第1話 いつもの放課後
「エル、お待たせ」
あたしが通っているこの私立大学の中庭は、正門と直結していることもあって、放課後になるとかなりの人通りになる。
ところどころ雲に遮られた白藍の空の下、放課後の開放感で弾む話し声。9月下旬の残暑で少し温まった空気。それでも中庭が涼しく感じられるのは、通り抜けてくるそよ風のおかげだ。
そんな心地良い涼風に乗って、あたしの名前を呼ぶ声が耳に届いた。日記兼雑記として昔から愛用している、紺色の表紙に青い石の装飾がなされた手帳。その中の2020年のクリスマスイブにつけた日記を見ながら、ペンを片手に考え事に耽っていた時のことだった。
聞き慣れたその声に、手帳とのにらめっこを中断する。そして声の正体を確認した瞬間、あたしは反射的にページ同士を叩きつけるように手帳を閉じた。
「すまない、待たせてしまったかな? エルの方が早かったとは」
中庭の中で唯一木陰ができるベンチに座ったまま声の方に目線を移すと、見知った顔の青年が軽く手を振りながら、石畳で舗装された小道を足早に辿って歩み寄って来る。
ミルクティー色のふわふわした短髪。切れ長な緋色の目と、鼻筋の通った端正な顔立ちが目を引く彼は、ここで待ち合わせをしている後輩……というより友達と言った方が正しいかも。
彼は眉をハの字に下げていて、遅刻したわけでもないのに申し訳なさそう。その様子を微笑ましく思いながら、あたしは彼に声をかける。
「最後のコマ、休講になっちゃったの。さっき来たところだから気にしないで、海老原さん」
「そう? ならばよかった」
そう言うと青年、もとい海老原さんはふわりと緋色の目元を綻ばせて肩の力を抜いた。その動きに合わせて、銀色に輝く物が海老原さんの胸元でキラキラと揺れる。彼がいつも身に着けているペンダントにぶら下がっている銀製の逆十字が、陽の光を反射させているからだ。
いつ見ても変わったデザインのペンダントだな、逆十字って……。まぁ、海老原さんらしいといえば、らしいのかな。
「ところで……その手帳を取り出しているということは、また人間観察かな?」
「あ……まぁ、そんなとこ」
「趣味に熱心なのはいいことだ。けれど、不審に思われない程度にね? さっきの手帳の閉じ方といい、下手したら怪しいことをしていると思われてしまうよ」
「大丈夫だって。最近はほんとに気をつけてるもん」
この手帳は日記の他、人間観察で感じたことや観察対象者の簡単な特徴、仲のいい人なら趣味嗜好など細かな情報まで必ずと言っていいほど書き留めている。人間観察とその記録という、あたしの趣味……というか昔からの癖で、もう10年以上続いている。
彼の言う通り不審に思われることもあるけど、やめようとは思えない。幼い頃から、あたしという存在を形成してきた大事な要素だからかな。
脇に置いておいた黒いミニリュックに手帳とペンを突っ込み、海老原さんに向き直ったところで、あたしはふとあることに気づいた。
(あれ……真璃愛さん、今日はいないのかな?)
海老原さんに気づかれないように目線だけで辺りを見回すけど、いつも海老原さんの傍にいるはずの彼女は、やっぱり見当たらない。
海老原さんの妹で、あたしの友達でもある海老原 真璃愛さん。
天真爛漫かつ元気いっぱい、それ故に賑やかな子で、そうでなくとも目立つ姿をしているのに、すぐ気づけなかった。海老原さんと行動を共にすることが多いあまり、そもそもあの子が彼の傍から離れているイメージがほとんどないからかもしれない。当たり前のようにいるものだと思ってた。
(おかしいな……前回はこんなことなかったのに)
とはいえ、真璃愛さんとの連絡手段はないし、いないのなら仕方ない。あの子がいないのは寂しいけど、その内帰ってくるだろうし、あまり気にしなくても大丈夫かな。
「では、そろそろ行こうか。……あ、そういえば行き先までは決めてなかったね。どこに行きたい?」
「えっ、ちょっと待って」
トートバッグを肩にかけ直しながらそう言う海老原さんは、もう正門へ向かおうとする。その様子に、彼が羽織っているチェスターコートの裾を慌てて掴んで引き止めた。
こっちに振り返った海老原さんは緋色の両目を丸めて、顔には何故かクエスチョンマークを浮かべている。
「? おや、どうかした?」
「鱓野さんと紗蘭さん、まだ来てないよ。待たなくていいの?」
海老原さんと同じ、あたしの友達の鱓野さんと紗蘭さん。今日はこの4人で遊びに行く約束をしている。
あたしたち4人は学部も学年もバラバラだけど、ひょんなことから縁ができて以来、放課後やお昼に少し時間を見つけては行動を共にしている。流石に遊びに行くのは週に1回か2回くらいだけど、単にお喋りするだけならほぼ日課と呼んでいいほど。
その2人とも待ち合わせしているのに、海老原さんはもう全員揃ったと言わんばかりに歩き出そうとするものだから、彼のコートが伸びるかもなんて考える暇もなく裾を掴んでしまった。
「うん? ……ああ、もしかしてまだチャット見てなかった?」
「へ? チャット?」
キョトン顔の海老原さんの言葉に、そう言えばしばらくスマホをチェックしてなかったことを思い出した。
コートを離した手でミニリュックの中からスマホを引っ張り出して画面を点けると、チャットアプリから通知が来ていた。
通知の内容はあたしと海老原さん、それと鱓野さん、紗蘭さんの4人で使っているグループへの新着メッセージだった。
《エルちゃん、海老君、わりぃ! 急に野暮用できて放課後行けなくなっちまった!
どっか近い内に埋め合わせすっから許してくれ〜》
《申し訳ありません、私も同じです……。
私も埋め合わせをさせて下さい》
《了解です。2人とも、また明日大学で》
未読の1番上から鱓野さん、次に紗蘭さんからのメッセージ。その下には海老原さんのメッセージが続いて……。
《既読1個つかないんですけど!
エル先輩ですよね?
何で既読すらつけてくれないんですか?
エル先輩に無視なんてされたら泣いちゃいます!><
……まさかエル先輩の身に、何かよからぬことがあったのでは!?
あんなに小柄で可愛らしい先輩が1人でいるなんて、変質者からすれば格好の的ですよ!》
《エルちゃんのことだし、どーせどっかで本読んでるか人間観察してて気づいてねぇだけっしょw
つーか待ち合わせしてんの大学内なの、ぜってぇ忘れてんだろ、お前》
《大学内にいないとは限らないじゃないですか!》
《僕が待ち合わせ場所を見てくるから落ち着くんだ、紗蘭》
というやり取りのあとには、明らかに落ち着けていない様子の紗蘭さんからメッセージがいくつか続いていた。
鱓野さんには思いっきり見透かされてるな……。彼も観察力や洞察力はかなり鋭いし、流石あたしと同じ心理学部生なだけはある。
ていうか紗蘭さん、しれっとあたしの身長いじらないでよ……あたしの方が低いからって……。
……それはそれとして。
「……やっぱり……また、か」
「ん? またって?」
「あ、いや、その……また紗蘭さんが大げさなこと言ってるなって……」
「ふふ、確かに。紗蘭は相変わらずエルのことが大好きだね」
「やめてってば、そういうことストレートに言うの……」
「あはは、ごめんよ」
ポンポンと、緑のリボンで結いた濡羽色のポニーテールが崩れないよう、優しい手つきであたしの頭を撫でる海老原さん。
ごめんと言いつつ全く悪びれた様子のないニコニコ顔に反して、あたしは頬を膨らませた仏頂面をしながら、海老原さんの大きな掌に頭を押し付けるような勢いで立ち上がった。
「もう、海老原さんだってあたしのこと子供扱いするの、相変わらずじゃない。あたしの方が年上なのに」
「おや……すまない。君を見てると、つい妹のように思えてしまって。……嫌な思い、させてしまったかい?」
合流した時のように眉をハの字にしながら、端正な顔をくしゃりと歪ませた海老原さんに、少しだけ胸が痛む。
……別に、そんな顔させたいわけじゃなかった。あたしだって、何だかんだ海老原さんのことは兄のようだと思っている。だからこそ、年下である彼に妹のようと言われても全く不快じゃないわけで。
それに、彼が辛そうにしていると、あたしも心が辛くなる。
「ごめん。あなたに妹みたいに思われるのも、撫でられるのも、嫌なんかじゃないよ。今までもこんな感じだったんだし、海老原さんの好きにしていい」
「……ふふ。なら、そうさせてもらおうかな」
元のニコニコ顔に戻った海老原さんは、あたしの頭に置きっぱなしだった手で、再びあたしの頭を撫で始めた。顔立ちもまとう雰囲気も大人びている海老原さんだけど、心底嬉しかったり、楽しかったりっていう時は少し子供っぽい笑顔を見せてくれる。
濡羽色のポニーテールと、右目を覆い隠す前髪を崩さないよう配慮してくれる優しさは変わらずだけど、さっきより少しだけ強い手つきは、うっかり眠くなりそうなくらい心地良い。
ご満悦と顔に書いてある彼を見て、あたしは心の中で安堵の息をついた。
(……上手く誤魔化せた、かな)
あたしが「また」と言ったのは、紗蘭さんの様子に対してじゃない。鱓野さんと紗蘭さんのドタキャンについてだ。
前回もこんなことがあった。鱓野さんも紗蘭さんも、それまで滅多になかったドタキャンが増えて、ついには会うこと自体がなくなってしまったことが。
今回もそうなるのかもしれない、2人と離れちゃうかもしれない……。
そう考えると、胸どころか心臓まで冷えきって、直に針でも突き刺されたみたいに痛くなる。
何か仕方ない事情があるのかもしれないけど、たまに「あたしたちのことも優先して」って重たいわがままを言いたくなる。引かれたら嫌だから、言わないだけで。
……ひとまず、チャットに既読つけるだけじゃ何だから。
《人間観察と考え事してた》
とだけ返信して、スマホの電源ボタンを押して画面を切った。
そしたら。
「エル……せめてごめんの一言くらい添えてあげよう? 紗蘭にまた「冷たい!」って言われてしまうよ?」
「……あ」
海老原さんはスマホ画面に緋色の目線を落とし、困り笑いを浮かべてあたしを窘めた。あたしのメッセージを見たんだと思う。
そういえば、必要最低限のことしか伝えなかったせいで何度か紗蘭さんに叱られたことがあったっけ。高校時代よりは少なくなったけど。
もう一度スマホを取り出して、グループのトーク画面を開いてみる。さっきのメッセージに既読が1個ついただけで、まだ誰からも返事は来ていない。
あたしは画面を見つめながら少しだけ悩んで、その後そこにメッセージを追加した。
《ごめんね、すぐ気づけなくて》
送信した瞬間に1個だけ既読がついたのを確認してスマホをしまうと、海老原さんも同じようにスマホをコートのポケットに入れた。
「それでだけど、エルはどこに行きたい? 僕は君の意見を尊重しよう」
「えー……そう言われると悩むなぁ。いつもは鱓野さんか紗蘭さんが案出して、あたしはそれに乗っかるだけだし。海老原さんはないの?」
「おや、僕が決めていいのかい? じゃあ……本屋はどうかな」
「本屋さん……! 行きたい!」
毎日でも行きたいほど大好きな場所を提案され、急上昇したテンションに突き動かされるまま思わず海老原さんに詰め寄ってしまう。
我に返ったのは、両手を胸の前に掲げて若干後ずさりした海老原さんの含み笑いを見たあとだった。
バツが悪くなって咳払いしながら距離を取ったけど、海老原さんはまだちょっと笑っている。
「な、何か欲しい本でもあるの?」
「まぁね。けど、欲しがっている本があるのは君もだろう? 例えば今月出た新作の小説とか。その買い物に荷物持ちとして同行するのはいかがかな?」
「確かに欲しい小説はあるけど……あなたにその話したっけ?」
「あー……いやまぁ、何となくね。君ほどの小説好きが新刊に飛びつかないわけない、と思ったまでさ。どうだい、当たってるかな?」
「うぅ……」
ちょっと悔しいけど、完全に海老原さんの言う通りだ。新作の小説はもちろんだし、それ以外にも欲しい本が数えきれないほどある。
好きな本はどうしても手元にコレクションしておきたい性分なのだ、あたしは。重くなりそうだから購入を見送ってたけど。
にしても、何で言ってもないのにあたしが新刊欲しいって分かったのかな、海老原さん。彼ってそこまで他人のこと注意深く観察するようなタイプじゃないのに。
でも、追いかけている作家さんやシリーズのことは、あたしが忘れちゃっただけで話したことはあったかも。あたしだって海老原さんが好むジャンルは知っているし……まぁいいか。
「じゃあお願いするけど、欲しいのたくさんあるから重くなるかもよ。それでもいい?」
「君が1回の買い物で大量に買い込むことくらい想定内さ、伊達にしょっちゅう君の買い物に付き合わされてないのでね。むしろ任せてくれ」
「もう、人聞き悪いよ。そんな言うほど連れ回してないもん……多分」
何故かちょっと得意気な顔してる海老原さんの胸を、両手でポコポコ叩きながら抗議する。
けど、ふと何か思い出したように真顔になった海老原さんは、直後妙に背筋が寒くなるようなニッコリ笑顔になった。
そんな彼を目の前にしてポコポコ抗議なんか続けられるほど図太くないあたしは、両手をすごすご下ろした。今までずっと無表情だった自分の顔が、気のせい程度に引き攣っているのが分かる。
「な……何……」
「いやぁ、エルのことだからまた本欲しさに生活費まで削っているのでは、と思っただけさ」
「う、そのこと……。もうしてないってば」
「小説のまとめ買いとなると、値段も馬鹿にならないはずなのだが」
「バイト代入ったばかりだから、余裕ある内に買っておきたいだけだって」
「本当に? 以前のように1週間近く食事を抜いていたり……なんてことはないだろうね?」
海老原さんは積極的に自己主張したり、率先して目立つようなことはあまりしないけど、実は結構な人気者だ。
誰に対しても物腰柔らかく親しみやすい人柄もさることながら、そんな性格を表すような、ふわふわと柔らかそうなミルクティー色の髪。スラリとした高身長故のスタイルの良さ……。何よりもこの整った顔立ちから繰り出される、髪色と同じくらい甘く柔らかい微笑に心臓射抜かれた隠れファンが学部問わずいたりする。
本人は何故かそんなこと露知らず、周囲の男性たちは彼のあまりの気づかなさに最早妬むことすら馬鹿らしくなるらしい。
そんな海老原さんだけど、たまにやたら圧の強いブリザードレベルの冷笑を繰り出すことがある。今がまさにそう。
端正な顔の人が怒ると怖いとは、よく言ったものだ。実際同じように顔立ちが整っている鱓野さんや紗蘭さんも、怒るとすっごい怖いし。
「ち、誓ってやってないって。本当に。結構本気で懲りたもん、あの時……」
「ふむ……まぁ確かに、みんなで少々厳しめに叱ってしまったからね。そこまで言うのならば信じよう。1食分食べきれるかどうかも怪しいほど少食な君のことだから心配ではあるけども、万一嘘だったなら鱓野先輩と紗蘭に任せればいい話だ」
「尚更やるわけないよ、それ言われたら。……それより早く行こう、本屋さん。早くしないと閉まっちゃう」
「おや、そんなに急がなくたって本屋は逃げないよ……って、エル! 待つんだ、リュック忘れてるじゃないか! 一旦止まってくれって……何でこんな時だけ足速いんだ⁉」
目当ての品を確実にゲットするべく、追いかけてくる海老原さんの必死な声と足音を背に、あたしはポニーテールとカーディガンの裾を風に靡かせながら本屋さんを目指して全速力で駆け出した。