「特に意味もなく安宿に宿泊」が趣味な令嬢、夜会で素敵な令息と知り合った後ももちろん安宿に泊まる
子爵家の令嬢アンジェリナ・カーマンには趣味があった。
それは、特に意味もなく安宿に宿泊すること。
普通、宿泊といえば例えば旅行者が旅行先で宿を取るとか、あるいは何らかの事情で定住する場所を持たない者がやるものである。
しかし、アンジェリナはもちろん家はあるし、特に旅をするわけでもないのに、安宿に泊まるのが好きなのである。
彼女が暮らす王都には観光客や出稼ぎ労働者向けの安宿が多数あり、宿泊先には困らない。
アンジェリナは艶のあるオレンジブラウンの長い髪を持ち、華やかな顔立ちの令嬢であるが、この時ばかりは服装は質素なものにしている。上は白のブラウス、下は焦げ茶色の長めのスカートという出で立ち。荷物は黒いボストンバッグ一つ。
宿を物色し、ある木造の宿屋に目をつける。
(これは私の内にある触角がピクピク動いてるわ!)
さっそく中に入る。
カウンターでは中年の宿屋の主人が椅子に腰かけ、つまらなそうに新聞を眺めていた。
アンジェリナを見ると、そそくさと新聞を片付ける。
「いらっしゃいませ」
「今夜一晩泊まりたいのだけど、部屋は空いてます?」
「空いてますよ。料金は素泊まりで300ゼクだけど」
「じゃあ、泊まります!」
主人は壁から鍵を取り外し、アンジェリナに手渡す。
「部屋は3号室、鍵はこれね。出かける時は一声お願いします」
「どうも~!」
チェックイン完了である。
(このぶっきらぼうな接客がたまらないのよね~!)
鍵を受け取ったアンジェリナはにんまりと笑った。
今の主人の接客は普段貴族が使うようなホテルでは到底考えられないものだ。
だが、今の彼女にとってはこれでいい。これがいいのである。
アンジェリナは廊下を歩いて、3号室の扉を開ける。
決して広くはないがベッドと机があり、また体を拭く簡易的なスペースも用意されていた。
アンジェリナはワクワクが抑えきれない。
(いいじゃない、いいじゃない! 期待通り……いいえ、期待以上!)
時刻はまだ日没前、とりあえずアンジェリナはベッドに寝そべる。
バッグの中から小説を取り出し、読み始める。
すらすらと読み進め、あっという間に30ページほど読んでしまった。
(家で読むとあまり読書も進まないのに、こういう場所で読む小説ってどうして面白いのかしら)
夕方になったので、アンジェリナは本を閉じて読書をやめる。
宿を出て、買い出しの始まりである。
近くの食料品店をはしごし、次々に食べ物を購入する。
大きめのパンから始まり、掌ほどの大きさの干し肉、安いソーセージ、袋詰めのピーナッツ、普段はおよそ食べないジャンクフード的なものばかり。
さらには――
(甘い物も……いいよね)
ケーキ屋でショートケーキとシュークリームとドーナツを購入。
(栄養が偏ってる気がする……)
果物か野菜が欲しいということで、レーズンを購入する。
今までのラインナップにレーズンが入ったところで、栄養バランスに寄与するとは思えないが、気持ちが大事なのである。
宿に戻り、アンジェリナは買ったものを食べ始める。
パンをちぎり、干し肉を噛み、ソーセージを一口、ピーナッツを食べ、再びパン。
モグモグ、ハグハグといった、令嬢的ではない擬音を奏でつつ、夢中で平らげる。
(普段食べてるものの方がグレードは高いはずなのだけど、安宿で食べるこういう食事ってどうして美味しいのかしら!)
パンを少しだけ残すと、デザートとなるケーキ、シュークリーム、ドーナツを立て続けにペロリ。
アンジェリナは満足感の極みといえる顔つきとなった。
(美味しかった……)
しかし、膨れたお腹を見て、ほんの少し罪悪感に浸る。
(しばらくは節制しないとね……。ダンスのレッスンも頑張ろうっと)
その後しばらく、アンジェリナは再び本を読んだり、部屋に飾ってある値打ちのなさそうな風景画を眺めたり、ベッドのごわごわした感触を楽しんでみたり、安宿を満喫した。
時刻は8時頃になり、アンジェリナはベッドから立ち上がる。
(私のトゥナイトはまだまだこれからよ)
アンジェリナは再び宿を出て、道をさまよい、一軒の酒場を見つける。
中にはすでに酔客が大勢いる。しかし、ここで怖気づいてはいけない。アンジェリナは堂々と店に入る。
「いらっしゃいませー」
ウェイトレスに導かれ座った席で、アンジェリナはエールを注文する。
まもなく木のジョッキに注がれたエールが運ばれてきた。
アンジェリナはグイッと飲む。
「ん~、フルーティーで、程よく雑味があって、美味しい!」
すると近くにいた客らがアンジェリナに声をかける。
「お、分かってるね、姉ちゃん!」
「うふふ、まあね」
「よっしゃ、一緒に歌おう!」
「はーい!」
酔客独特のムードにも、アンジェリナは臆せずして乗っていく。
「金はないし~、女もいない~、だ~けど、毎日楽しいぜ~」
聞いたこともない歌だったが、アンジェリナも肩を組んで一緒に歌う。
とても楽しい夜となった。
ほろ酔い気分で宿に戻ったアンジェリナは軽く体を拭き、寝間着にするチュニックに着替え、ベッドに横たわった。
(あ~……楽しかった……)
そのままベッドでぐっすり眠り、いつもより遅く起きる。
昨日わずかに残し、固くなったパンを朝食として食べる。このカチコチ感がまた美味い。
ブラウス姿になると、宿をチェックアウトする。
「300ゼク頂戴します」
貴族からすればあまりにも安い宿泊代を払い、外へ出る。
すでに町は動き出しており、町民たちがあくせくと動き回っている。
これで彼女の趣味はひとまず終了。
(あ~、楽しかった。さて、家に帰ろうっと)
こんなことをすれば親が心配するに決まっているが、もちろんアンジェリナは事前に「友人の家に宿泊する」と説明しており、抜かりはない。
彼女はなぜ、こんな趣味を持ったのか。
別にアンジェリナは貴族や令嬢という立場が嫌いというわけではない。
しかし、どこか窮屈さは否めない貴族としての生活を送るうち、たまに安宿に一晩だけ泊まってちょっとだけハメを外す――こんな非日常を求めるようになっていた。いつしかそれは趣味と呼べるものになっていった。
(次やるのは、まただいぶ先になるかしら。来月か、あるいはもっと……)
こんなことを考えながら、アンジェリナは帰路についた。
***
ある夜、アンジェリナはとある貴族の屋敷にて夜会に参加していた。
自身のオレンジブラウンの髪が映えるベージュのドレスに身を包み、令嬢や令息たちと上品に会話を交わす。
彼女は決して社交もおざなりにはしていない。家のためにいい出会いをしたいという使命感を持っている。
ふと、視線を移す。
給仕係の娘がテーブルに肉を補充しようとしている。
その時、肉を皿の上に落とすように置いてしまったため、ソースがわずかに飛び散った。
そして、近くにいた青年の胸元に付着してしまった。
娘は青ざめる。普通ならば怒鳴り散らされてもおかしくない場面である。仕事を失うことすらありえる粗相。
しかし、青年は白いハンカチをソースを隠すように胸ポケットに飾りつけ、「ちょっとお洒落をしてみたよ」と笑ってみせた。
平謝りする娘をなだめ、落ち着かせると、青年は食事を続ける。
これを目撃したアンジェリナは――
(なんて素敵な人なんだろう)
と、青年に近づいた。
「初めまして。わたくし、アンジェリナ・カーマンと申します。失礼ですがあなたは?」
「僕はリカルド・レクトゥス。初めまして」
聞けばリカルドは伯爵家の令息だった。
額と耳にややかかる程度の長さのアッシュブラウンの髪、顔立ちは整っており、なおかつ爽やかな印象を受ける。
「先ほどの給仕の女の子とのやり取り、見ていました。衣服にソースがかかってもまるで気にせず……」
「ああ、見てたのかい。あれぐらいのことで怒っていたら、自分も疲れてしまうし、僕の魅力はちょっとソースがかかったくらいじゃ落ちないからね。なーんて」
「うふふっ……」
リカルドのジョークにアンジェリナも笑みをこぼす。
いくらかの会話を交わし、アンジェリナはリカルドの気さくさに惹かれていった。
やがて、夜会はお開きになる。
「リカルド様、今日は楽しかったです」
「うん、君とはまた会いたい。そんな気持ちになったよ」
やんわりと再会を誓うと、二人はそのまま別れた。
***
夜会が終われば、お楽しみタイムの始まりである。
実は今日アンジェリナは家族には「夜会の後は友人の家に泊まる」と言ってあり、趣味である安宿宿泊を楽しむ予定であった。
ブラウスに着替え、屋敷を出ると、アンジェリナは安宿物色を始めた。
程なくして、こじんまりとした石造りの宿を見つける。
(ここ、私の中の触角がビビビッてなってる!)
直感を信じ、チェックインする。
「一泊350ゼク、朝は向こうの食堂にバイキング形式の食事が出ます」
「どうも~」
なかなかの大当たりだわ、とアンジェリナは感じた。
料金も安いし、朝食があるというのもなんともありがたい。
夜会では素敵な人と出会え、いい宿屋に泊まることができた。一日の終わりとしては上出来すぎる。
アンジェリナはベッドにダイブするように横たわり、大きな声で独りごちた。
「ん~、今夜は最高!」
すると――
「いい一日だった!」
隣の部屋から声が聞こえてきた。
壁を隔てているのではっきりとは聞こえないが、男の声だというのは分かった。
お互いに隣の部屋に自分の声が響いたと気づいたのか――
「ごめんなさい……」とアンジェリナ。
「これは失礼……」相手も謝罪する。
安宿ではこういうことも日常茶飯事なのである。
(せっかくだし、ちょっと町に繰り出そうかな)
まだ就寝には早い。
アンジェリナはドアを開ける。
その時、偶然にも隣の部屋のドアも開いた。先ほど声が聞こえた方の部屋だ。
アンジェリナは目を丸くした。
同じタイミングで隣の客が部屋を出たことに驚いたわけではない。なにしろ、その相手は――
「リカルド様……!?」
「君は……アンジェリナ!」
なんと夜会で会ったばかりのリカルドは同じ宿の隣の部屋に泊まっていた。
しかも、その格好はラフなスラックス姿であり、明らかに“最初から安宿に泊まる予定だった”ということが窺える。
「ずいぶん早い再会になっちゃいましたね……」
「そうだね……」
どこか気まずい空気が流れるが、アンジェリナが口火を切る。
「私、安い宿屋を探して泊まるのが趣味、なんです」
リカルドがハッとする。
「君もなのか! 実は僕も……」
趣味を打ち明け合った二人は笑い合った。
「まさか、同じ趣味の人と出会えるなんて!」
「僕もだよ。こんなに嬉しいことはない」
「じゃあ、このままどこか酒場巡りでもしません?」
「いいね。実はこの近くにいいところがあるんだ」
「本当ですか!?」
意気投合し、夜会の時よりも生き生きとした表情になる二人。
そのまま近くの酒場へと向かう。
二人ともエールを注文する。それをチビチビ飲み、つまみのレンズ豆を食べつつ、会話に花を咲かせる。
「リカルド様はなぜ、安宿泊まりを趣味に?」
リカルドは遠くを見つめるような目つきをする。
「そうだね……。日々の貴族暮らしに疲れ果て、大衆的な安らぎを追い求めて……ってところかな」
直後、照れ臭そうに笑う。
「なんてね。たまには変わったことをしたいっていうのが大きな理由かな」
アンジェリナもクスッと笑う。
「私も同じようなものです。一度やってみたら癖になっちゃって……」
「だよね!」
「だけど、これで合点がいきました。リカルド様がソースを全く気にしなかった理由が」
「だろう? あんなの汚れのうちにも入らないよ」
安宿泊まりを趣味とすれば、多少の粗相には免疫ができるのは当然だった。
そして、趣味を同じくする者同士、安宿宿泊トークで盛り上がる。
「チェックインした時のあのワクワク感がたまらないんですよね~!」
「分かる!」
「ベッドのあのごわごわした感じが心地いいよね。家のベッドと全然違う」
「分かります!」
「食料を買う時、つい栄養バランスなんか考えちゃったり……」
「あるあるすぎますね!」
やがて、酔客らに目をつけられ――
「どうだい、そこのお二人! 俺らと一杯やらねえか?」
「僕はいいけど……君はどうする?」
「ご一緒させて下さい!」
二人はノリノリで酔客たちの集いに参加し、大いに盛り上がった。
翌朝、二人は同時に宿のフロントに顔を出す。
明らかに二日酔いの二人を見て、宿屋の主人がつぶやく。
「ゆうべはお楽しみだったようですね」
アンジェリナとリカルドは揃って苦笑いをした。
しかし、宿で用意されたバイキング形式の朝食はしっかり平らげ、チェックアウトを済ませる。
「リカルド様、またお会いしましょうね」
「うん、こんなに楽しい一夜は久しぶりだった。絶対にまた会おう」
今度はやんわりではない再会の誓いをする。
二人は確かな絆で結ばれていた。
***
それからというもの、アンジェリナとリカルドは夜会では貴族として優雅に模範的な交際を続ける。
「今宵のワインは血のように真紅で、情熱をかき立てられるね」
「ええ、まるで私の中の恋心も炎のように踊りますわ」
酒を程々に嗜み、曲がかかれば息の合ったダンスを披露する。
二人を見て、あのようになりたいと感じる貴族の若者たちも多いほどであった。
一方、裏では安宿宿泊を楽しむ。
「アンジェリナ、今日はあの宿にしないか?」
「いいですね! 私の中の触角がブルブル震えてます!」
一見ただの道楽のように思える趣味であるが、社交界でのストレスを適度に発散し、あるいは貴族ではなかなか実感しにくい庶民感覚を味わうのに一役買っていたといえる。
だからこそ二人は心を広く保ち、他の貴族たちからも一目置かれるようなカップルになっていった。
なんの益もなさそうな趣味は、しっかりと二人の血肉となっていたのである。
やがて二人は婚約に至り、そして――
教会で、年配の神父が告げる。
「新郎リカルド・レクトゥス、そして新婦アンジェリナ・レクトゥス。二人は互いを永遠に愛することを誓いますか?」
「誓います」
「もちろんですわ」
厳かな雰囲気の中、白いタキシード姿のリカルドと、ウェディングドレス姿のアンジェリナが口づけを交わす。
この姿に出席者たちは、レクトゥス家とカーマン家のさらなる発展を確信するのだった。
そして、リカルドは小声でささやく。
「今夜、安宿泊まりやらない?」
「私もそれを言おうと思っていました」
アンジェリナが微笑んでこう返すと、二人は抱きしめ合う。
教会内に拍手が沸く。
二人の趣味は、結婚後も続くであろう――
おわり
お読み下さいましてありがとうございました。