第0話 シアワセな最期(おわり)
はぁ、と吐き捨てた真っ白な息は、自宅のバスルームを満たす冷えきった空気に溶けて消えた。
この時期の室温はやっぱり外と変わらないな、と右手に握っているカッターをチキチキ鳴らしながら考える。このマンションは浴室暖房付きだけど、今はそんなのつける気にもならない。
カッターの持ち手から、鈍色の刃が顔を出す。チキチキ、チキチキと乾いた音を立てて。それ以外の音がない寂れたバスルームで、あたしは冷たい床に座ってバスタブの中を眺めていた。
バスタブに張ったお湯の向こうから、生気のないあたしの顔が覗き込んでくる。窓から射す自然光だけの仄暗い空間でも、それははっきりと見えた。
暗い青紫のジト目気味な左目。いつもはポニーテールに結いている腰まで伸びた濡羽色の髪は、今は下ろしたまま。鼻先まで伸びた前髪は、右目をすっぽりと覆い隠している。
それよりも目を引くのは、やつれた頬と、魚の死骸よろしく濁った目、その下にくっきり刻まれた深いクマ。おまけに何日もお風呂に入ってないから髪はベタベタのボサボサだし、自分じゃ分からないけど結構臭うと思う。
「……ひっどい、何これ」
1週間ぶりに顔を合わせた自分はあまりにも見苦しくなってて、思わず覇気のない声で悪態をつく。曲がりなりにも女子大生の風貌じゃない。
それに拍車を掛けるような、シワだらけの部屋着。その左袖が肘へずり落ちて、心なしか以前より細くなった手首が露わになった。
微かに脈打つそこに刻まれているのは、ひび割れた球体とその破片のような三角形が散らばる意匠の、真っ黒な刻印。世間では憑印と呼ばれる、この世で生きる全ての人間が持つものだ。
動物霊や妖怪、神と呼ばれる存在を自分の体に憑依させ、それぞれ異なる特別な能力を扱えることが当たり前なこの世において、あたしはそれができない種族。
この形の憑印は、その証だ。
「こんな烙印、欲しくなかったのにな……」
これを見る度に思い出してしまう、種族故に恵まれなかった境遇と半生。
信じていた人に裏切られたこともあった。あたしを蔑んで迫害する傍ら、利用しようと躍起になっていた家族から逃げたこともあった。嫌な思い出ばっかりの人生だけど、それでも大学での3年間は間違いなく幸せだった。
それをもたらしてくれた友人たちのほとんどは、もういない。でも、いいんだ。もうすぐ会えるから。
この抜き身のカッターナイフが、あたしを友人たちのところに導いてくれるはずだ。
「もし向こうで会えたら……2人とも、何て言うかな」
使用感がほとんどない鋭そうな刃を憑印にあてがった時、頭の中に2人の顔がぼんやりと浮かんだ。
大学に入ったばかりの頃から何かと目をかけてくれた、あたしの1つ年上の鱓野さん。高校時代からの後輩で、事実上初めての友達だった紗蘭さん。どちらもあたしの数少ない、大好きな友達。
その2人以外にも友達はいるし、死への拒否感がないと言ったら嘘になる。何より……2人のことだから歓迎なんてしてくれないだろう。どちらもあたしを怒りの眼差しで突き刺してくる様が、今まさにこの目で見ているかのように鮮明に頭に浮かんでくる。……鱓野さんに至っては、あたしのこと見てくれすらしないかもな。
でも、今となってはそれでも構わない。2人がいない世界で絶望に塗れて生かされる未来に比べたら、どんな目を向けられても2人に会える方がずっとマシだ。
「だから、今、逝くね。……ごめん」
カッターを強く握り直すと同時に、いっそ一思いに左手ごと切って落とすくらいの力で刃を憑印にめり込ませる。刃が沈んだところから赤黒い血が雫となって漏れ出してきたのを確認すると、その傷口を押し広げるように刃を皮下に捻じ込んでいく。
そして、血管やら肉質やらに引っかかりながらも、それらを無視して力任せに、一刻も早い安息を希いながら……。
ザックリと、切り裂いた。
「ぁぐっ、う……! っはぁ、はぁ……! い、たいなぁ、やっぱ……」
抉るように深く切った傷口から鉄臭い鮮血が重力のままに腕を伝って、お湯にボタボタと溶けていく。すでに一部は薄紅に変色しつつあるその中へ、血まみれの手首を放り出した。
右手から滑り落ちたカッターが床を叩いた音と同時に目を閉じる。あとはこのままじっと息絶えるのを待つだけ。一人暮らしの身だし、その時まで誰にも見つからずに済むはずだ。
自力で支える気力も手放した身体はぐったりとバスタブに凭れ、血液はこのまま体温を奪いながらお湯へ溶けていく。もう少しすれば手足の感覚や、まだひりつく程度に残っている傷口の痛みすら分からなくなって……そうして意識を失う頃には、恐らくもう手遅れの段階になっているだろう。
想像の話じゃない。そうなるって知ってるんだ、あたしは。
だからお願い、さっさとそうなって。傷はもうほとんど痛くないのに、手首を切り裂いた瞬間より辛いの。
2人のところに逝くまでのこの時間が、息苦しいほど焦れったくて。無傷の心臓が、抉れた手首よりも遥かに痛い。
苦しいのも、痛いのも、もうたくさんだよ。だからもう、ほら。早く死なせて。
(……早く。早く)
早く。早く、早く、早くはやくハヤクハヤクハヤク。
……その願いが通じたのか、睡魔に似た気怠さがじわじわと全身を侵食していく。瞼は開けようとしても開かないし、手足の先はもう何も感じない。
ああ、やっと、やっと楽になれるんだ。もう苦しまずに済むんだ。誰にも傷つけられない、誰にも利用されない。ようやく、あたしは本当の意味で解放される。
あたし、今すっごく幸せだ。これまでの人生で一番、幸せで仕方ない。
最後に笑ったのは何年前だったかな。あたしにとってそれくらい無縁だった笑顔も、今なら作るくらいはできそうだ。
(そんな気力、もうないけど……一度でいいから、また笑いたかった、な)
死に際とは思えないほど安らかな気分で、そんな未練に思いを馳せた、その瞬間。
ふと脳裏に過ぎったのは、もうしばらく見ていない鱓野さんの笑顔。
(……鱓野、さん)
いつも楽しそうな、成人済みとは思えないほど無邪気な笑顔が印象的だった彼。風変わりなギザギザの歯を見せて、誰よりも何よりも眩しく輝く笑う顔が、一番の魅力だった彼。
もしあたしが笑えるようになったら自分にも見せてほしいと、そんな風に言ってくれた彼。
笑えないあたしを気遣って、無理に笑えとは言わなかった。でも、あたしが笑顔を取り戻せる未来を、誰よりも望んでくれた。
……そうだと信じて疑わなかった。鱓野さんのその言葉を、疑ったことなんてなかったのに。
(それでも、本当に……笑えるように、なれたら、よかった……のに……)
ぼんやりと淀みつつある頭の中に描いていた、鱓野さんの顔。それが輪郭も色彩も保てなくなるほど、意識が混濁していく。
やっと時間切れが近づいてきた。そうだ、このまま、息なんてさっさと止まって──。
「エルっ……‼」
「エルさん‼」
ようやく訪れた終わりの気配は、ドタドタという足音と、それをかき消すほど大きな2つの声があたしの名前を呼んだことで僅かに遠のいてしまった。あたしを呼び捨てで呼んだ男性の息切れ混じりの声と、さん付けで呼んだ女の子の声。
あたししかいないこの家で聞こえるはずのないこの2つの声の主たちが誰なのか、あたしはよく知っている。ついこの前まで、毎日のように聞いていた声だったから。
(まさか……海老原さんと、真璃愛さん……?)
海老原さんと、その妹の真璃愛さん。今まさにあたしが置き去りにしようとしていた友人たちの声だ。普段の海老原さんの声は甘くて穏やか、真璃愛さんは鈴が踊るような明るくて可愛らしい声なのに、今聞こえてきた声からは悲痛な焦りしか感じ取れない。
何で2人がここにいるのか、それを問いかける気力も、まして目を開ける体力も残ってない。一度は遠のいた終わりの気配は、2人の声を押し退けて再び襲ってくる。
ただただ眠い。それに抗えない。抗う気すらない。
(ごめん、ね、2人とも……こんなとこ、見せちゃって……)
意識が、息が完全に闇へ呑み込まれる、その刹那。
最期に耳を突き刺したのは、気が触れたような海老原さんの絶叫だった。