第8話 家族同然の幼馴染み
「んー……。エル先輩と海老原君、無事に会えましたかね……」
つい先程、仁君の「エルちゃんを駅まで送ってやって」という頼みを聞く形でブルームを出た海老原君。
私たちが退勤時に使う裏口の場所を教えたはいいものの、ちゃんと合流できたか、短い道の途中で変な輩に絡まれていないか、ずっと気がかりだ。
隣のビル横から入れる脇道に逸れて回り込むだけだから迷うこともないだろうけど、それでも心配でソワソワする身体が治まりそうにない。
「んな心配するくらいなら、お前が案内してやりゃ良かったんじゃねぇ?」
「本当ならそうしたかったですし、何なら私がエル先輩を送って差し上げたかったですよ。でもほら、仕事中に勝手にお店から出るわけにはいきませんから」
「さっきメリケンサック持って客追いかけようとした奴が何言ってやがんだァ?」
スレッジハンマーを飲みながらスマホをサクサク操作し続けている仁君は、もうそろそろグラスが空きそうだというのに、全く酔っている気配がない。
ウォッカベースのかなり強いカクテルなんですけどね、あれ。顔色も一切変わってませんし、相変わらずお酒強いですね。グラス1杯飲み干す前に酔い潰れてしまうほどお酒に弱いエル先輩とは正反対です。
そんな仁君は、蔵市郎さんの余計な一言に反応してピタリとスマホを操作する手を止めた。
「……メリケンサック?」
「ほら、あそこにテーブルあんだろ。ブッ壊れたやつ」
「っあー、あるっすね〜! また蔵さんがやらかしたんだろーな〜って、スルーしてたけどぉ。……え、まさか紗蘭がメリケンサックで壊したとかってオチ?」
「流石にメリケンサックがあっても無理ですよ、私の腕力じゃ」
「つーか、やらかしたとか言うんじゃねェよ。行儀悪ィ害鳥共を、ちっとばかし脅かしてやっただけだ」
「あ〜分かった! そんで紗蘭までブチギレたんだろ!」
「いえ、先にブチギレたのは私です。事もあろうか、エル先輩にちょっかいかけやがったので、つい」
「…………へーえ?」
エル先輩のお名前を口にした瞬間、眉をピクリと反応させた仁君。その目は据わりきっていて、眉間には怒った蔵市郎さんに負けないくらい深い皺が何本も寄っている。握ったスマホからは微かにミシ……なんて音を立てている始末。
そのあからさまにも程がある変わりように、思わず少しだけ吹き出してしまった。
「なー紗蘭、そいつらの特徴とか分かる限りでいーから、あとで俺の個チャに送っといてくんねぇ? そーゆーの、ちゃ〜んと知っとかなきゃじゃん? 特に俺はっ」
「ええ、もちろん。その代わり、と言っては何ですけど~……。一応しっかり1発ずつは蹴り飛ばしましたし、蔵市郎さんにもお灸据えられてましたけど、それでも蹴り足りないので~……」
「見つけたらお前も呼べって話だろぉ? …………流石に殺すなよ? 今のお前、殺意バリバリってレベルじゃねぇ笑顔してんの、自分で気づいてっかぁ?」
「そう言う君だって、お顔は笑っているのに、目だけはちっとも笑ってませんよ? 本当、君ってエル先輩のこととなると分かりやすいですよね。……そんなにあからさまな態度を私の前で取るくらいなら、本人にも伝えて差し上げては? 例えば、ブルームの制服姿を褒めて差し上げるとか。エル先輩のウェイトレス姿、とっても可愛らしいと思いません?」
「お前はエルちゃんがどんな格好してても可愛い可愛いって騒ぐじゃん」
「当たり前です! エル先輩は何を着たって可愛いんですから! 仁君だって、エル先輩のこと可愛いと思っているでしょう?」
「ん〜〜〜ノーコメント」
「このヘタレ、意気地なし。その無駄に大きく育った図体は見せかけですか?」
「言葉の暴力反対でーす。……しゃーねぇだろ、そんなん言える立場じゃねぇし、俺。仮に言ったところで、どーせあの子にゃ伝わんねぇし、意にも介されねぇよ」
伝わるかどうかは別として、意に介さないってことはないと思うんですけどね……エル先輩の様子からして。
それにしても、普段なら他人の感情や考えには敏感な方なのに、何でこういう時だけは鈍くなるんですかね、私の幼馴染みは。エル先輩ご自身ですら自覚がないからでしょうか。
……何にせよ私が勝手にベラベラと話してしまうわけにはいかないんですよね、仁君が身を置いている立場のことも考えると。とっても、とーっても焦れったいですけど。
「ま、確かにあの服、いつもと違う雰囲気で似合ってたけどな〜。お前も」
「エル先輩に言ってくださいってば、私じゃなくて」
「分かってるって。それにお前は、あれだろぉ? 俺より海老君に褒めてほしかったろ?」
「あらあら……意趣返しですか?」
「お好きに受け取ってどーぞ?」
2人で顔を見合わせながら笑い合っている最中、ふと視線を感じて振り向いてみれば、蔵市郎さんがちょっとだけ優しげな視線で私たちをじぃーっと見ていた。
「あら蔵市郎さん、どうかしました?」
「いやァ……お前らがそんな仲良くくっちゃべってんの、久しぶりに見たからよォ」
「……ああ、確かにそうですよね」
「一応聞いちゃいたがよォ、実際見るまでは正直半分信じちゃいなかったよ。一体何があったってェんだ? 俺が紗蘭を引き取る前にとんでもねェ大喧嘩して、それ以来ずっと絶縁状態だったじゃねェか、お前ら。それがまた仲直りしてるたァよ」
「……そんなことあったなぁ。なっつかし〜」
仁君はケラケラ笑っているけど、それは仁君の優しさ以外の何物でもない。あの大喧嘩は、そんな顔しながら思い返せることじゃないから。
今でこそ私は蔵市郎さんの養女だけど、最初は仁君のお家に引き取ってもらう予定だった。私の実父と仁君のお母様は古くからの友人で、その縁で私たちは家族ぐるみの付き合いがあった。私と仁君が幼馴染みなのも、それが理由。
だから、仁君のお母様が引き取ると申し出てくれた。それが蔵市郎さんに引き取られることになったのは、話がまとまりそうになったところで私が仁君と大喧嘩してしまったから。
言い訳させてもらうなら、あの時の私は荒みきっていた。家族がめちゃくちゃになって、両親ともお別れしなければいけなくなって……。こんなことなら、もういっそ世界ごと滅んでしまえと、何もかもを呪いたくなるくらいには。
(喧嘩の原因だって、そんな私を心配してくれた仁君に、キツく当たってしまったからでしたね……)
今でこそあれは仁君なりの心配だったと分かるけど、当時の私にとっては一番触れてほしくなかったことで、私の反論も仁君の一番傷つきやすいところに刺さってしまうものだった。
そうやってお互いを傷つけに傷つけて、生まれた頃から一緒にいる家族同然の幼馴染みだったのに、それが全部嘘だったかのように顔すら合わせなくなって。
そんな風に絶縁したことをずっと後悔していたものだったけど、今はこうしてあの頃のように話せて、今も家族同然の存在でいられる。
それも何もかも、ひとえに……。
「エル先輩と、海老原君のおかげですよ」
「あァ? あのヒヨコ共が?」
「そーさなぁ〜! あの子らがいてくんなかったら、ぜってぇ今でもギスりまくってたよなぁ〜俺ら!」
「でしょうね〜」
「おい、俺を置いてけぼりにすんな。ちゃんと説明しやがれ」
「説明も何も、単に私たち2人だけでゆっくりお話しする場を設けてくださったんですよ」
「俺と紗蘭から、お互いどーしたいのかとか色々聞いて、何やかんやと手ぇ回してたらしいっすよぉ? まーそんなこともあってか、俺らが仲直りする頃にはエルちゃんと海老君の方が仲良くなってたけど!」
「あれはもう、しばらく2人で笑いが止まりませんでしたよね!」
「ほォー……んな繋がりあったのか、お前ら」
そんなこんなで、今では4人でわざわざ集まって、ご飯を食べたり遊んだりするほどの仲になっている。学部も学年も、みんなバラバラであるにも関わらず。
疎遠になった幼馴染みと仲直りできただけでなく、新しい縁までできて……。エル先輩を追うような形で選んだ大学生活、こんなに幸せなものになるなんて思ってもみなかった。
「まァ……何にせよ安心したわ。仁はパッタリ店来なくなるし、紗蘭は「仲直りしたいけどどうすればいいか分かんない」って泣きじゃくるし、一時はどうなんのかこいつらと……」
「へぇ〜〜〜? 紗蘭がぁ?」
「ちょっと! いらないこと言わなくていいんですよ、どさくさに紛れて!」
「事実だろうが、1ヶ月くらいずっとそんな調子でよォ」
「もうっ! 向こう行ってくださいっ!」
「あァ? ったく、気難しいヒヨコだなァ……」
ぼやく蔵市郎さんの背中を力ずくで押せば、蔵市郎さんは大人しく私たちから離れて行った。
何が気難しいですか、急に人の黒歴史を掘り返す方が悪いんですよ。私が弱っていた時のことなんて、わざわざ教えなくてもいいのに……。
「お、ここちょうど良さげじゃねぇ? なーちょっと見てくれよ、1ヶ月も泣きじゃくってた紗蘭ちゃ〜ん」
「いじるなら君も追い出しますよ。……それで、何ですか?」
仁君が向けてきたスマホの画面に映っているのは、遊園地のホームページらしいサイトだった。
「あら、珍しくずっとスマホいじってると思ったら、遊びに行くところ探してたんですか?」
「そーそー! 5、6年前にできた割と新しいとこで、結構アトラクションとかフードとか充実してるっぽいぜ? そんな遠くねぇし、見た感じピエロもいないみてぇだから、紗蘭的にここどーかなってさ」
「いいと思いますよ」
「おっしゃ! じゃあグループに載っけとくわ! エルちゃんと海老君も大丈夫そーだったら、ここに決めようぜ〜」
仁君はスマホを引っ込めて、また手早く操作し始めた。恐らくグループチャットにホームページのリンクを貼っているんでしょう。
「……にしても、ちょっと意外でした」
「んぁ? 何がぁ?」
「仁君が遊園地に行く気になっているのが」
「……そーかぁ? 遊園地なら昔も行ったろ?」
「行きましたね、私と君の家族で。でも、それって小さい頃のことじゃないですか。今の君はあまり好きじゃないでしょう。広範囲まで人混みが及ぶレベルの、周りに誰が潜んでいるかも分からないような場所は。週末の遊園地なんて、正にそれですよ?」
「そりゃ、まぁ、なぁ……。でもほら、珍しくエルちゃんが本屋以外で行きたがったトコだぜ? こりゃ叶えてやんなきゃーって思うじゃん?」
「それは分かりますけど……」
「それにさ」
チャットを送り終えたのかスマホをカウンターに置いた仁君は、空いた手でスレッジハンマーが残るグラスを傾けて、残り少ないグラスの中に目線を落とした。
つい今しがたまで爛々としていた竜胆色の瞳に陰りが差した理由は、きっと俯いて天井の明かりに背いたからだけじゃない。
「あの子らと遊べんの、下手すりゃこれが最後だから。せっかくなら、思い出たくさんできそうなとこがいいなって」
苦し紛れ程度の微笑みを口元に貼りつけながら、半分囁くような声で零した彼の、そんな一言。
遅い時間になっても賑やかさを保つ店内でも、その喧騒を押し退けて、私の耳に痛いほど突き刺さった。
「……そんなに、状況……酷いんですか?」
「正直、な。どんどん遠慮なくなってるわ、奴ら。今日だって、大学の周りにそれっぽいのがうろついてたって……それで落ち着くまでちょいと避難してたんだわ。それがなかったら、エルちゃんとちょっと遊べてたのにさぁ」
「さっき言ってたドタキャンって、やっぱりそれ関係だったんですね」
「そ。……いい加減こえぇわ、エルちゃんたちにも勘づかれてそうで。何ならエルちゃん、ちょっと勘づいてんじゃねぇかなー。夏辺りから何か悩んでるみてぇな顔してること多いし、あの子の観察眼なら気づかれてもおかしくねぇし。……そーじゃなくても誘ってはドタキャンの繰り返しで、あの子らに悪いしさぁ」
「そうですね……」
「……俺もお前も、大学いつまで通えんだろうなぁ。せめて卒業はしてぇよ。卒業までなら、エルちゃんと海老君とも会えるし」
「……大丈夫ですよ。会えますよ、卒業までは」
「そうなるように、ウチの奴ら……特に母様が頑張ってくれてっけど、やっぱ難しいっぽい。母様は日に日にピリついてってるし、そうなるとウチの奴らもピリつくし……。そもそも向こうが手段選ばなくなってきて……いや、手段選んでねぇのは元からだけどさ」
「……………………」
愚痴じみたその言葉を喉奥に流し入れるようにグラスの中身を一気に煽った仁君は、氷も溶けきって完全に空になったグラスをじっと、感情のない目で見つめて。
そして、ポツリと。
「…………来年まで生きてられっかなぁ、俺」
その言葉を聞き終わらない内に、ダンッ、と激しい重低音が店に響いた。私が両手の拳を、目の前の作業台に叩きつけた音だ。
店内が水を打ったように静まり返って、その場の視線全てが一斉に私に刺さった気がする。でも、そんなの気にもならない。
打ちつけた両手の骨まで響くほどの痛みも、手のひらの皮を破らんばかりに食い込んでいく爪の感触も、何も。
「やめてください、そんな縁起でもないこと。君らしくもありません」
「……でもさ──」
「でもも何もないんです! やめてくださいよ、やめてって言ってるんですから! それとも何ですか? 強めのお酒飲んで悪酔いでもしました? なら、酔い覚ましにお水でも用意しましょうか? 飲ませてあげますよ、脳天からっ──けほ、けほッ……!」
反論なんか許すものかとまくし立てたせいで、言い終わる頃には軽く噎せてしまっていた。口を両手で覆いながら空咳をする私に、仁君が焦った顔で手を伸ばしかけて……躊躇いがちにそれをゆっくりと引っ込めた。
分かっている、仁君があんな言葉を口にした理由は。それくらいには、彼や彼の家の事情は悪化してきている。なのにエル先輩や海老原君には悟られまい、巻き込むまいとして気を遣っていることは。
そんな状況が、もう何ヶ月も続いているから、弱音の1つも零れてしまうことも分かる。
分かっているけど……でも、お願いですから……。
「せめて、私の前では……言わないでください……」
「…………そうだな、ごめん。お前と大喧嘩した時から、何も学習できてなかったな、俺。……ごちそーさん! また明日な!」
私の咳が治まった頃、仁君は取り繕ったような明るさの声色で呟いて席を立った。そのまま私たちをじっと見ていた蔵市郎さんをお会計に呼んで、店をあとにした。
見送りの言葉もかけられないまま、私はその背中を見ているだけ。仁君はそれを気に留めることも、こちらに振り返ることもなかった。
「……紗蘭」
仁君を見送った蔵市郎さんは、吸い終えた煙草を携帯灰皿に入れながら、まっすぐ私のそばに来た。きっとさっき作業台を殴ったことが気になっているのだろう。視線は険しいながらも心配げだ。
そんな養父に、私は微笑みかける。大丈夫、こんな時でも、私は笑える。こんな時だからこそ、笑っていなければ。
「大丈夫ですよ、蔵市郎さん。喧嘩はしてませんから」
「そういう話じゃ……いや、それもあんだけどよォ。……あんま深く首突っ込もうとすんじゃねェぞ。こんな言い方は何だが、あれは俺らが関わっていい問題じゃねェんだ。……お前が仁と近い立場だとしても、だ」
「ええ、分かってますから。そんなに心配しないでください」
「……お前の身に何かあったらよォ、お前の親に合わせる顔がねェんだからな、俺ァ」
蔵市郎さんは重い声色でそれだけ言って、ウエストポーチから取り出した新しい煙草を咥え、着火しながら離れて行った。
(……ごめんなさい、蔵市郎さん。いけしゃあしゃあと、とんでもない嘘をついてしまう親不孝者で)
──ねぇ、仁君。私にとって、君は幼馴染みなんですよ。ずっとずっと小さい頃から、一緒に育ってきた、家族同然の。
君のことですから、いざとなったらそんな私のことも遠ざけるのでしょうね。巻き込まないために、守るために。結果、自分が嫌われることになろうとも、その方がマシだと強く突き放すのでしょう。私も、海老原君も……エル先輩のことさえも。
こんな時、君と喧嘩しなきゃよかったと尚更に思うんです。そうしたら、今頃家族同然ではなく家族そのもので、私も君のお家の問題の当事者になれていたのに、と。
当事者ならば、もっとちゃんと君の助けになれるかもしれないから。もっとちゃんと、君が私を巻き込んでくれるでしょうから。
でもね、無い物ねだりは虚無しか生まないって知ってます。何度も家族全員が無事な未来を夢に見て、目が覚める度に虚しさで涙が止まらない日々がありましたから。
もう二度と、あんな思いしたくないんです。君が私の家族と同じ末路を辿る可能性も、想像するだけで耐えられません。
親不孝なことは百も承知です。だとしても、絶対に。
「死なせたりしませんからね、君のこと。例え君が、いつか私を遠ざけようと……私の命に代えてでも」
私の家族の二の舞になんか……絶対にさせません。




