第11話 風雲急を告げる刃
遊園地のゲートから歩いて10分ほどの最寄り駅を目指して、人通りが多く開けた道をみんなで進む。
まだ陽が傾くには早いこの時間の空は青が占めているけど、空の端は夕方へ移り変わる時間特有の、昼間の青より淡白な白藍へと変わっていた。
(本当なら、まだ帰宅を考えるような時間じゃないのにな……)
雑談しながらあたしの数歩先を歩くみんなと、やや険しい顔をしながら無言で辺りを見渡し続ける真璃愛さん。あたしもあの2人組への恐怖が拭えなくて、ただでさえ俯きがちな視線を足元まで落とすくらい顔を伏せつつ、周囲を警戒している。
どっか行って以降は見かけていないけど、それでもあたしたちが気づいていないだけで尾行され続けていたら……と考えたら気が気じゃない。
それもあるけど──。
「……あ」
パチリと、真璃愛さんと目線がかち合った。強張った表情をふわりと綻ばせて、その顔をあたしの傍らに寄せてきた。そんな真璃愛さんから逃げるように、目線だけふいっと逸してしまう。
本人はそれに気づいているのかいないのか、白蓮のブレスレットが揺れる右手をあたしの顔の前まで浮かばせて、ピンと人差し指を立てた。
ちょうどあたしの眉間に指を置くようなその手に、思わず視線を彼女に戻した。
「……?」
「皺になっちゃってるわよ、ここ。……怖いのよね、分かるわ。私も、あいつらの会話聞こえてから、ちょっと怖いもの」
「……それだけじゃないよ」
「え? 他に何か心配事が──」
「そうじゃなくて。……あなたがずっと海老原さんと行きたかった遊園地、こんな形で終わっちゃったから」
「あ……」
「もちろんあたしも楽しもうと思ってたし、みんなにも楽しんでほしかったけど……。何よりもあなたに、楽しかったとだけ思ってほしかった。海老原さんとの楽しいだけの思い出にしてほしかったのに、こんな終わり方するつもりじゃなかったのに。……ごめん、本当に」
あたしがもっと上手く取り繕えていたら、まだ真璃愛さんは海老原さんと遊園地を楽しめていたはずだった。今こうして早すぎる帰路についているのは、あの2人組の会話に血の気が引いたのを、体調不良だとみんなに勘違いさせた……あたしのせいだ。
……考えれば考えるほど思考が自己嫌悪に染まって、釣られるように真璃愛さんに向けていた視線が足元へ引きずられていく。
「……ねぇ、エルさん。私、楽しかったわよ、本当に。お兄ちゃんと遊園地来られただけでも十分なのに、私が乗りたい物に連れてってくれてさ。……全部、エルさんのおかげよ」
鈴が踊るような可愛らしいその声におずおずと顔を上げれば、声と同じかそれよりも優しい笑みを浮かべる真璃愛さんがあたしをまっすぐ見つめていた。
ミルクティー色の柔らかい前髪から覗く瑠璃色の丸い目からは、観察せずとも分かる幸せの色が溢れている。
「だからね、謝らないで。悪いのはエルさんじゃなくて、ぜーんぶあの不審者2人組! 何がしたかったのか知らないけど、もう二度と現れないでほしいわ!」
幸せそうな瑠璃色が一転、不快そうにジトーっと細まった。そんな真璃愛さんの怒りようと、あたしが悪いんじゃないと言ってくれたことに、少し心が軽くなった気がした。
「ありがとう。ちょっと気が楽になった」
「本当? よかったわ」
「……何に乗ろっか、次は」
「え?」
「また遊園地に来た時。あなたさえよければ、また来たいなって……できれば海老原さんたちも一緒に。だから、次来られたら何に乗りたいか、考えておいて?」
ポカーンとしていた真璃愛さんの顔が、ぱあぁっと花開いたみたいに幸せの笑顔へと変わっていく。その表情のまま、ブレスレットが揺れる両腕をあたしの首や肩に絡ませて抱きついて、身体を預けてきた。
ミルクティー色の髪も頭上の青い輪っかも、蓮の花びらでできた羽も襞襟も、あたしの身体にめり込んじゃっている。でも、本人はそれに気づかない様子。
「ありがとうっ! 私もね、エルさんたちとまた来たいなーって思ってたの! 絶対、ぜーったい行きましょうね、みんなで!」
「うん。海老原さんは元々遊園地に乗り気じゃなかったから、分からないけど……」
「大丈夫よ! お兄ちゃんも何だかんだ楽しそうだったし、妹みたいに思ってるエルさんが頼めばイチコロだから!」
「……今更だけどさ、それ嫌じゃないの?」
「え? 何が?」
「自分の兄が、他人を妹みたいに扱ってるところ見るの」
「ジェラシーってこと? 私がエルさんに? まっさかー! むしろ申し訳ないくらいよ。エルさんの方が年上なのに、お兄ちゃんったら呼び捨てにするし、タメ口だし」
「それはまぁ、気にしたことないな……あたしだって鱓野さんに敬語使ってないし。何にしても、真璃愛さんが嫌じゃないなら良かった」
「当然よ。……感謝しかないわ、本当」
「え? 感謝?」
「あっ……ううん、何でもない! あっほら、もうすぐ駅に着く──」
確かに零した言葉を誤魔化すように、見えてきた目的地に笑顔と目を向けた真璃愛さんは……その笑顔のまま不自然に言葉を切った。石像よろしく固まった笑顔は、数秒もしない内に見る影もなく消える。驚愕と恐怖に青ざめるその表情には、強烈な見覚えがあった。
鱓野さんたちを尾行していた、あの2人組。あの人たちが、紗蘭さんの背後にまで接近してきたことに気づいた時と同じ……いや、それ以上に酷い顔色をしている。
どうしたの、とあたしが聞くより早く、真璃愛さんは進行方向を指差した。
「エルさん、あれ……駅の方……」
言われた通りの方向に視線を移す。でも、前を歩く鱓野さんたちの間から駅舎が見えるだけで、真璃愛さんが何を指しているのか分からなかった。
……そんなの最初だけだった。目を凝らす内に、気づいてしまった。
「あっ……!?」
駅舎の方から、こっちに歩み寄ってくる1つの人影。あまり明るくない色のパーカーを身に着けて、それの腹部についている大きなポケットに両手を突っ込んでいる人。その正体にすぐ気づく。まだ鮮明に覚えている。
あの人、遊園地で尾行してきた2人組……その片方だ。
「……ッ!」
「うおっ!? ……どったの、エルちゃん?」
真璃愛さんが顔色を豹変させた原因に気づいた瞬間、頭が回るより先に手が鱓野さんの服を鷲掴みにして、そのまま立ち止まった。
いきなり無言で引き止められた鱓野さんが、あたしの顔を覗き込んでくる。眼窩の中で転がる竜胆色の水晶は、明らかに戸惑っていた。それに気づいた海老原さんと紗蘭さんも、足を止めて振り返った。
今のあたし、きっと真璃愛さんと同じような、恐怖に引き攣った顔をしている。戸惑いや疑問を浮かべていたみんなの顔が、どんどん心配や怪訝の色に塗り替わっていくから。
でも、今はそれどころじゃない。
(あの人、駅の方から来たってことは……待ち伏せされてたってこと!?)
あたしが列に割り込んだあの時、2人組は「プラン変更」「仕切り直し」と言って立ち去った。それ以降見かけなかったのは、先回りしていたから? そんなことしてまで、何で鱓野さんたちにつきまとうの?
あの人はまっすぐにこっちを、いっそ殺意と形容できるくらいの敵意で刺すように睨んでくる。あたしとは目が合わない。でも確実に鱓野さんたちを見据えている。
そんな人が、躊躇ない足取りでこっちに向かってくる。
(ダメだ……逃げなきゃ。これ以上、あの人をみんなに近づかせちゃダメ……!)
直感はそう訴えてくるのに、脚が地面に縛りつけられて動かない。得体の知れない敵意の塊が、目的も分からないまま近づいてくる。その恐怖と、警鐘よろしく脈打つ心臓に肺を潰されて、声とは呼べない震えた息しか出てこない。
鱓野さんの服を掴む手まで、息に釣られて震え出す。引っ張って逃げなきゃいけないのに、まるで鱓野さんに助けてほしいと縋るような手に、多分みんな異常を感じ取っている。
しきりにみんなが声をかけてくれるのに、何も頭に入ってこない。荒れていく自分の息と、あの人の敵意に阻まれて。そうやって何もできずにいる内に、あの人は足を止めて、ポケットの中から右手を引き抜いた。
手の甲に、先端から互いに螺旋を描く太極図のような勾玉と、それを中心にして目玉のような模様が象られた菱形が左右に3つずつ羽のように配置されている刻印。間違いない、妖憑の憑印だ。
その憑印が甲に刻まれた右手に、何か持っている。鈍色の、棒状の……いや違う、棒じゃない。分かる。つい最近見た。
(まさか、あれ……)
鱓野さんたちがブルームに来たあの日、同じくブルームに来た迷惑客が持ってたドスと、全く同じ形の物。
当然と言わんばかりに刃は剥き出しなのに、通行人は誰一人気に留めない。2人組の話し声も舌打ちも気づかなかった鱓野さんたちみたいに。
堂々と手にしたドスが、ふわりと右手の上で僅かに浮かんだ。ドスと右手の間に、風でできたサークルのようなものが微かに見える。それが現れた途端、あの人の服と髪が柔く靡きだす。何の妖憑かは分からないけど、多分あの人の能力によるものだ。
手の上で緩やかに上下しているドスは、やがてその動きを止めて切っ先を一点に定めた。見るからに鋭利なそれは、明らかにあの人の視線の先……鱓野さんたちを狙い澄ましていて。
ぞわりと肌が粟立つと当時に思い出す。タイムリープする直前に見た、あのニュースを。
─鱓野さんは遺体の状況から当初は焼死と思われていましたが、検死の結果、遺体には刺し傷が見られ、直接の死因はこの刺し傷とのことです─
「鱓野さん、後ろっ‼」
上ずった短い息しか吐かなかった口が、悲鳴じみた金切り声を響かせた。周囲の人々が何事かとこっちに目を向ける中、鱓野さんたちはあたしの声に弾かれたようにバッと振り返った。
それに気づいたあの人が驚愕と焦りの表情を浮かべて、同時に手の上で遊ばせていたドスが、弾丸と見紛うくらいの速度でこっちを目がけて飛んできた。
距離にして恐らく10メートルもない。その遠いようで近い距離が一瞬で詰められる。まっすぐと、鋭利な殺意が迫ってくる。
──紗蘭さんを目がけて。
「は────」
呆然としている紗蘭さんの唇から声にならない吐息が零れた頃には、もうドスは紗蘭さんの左胸まで迫っていた。
(何で紗蘭さんが……鱓野さんを狙ってるんじゃなかったの!?)
「紗蘭さ──」
絶望の顔した真璃愛さんが手を伸ばしたその瞬間、紗蘭さんの身体がガクンッと後ろへ傾いて倒れた。真璃愛さんが何かしたわけではないと、まだ絶望の名残が見える戸惑いの表情が示している。
何が起こったのか目で追いきれなかったけど、紗蘭さんの心臓を貫こうとしていたドスは、彼女が倒れたことで空を切ったのは分かった。
目標を失ったドスはそれでも速度を落とさず、そのままあたしの真横を通り過ぎる。それと同時に急な突風に正面から押し倒されて、身構えもしてなかったあたしは背中を打ちつけてしまった。
「エルさん! 大丈夫!?」
心配げな顔の真璃愛さんが、羽を忙しなく羽ばたかせながらあたしのそばへ飛んできた。ほんの少し内臓へ響く痛みに顔を顰めながらも頷けば、真璃愛さんの表情に少しだけ安堵の色が出た。
その直後、後ろから甲高く乾いた金属音が数回響く。上体を起こしつつ振り向けば、ドスが峰で回転しながら地面を僅かに滑っていた。
突然飛んできた包丁とは比にならない凶悪さを漂わせる刃物に、辺りは一瞬で騒然とする。誰もドスに近寄ろうとしないけど、距離を取ってスマホを構えている人は何人かいた。少し遠くへ転がってしまったから、ちゃんとは見えない……けど刃の部分に見えるのは鈍色だけ。血は付着していない。
恐らくだけど、風を発生させるものなんだろう、あの人の能力は。それで起こした風を使ってドスを射出したんだと思う、銃みたいに。あたしを押し倒した突風の正体は、多分それだ。
妖憑の憑印を持っているなら、憑依させているのは妖怪しかありえない。ただ、何の妖怪が憑いているのかは特定できない。あたしは憑渡師じゃないから。
「テメェ‼ 待ちやがれ‼」
響いた声に身体を向き直せば、鱓野さんが背を向けて走り去るあの人を、怒号散らしながら追いかけて行くのが見えた。駅の手前で右へ曲がって脇道に逃げたあの人に続いて鱓野さんも脇道へ消え、やがて怒号も聞こえなくなった。
多分全速力で走っているんだろう。まだ何か隠し持っているかもしれない人を1人で追った鱓野さんのことは心配だけど、あたしの足じゃ彼には絶対に追いつけない。あの様子なら怪我はなさそうでホッとしたけど、当たり前だ。あのドスは進路を変えた様子もなく、紗蘭さんを目がけて飛んできたんだから。
てっきり鱓野さんが狙われているんだと思っていた。前回刺し殺されたのは、鱓野さんだったから。
でも違った。きっとあの人はドスを浮遊させていた時から、いやそもそも遊園地内で尾行していた時から、ずっと紗蘭さんを狙って……。
(そうだ、紗蘭さん……!)
「紗蘭、怪我は!?」
鱓野さんたちが消えていった脇道から、視線を紗蘭さんがいるであろう方に向けた……と同時に響き渡る海老原さんの声。
悲痛なそれを発する海老原さんは地面に座り込んでいて、彼の腕の中には呆然とした様子の紗蘭さんがいた。ちょうど海老原さんが紗蘭さんを背後から抱きしめていて、二人揃って地面に尻餅をついているような体勢だ。
ドスが飛んできた時、紗蘭さんの身体が傾いた理由がやっと分かった。海老原さんが咄嗟に紗蘭さんを抱き寄せて助けたからだ。そしてバランスを崩して、今のように海老原さんの足の間に挟まれているんだと思う。
海老原さんは端正な顔を焦燥に歪ませて、紗蘭さんの顔を後ろから覗き込みながら声をかけ続ける。なのに紗蘭さんは海老原さんの腕の中で、糸切れたマリオネットのように動かない。
海老原さんに身を預けて、心ここに在らずとしか形容できない表情で、焦点の定まらない視線を地面に落とし続けていた。いつもなら眩いくらいの金眼は、見る影もないほど昏く濁っている。
半開きの唇は微かにしか動かず、か細い声を紡いでいる。
「なんで……何で、私が……?」
「紗蘭……」
海老原さんの言葉に答えることなく、ただひたすら「何で」を繰り返す紗蘭さん。そんな彼女を抱きしめる腕に力を込める海老原さんを、意に介した様子もない。
紗蘭さんにも怪我はなさそうだけど、それより精神的なショックが大きいのかもしれない。
(無理もないか……突然殺されそうになったんだもん。ショックを受けるなっていう方が難しいよね……)
「エルさん、後ろ!」
急に鼓膜を突き刺した真璃愛さんの大声と、背後の確認を促す言葉に血の気が引いていくのが分かった。
まだ誰かが紗蘭さんの命を狙っているのかと身体を急速に半回転させると、視界に入ったのはドスを拾おうとしている人影。それが被っている帽子には見覚えがある。あの人と一緒に遊園地で尾行していた人が被っていた物だ。
堂々とドスに近づいてるのに、周囲の人は誰も気づいた様子がない。視線やスマホはドスに向けているのに。
「っ……そこの帽子の人! そのドスに触らないでっ!」
思いっきり叫んで帽子の人の存在を知らせれば、誰か気づいてくれるかもしれない。取り押さえてくれるかもしれない。そんな期待の一心で、知らない人への恐怖を堪えて叫んだ。
周囲の視線は、一斉にあたしに突き刺さる。有象無象の目に怯みそうになっても、自分の足元へ逃げそうになった顔を逸らすことだけはせずに耐えた。
誰の目も向けられない帽子の人は、あたしを見て明らかに動揺している。
「お前……俺が見えてんのか? 何でだ!?」
「え……な、何で、って……」
「クソッ! 気づかれないんじゃなかったのかよ、あの人の能力は!」
帽子の人は悪態を吐き捨てながらドスを地面からひったくるように掴み、そのまま背を向けて走り出した。何人かの通行人にぶつかってよろけながらも、逃亡を優先しているのか形振り構わず疾走する。
「あ……待って──」
「エル、危険だ! 追うんじゃない!」
あたしを呼んだ海老原さんが放った言葉に、帽子の人を追いかけようとした脚が硬直した。
「能力って……まさか……!?」
そうしている間に、真璃愛さんは呟きながら帽子の人を追って飛び去って行った。
あたしはそれを見送る前に、海老原さんに振り向く。
「……海老原さん、あの人に気づいたの……?」
「ああ……当然だろう……?」
あの時2人組に気づきすらしなかった海老原さんが、ようやく気づいた。どこにも定まっていなかった紗蘭さんの金眼も、今はこっちに向いている。
背後からは、通行人たちの話し声がする。
「今走ってったの誰? さっきまでいた?」
「え、いたんじゃない? 分かんないけど……」
ヒソヒソと、でも確実に聞こえてくる、通行人たちのどよめき。
帽子の人は「俺が見えてんのか」って言っていた。ということは、あの能力は他人から認識されなくなるけど、条件次第で効果を失ってしまうものなんだろう。
でも、あの口ぶりからして、あれは本人の能力じゃない。ドスを飛ばしたあの人のものでもない。
つまり、それは……紗蘭さんの殺害未遂に加担している、第三者がいるってことで──。
「!」
カーディガンのポケットから突然鳴ったメロディに、思考が持っていかれる。ポケットを探ってみると、発信源はスマホだった。画面には鱓野さんからの着信通知が表示されている。
焦りから震える指先で受話器のマークをスライドして、スマホを耳に当てた。
「もしもし、鱓野さん!?」
『悪ぃ、エルちゃん。そっちのこと置いてけぼりにしちまって……。紗蘭は無事? エルちゃんと海老君は?』
「うん、みんな無事だよ」
『そっか……ホンット良かったわ、マジで……』
電話口の鱓野さんの声は、叫びながら全力疾走していたとは思えないくらい落ち着いていた。息切れしているような気配もない。そんなに長い距離は走ってないのかな……。
「あなたは? あの人追ってったけど、大丈夫? 怪我してない?」
『とーぜん! 何とかとっ捕まえたけど、抑えとかなきゃだからそっち戻れねぇんだわ。それよかさ、もう危ない奴は近くにいなさそ?』
「うん、さっきまでもう1人いたけど逃げたよ」
『逃げた……ま、もう近くにいねぇならいいか。警察に通報は?』
「あ……ごめん、それはまだ。今からする──」
『いや、してねぇんなら大丈夫。こっちでしとくから。そんでさ、ちょいと頼みたいことあんだよ』
「た、頼み……」
その一言に大げさに身構えてしまう。鱓野さんから頼みという体で拒絶を浴びせられたあのクリスマスが、どうしたって脳裏を過ぎるから。
その過去を知る由もない鱓野さんは、僅かに掠れたあたしの声には気づかずに続けた。
『紗蘭をさ、ブルームに送ってやってくんねぇかな』
「ブルーム……?」
『うん。蔵さんにゃ連絡しとくから。急で悪ぃけど頼まれてくんねぇ?』
「でも通報するなら、あたしたちはここにいた方が──」
『それは気にしなくていいから。説明とかは俺がしとく』
「……分かった」
『あんがとな。送ってってくれたら、そのまま家帰って大丈夫だから。……頼むな、紗蘭のこと』
「うん」
『じゃ、家着くまで気ぃつけてな』
「うん。……またね」
『……ん』
電話口から聞こえる声がツーツーと無機質な機械音に変わったのを確認して、スマホをポケットにしまう。
「エル、鱓野先輩は何て?」
やや不安そうに緋色の瞳を揺らがせている海老原さんは、未だ紗蘭さんを守るように抱きしめている。
紗蘭さんは海老原さんに凭れたまま。金色の目は正気を取り戻しているけど、青ざめた顔色はそうもいかないみたい。
「紗蘭さんをブルームまで送ってほしいって。ドスを飛ばした人捕まえたけど、手が離せないみたいで……」
「私を……? けど、まだ敵が近くにいるかもしれないのに、そんなことお願いするのは……」
「大丈夫、もういなくなったから」
「……分かるのかい?」
「あ、うん……」
帽子の人の口ぶりからして、認識妨害の能力を持った協力者がいるとしても、恐らくここにはいない。仮にいたとして、そんな能力を使ってまで気づかれず殺すことを重視しているのなら、騒ぎになった今何かしてくるとは考えにくい。
人間は得をするよりも、損をしないことを優先する心理が働きやすいから。
「それより早く行こう、店主さんに連絡してくれるらしいから。紗蘭さん、立てる?」
「僕も一緒に行くよ。何かあった時、女性だけでは危ないからね」
「っ……! いいです、1人で行けます! 私、そんなに弱くは──」
「分かってるさ、紗蘭が強いことは。だが、その様子じゃまだ普段通りとはいかないだろう。何より君を1人で行かせて僕らだけで帰宅なんて、そんな薄情なマネができるとでも? こっちがいても立ってもいられなくなってしまうよ、心配で。珍しく先輩が頼ってくれたのを無下にするのも心が痛むし、嶋崎さんの元まで送り届けたら少しは安心できるから、そうさせておくれ。ほら、掴まって」
「…………はい」
先に立ち上がった海老原さんは、紗蘭さんの手を取って立つよう促す。観念したように海老原さんとあたしの手を支えに立ち上がった紗蘭さんの脚は、それでも震えていた。それに気づくと同時に紗蘭さんの脚がカクンッと力を失う。
傾いて倒れかけたその体にあたしまで引っ張られかけたけど、海老原さんが抱き留めて事なきを得た。
「大丈夫かい?」
「……ごめんなさい……」
「焦らないで、ゆっくり行こう」
「……ありがと、ございます」
海老原さんに肩を抱かれてようやく安定して歩ける状態の紗蘭さんの背に、何の支えにもなれないのは承知で手を添えて、みんなで歩き出した。
ふと帽子の人と真璃愛さんが消えていった方へ振り返る。真璃愛さんが戻ってくる気配はない。
(何も言わずに行っちゃうのは申し訳ないけど……真璃愛さんなら、海老原さんの元まで帰ってこられるよね)
顔を進行方向へ向け直して、まだ少し覚束ない紗蘭さんの歩調に合わせて、ゆっくり駅を目指す。
……駅舎の向こう。白藍だった空の端は、いつの間にか茜色に上塗りされている。しばらくすればまだ青が残る空全体まで覆って、同じ色の陽が沈んでいく。
その見慣れた赤が、今だけはとてつもなく不吉な何かを告げていると……何故かそう見えた。




