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3 バイト先の……


 意識が現実に戻る。周囲を確認する。どうやら交差点で信号待ちをしていたらしい。信号が青になり歩き出す。


 己花さんが眼鏡を外したのね。早速彼女から話し掛けてくる声が心の内に聞こえた。


『音芽。さっきの男は逃げて行きましたわ。先程のお店に居合わせた方々に助けていただきました。逃げた男に逆恨みされている可能性もありますから、バッタリ出くわさないようにしてくださいまし』


『ありがとう己花さん。分かった。気をつけるね』


 その後、詳細を聞きながら大通りの歩道を進んだ。




 今日はバイトの日だった。落ち着いた雰囲気の喫茶店で働いている。道路に面した窓が大きくて外の並木の歩道を眺めながらお茶を楽しめる造りになっている。


 あと一時間くらいで上がれる。また本屋さんに寄って帰ろうと思っていた。



「あっ、あの人だ」


 気付いて小さく呟いた。


 今日はお客さんが少なく忙しくなかった。窓際のテーブル席で物静かに本を読む人物をカウンターの側から盗み見た。同年代か少し年上かもしれない。紺色の半袖シャツ、整ったサラサラの黒髪……本に集中している真剣な表情からも真面目そうな印象を受けた。


 彼が本を読む姿に思い出した。以前来店してくれた時もテーブル席で本を読んでいたので何の本なのか結構気になっていたのだった。


 今日はこの間とは違う本を読んでいるみたい。前回は文庫本ぽかったけど今回のは厚いハードカバーの単行本だ!


 ……ん? あのカバーの色、見覚えがあるような……あっ!


 目を剥いて凝視してしまう。


 あれは私の大好きな本! 凄く面白いけどあまり世間に知られていない知る人ぞ知る宝物のような尊い一冊っ! まさか……読んでる人に巡り会うなんて!


 興奮で顔が熱くなっている。頬を押さえた。


 感想を聞いてみたいな。ぜひ内容のアレコレを語り合いたい! でもいきなり声を掛けたら変な人だと思われるよね? ……あっ、彼のテーブルのお冷や少なくなってる!


 お冷やを注ぎ足しに行こうと氷水の入ったピッチャーを持って席の側へ寄った。


「失礼しま……わゃっ?」


「あっ」


 件のお客さんが前触れなく席を立った。避けきれずぶつかってしまいピッチャーをテーブルに落としてしまった。


「もっ、申し訳ございません!」


 大慌てでピッチャーを起こしカウンターの内側からダスターを数枚取ってきて零れた水を拭った。


「本が……っ」


 こんなダスターなんかで拭いていい本ではないと分かっているけど。今はこうするしかない。せめてと思って一番キレイなダスターを使った。


 何やってるんだろう私。浮かれていたのがいけなかった。もっと注意深く気を付けていればぶつからずに済んだのかもしれない。目に涙が滲んでしまう。


「折角の小石川先生の本が……。本当に申し訳ございません」


 もう一度謝った。私だったら絶対に許せない。永遠に恨み続けてもいい案件だ。


 表紙に掛かっていた水を拭き終えた。カバーの表面が水を弾く素材だったので染み込まず被害は少なかった。少しだけホッとした。


「知ってるの、この本……」


 ポツリと問われて顔を上げた。青年が驚いているような目付きでこちらを見ている。答えた。


「あ、はい。知ってるも何も、私にとっては宝物の本です」


 自分でも、あっヤバい……と感じたけど口が止まってくれなかった。


「この本を初めて読んだ日はもう……涙で枕を濡らしながら眠りにつきました。こんな素晴らしい物語を世に生み出してくださった小石川先生は人類の宝ですね。私は主人公の性格が特にいいと思うんです。何故かと言うと……」


「ンッウン」


 大きめの咳払いが聞こえて我に返った。振り返ってカウンターの方に目を向ける。店長に睨まれた。


 店長は三十代で少し無精ひげが生えている。いつもは気さくで優しいけど仕事が絡むととっても厳しい時がある。


 私が喋り過ぎだったので注意してくれたのだろう。すみません。


「ふっ」


 お客さんに笑われた。


 彼はここに滞在している多くの時間を読書に使っていた。本に集中している表情くらいしか知らなかった。笑っているところなんて見た事がなかった。だから少し……堅物めいた性格なんだろうなと勝手なイメージを抱いていた。


 でも違うみたいだ。


 私が本に水を零しても怒らず愉快そうに笑っている姿を目にして考える。


 あれ。何だろうこの気持ち。胸がほんわか温かくなるような、何だか少し嬉しいような……。



『――ね』


 己花さんの呟きが聞こえた気がした。



 バイトが終わってから何の話だったか尋ねてみたけど『何でもありませんわ』と教えてもらえなかった。


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