、2人並んで人混みへと紛れていく。
斜陽が作る建物の影に染まっていくその姿を、何だかそのまま永遠に見失ってしまいそうで……。今になってあたしまで引き止めたくなったけど、そうするにはもう2人の背中は遠すぎた。
「……帰ろうか、エル」
海老原さんに呼ばれて、人混みに投げていた視線を彼に合わせる。首だけこっちに向けてあたしの顔を見つめる緋色には、まだ不安と焦りの名残が見えた。
今なら分かる気がする。あの時の海老原さんが何で迷子に似た表情をしたのか、あたしに縋ったのか。今まさに、あたしも海老原さんに縋りたくてたまらないから。
……電車の中で紗蘭さんの笑顔に気づくより前に、考えていたことがある。
紗蘭さんが狙われたあの時、海老原さんは紗蘭さんの命を救った。鱓野さんは実行犯を、真璃愛さんは共犯者を追いかけた。
(……じゃあ、あたしは? あたしは、何してた? 何ができてた?)
考えるまでもない、何もできなかった。真璃愛さんが危険を知らせてくれたのに動けなくて、共犯者を捕まえることもできなくて。
みんな自分にできることをしていた中、あたしだけ何もできなかった。悲惨な運命に対して足掻いてみようと決めたくせに。そのためなら何だってできるなんて考えていたくせに。
それを決意させてくれた海老原さんは、こんなにも今足掻こうとしているというのに。
(ブルームから一緒に帰ったあの日、あなたに聞こうとして拒絶されちゃったけど……今はもう分かるよ。あなたは、きっと……)
ごめん、海老原さん。今度こそあの時の答えを確かめたいから、あたしも手段を選ばないことするね。紗蘭さんの身に危険が及んだ以上、あなたの言う通り手段を選んでいられる猶予はないんだろうから。
何も分からないままでもいいなんて悠長なことを言っていられる時間も、きっと。
「海老原さん」
「うん?」
「急で悪いんだけどさ、少し時間貰ってもいい?」
「え? ああ、構わないけれど……どうしたんだい?」
あたしだって何かは変えたい、そのために足掻きたい。あなたに拒絶されるのは怖いけど、だからって何も分からないままじゃ、きっとまた何もできずに2人を喪ってしまう。
何もできないままなんて、また鱓野さんも紗蘭さんもいなくなる未来なんて、絶対に嫌なの。そのためには、あなたが必要なんだよ、海老原さん。
……あなたの言葉に覚えた違和感の答え合わせもしたいことだし。
「ちょっと、ね。あなたと話がしたいの」
これから話すことと、あの時言おうとして冷たく拒まれたことを思うと、脚どころか手も声も全てが震えそうになる。
それでも逃げるわけにはいかないし……海老原さんには悪いけど、今度ははぐらかさせはしない。今のあたしだけじゃ足掻ききれないことは、もう嫌というほど分かったから。
「だからって、ここで立ち話するのは何だしさ……あたしの家に来てくれないかな。晩ご飯はごちそうするから」
「おや、久しぶりにエルが手料理を振る舞ってくれるのかな? では、お言葉に甘えさせてもらおう。エルがちゃんと晩ご飯食べるかも見ておけるしね」
「……食べなきゃダメ?」
「もちろん。無理のない範囲でいいから、ちゃんと食べること。いいね?」
「……分かったよ、少しだけね。海老原さんは何食べたい? 物によっては、途中で買い物して行かないと」
「じゃあ、オムライスを」
「本当に好きだね、それ。お昼も食べてたのに。綺麗に包める保証はないよ?」
「作ってくれるだけで十分さ、贅沢なことは言わないよ。ああでも、できれば卵がふわふわだと嬉しいな」
「しっかり贅沢言ってるじゃない。帰ってからご飯炊いてたら間に合わないから、パックのご飯でもいい?」
「構わないよ、僕も普段からそんな感じだし」
「じゃあ、あたしの家の近くにあるスーパーで買い物しよ。どの道オムライスの材料はケチャップ以外家にないし」
「その情報だけで、普段のエルがいかに晩ご飯を疎かにしているかが分かってしまうね? いっそずっと見張ってた方がエルのためかな?」
「ちゃ、ちゃんと食べるから、勘弁して……」
「うん、いい子」
あくまで冷静に、普段通りのあたしに見えるように、何てことない話題で海老原さんの心を解すように会話を重ねていく。ほんのちょっとでも、彼にあたしの目的を察させてはいけない。
その甲斐あってか、穏やかな笑顔で声を弾ませる海老原さんからは、もう不安も焦りも見当たらない。急に家に誘ったあたしに対して、不思議に思うような素振りも。
このまま一切緊張させず、今の油断してくれている状態を保てるように……普段と変わらない雑談を重ねながら、あたしたちは改札を潜ってあたしの家の最寄り駅へ向かうホームに足を向けた。




