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絶望が今まさに現実となろうとしている。
「清麻呂さん!」
「清仁!」
「あるじ?」
二人で両手を握り合う。横でおはぎが清仁の服を掴んで首を傾げた。
どうにかしなければ。たった二人ではどうにもならない。堤防はもちろん無い。土嚢も見当たらない。清仁が豪雨に向かって叫んだ。
「どうなってんだ長岡京! 川の近くには堤防立てなきゃダメだろッ」
「堤防とはなんだ?」
「川が大雨で氾濫しないようにする壁みたいな、土盛った土手でもいいですけど」
「おお! それは素晴らしい! さっそく用意しよう」
「一瞬で出来るかぁぁぁ!」
こういう失敗を教訓に、今の日本があるのだろう。勉強になるが、今はそういう場合ではない。一刻も早くなんとかしないといけないのに、何も出来ない自分が歯がゆい。
「あるじ」
「おはぎちゃん、俺のナカにいて」
「うん」
おはぎが大人しくシュルシュルと清仁のナカに消えた。清麻呂が興味深く頷く。
「おお、不思議な術だ」
「術じゃないです。ていうか、感心してる場合じゃないです」
「そうだった」
おはぎもこの状況を理解して手伝おうとしてくれていたが、まだあやかしの力は弱く、逆に氾濫に巻き込まれてしまうかもしれない。情けないないが、そうなってはただの人間では到底助けられない。
「と、とりあえず、川の様子を見に来たあの人たちなんとかしましょ。絶対流されます」
「分かった!」
現代でもいる。洪水が心配なあまり近くまで来てしまう現象を起こした人々。何故、危険に向かってしまう人がいつの時代でも一定数いるのだろう。
「ここは危険です。すぐに帰宅して家から出ないでください」
「私たちが応援を呼んで対処します」
びしょ濡れになりながら、清麻呂の権力を持って家に戻るよう促した。数人いた野次馬が去っていく。
しかし、帰宅したところで浸水してしまえば元も子もない。民家が水没する前に何か解決策を考えなければ。清仁が国守に問いかける。
「土嚢は? 土嚢くらいあるでしょ」
白澤の言葉を天皇に伝えた時、国守は備蓄を勧めていた。しかし、その中に土嚢の蓄えは無かったかもしれない。こればかりは経験を積まなければ思いつかないことだ。
「ああ。土を入れた袋だな? それならあそこの蔵にあるはず」
「よかった。あるんですね」
町の共用の倉庫といったところだろうか。何でもいい。今出来るのはそれくらいしかない。
蔵を開けると、たしかに土嚢があった。重そうだけれども。一人でどれだけ出来るだろうか。悩んでいる暇は無い。
「運びましょう」
「いやいや、無理だ。扇子より重い物なんて持てない」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」
その時、清麻呂の牛車がやってきた。豪雨の中帰らない主人を心配したのだ。びしょびしょの牛が切なく見える。た今の今まで倒れそうだったのに、人が増えたことで清麻呂のやる気がむくむくと起き上がった。
「お前たちも手伝ってくれ!」
こういうことは担当の者に任せて、わざわざ清麻呂が動くことではない。そう判断した従者だったが、清麻呂の気迫に負けて、土嚢を運び始めた。
「うう、重い。無理」
「やる気消えるの早いな」
そうからかうものの、清仁自身もめげそうになっていた。このままでは土嚢が運び終わるまでに水が来てしまう。町民に頼もうか。瞬間、突風が吹いた。
突風というよりまるで竜巻だ。意志を持ったようなそれは蔵の中で暴れまわり、土嚢を次々に放り出した。そのままころころ転がる土嚢。重さを考えればこのような動きはおかしい。と思っていたら、薄っすらと仙の姿が見え隠れした。なるほど、ツンデレ主人の従者もまた然り。
呆気にとられたが、この好機を逃してはならない。散らばった残りの土嚢を並べ直し、あっという間に簡易的な土手が完成した。
「実に不可思議な」
清麻呂には勝手に土嚢が動き出したようにしか見えず始終首を傾げていたが、氾濫を防げたので追及することはなかった。
「あ、やっと雨止みましたよ」
時間にして数十分といったところか。ようやく雲の切れ間が見えてくる。こんな短時間で町が沈みそうになるとは、天災への予防が殊更大切であることに身をもって気付かされた。
清麻呂がその場に座り込む。それに気付いた従者がわらわらと集まった。
「清麻呂様、お怪我でもなさいましたか!」
それに清麻呂が首を振る。
「いいや、全然。少し疲れただけだ。老体には堪える。しかし、見ろ。私たちが京の町を守ったぞ」
川の水が溢れ道まで浸水はしたが、民家は無事だ。従者たちが拍手で讃える。
「はい! 素晴らしいご活躍でした!」
「清仁様も有難う御座います!」
「いや、俺はちょっとしか運んでいないし」
以前清麻呂が「私の親戚だ」と従者に言ったものだから、すっかり様付けで呼ばれるようになってこそばゆい。どう転んでも自分は貴族ではないのに。
「うわ~……晴れた」
まるで台風一過の快晴で、先ほどまでの豪雨が夢だとさえ思えてくる。濡れた衣服と積まれた土嚢に現実なのだと説教された。
「どろどろだ。さて、着替えよう」
その提案を素直に受け入れる。さすがにこのまま散歩は続けられないし、着替えの服も持っていない。起き上がるのに苦労している清麻呂を助け、皆で歩いて和気邸へ向かう。牛車に乗ろうと提案されたが、泥だらけの体のため遠慮したら、結局全員乗らず徒歩になった。牛は軽そうにのんびり進んだ。
「もう粗方乾いたぞ」
「服に付いた泥はそのままですけど」
「怒られそうだ」
家族にだろうか。清仁も笑った。
「それにしても、さっきのはなんだったのだろう。清仁といると面白いことが起きて毎日飽きないなぁ」
「ああ、あれは」
ぼんやり見える狐を指差そうとしたら消えてしまった。とりあえずその辺りを撫でてみる。少しふわふわしていた。
「なんでしょうね。祟りの逆でしょうか」
清麻呂に合わせて答えれば、目を輝かせて言われた。
「なるほど! 吉兆の霊獣でも現れたか!」
「そうかも」
白澤を思い出したが、これは違う。単純に災害だ。清仁は適当に賛同しておいた。
部屋に案内され、新しい服に着替える。着ていたものと似ているので、これも朝服かと予想する。こんな複雑な服を毎日着るのだから、長岡京の人々は大変だと思う。これで寛げるのか。もしもこれが現代だったら、下着だけで床にごろりと寝転がる。
「さて、昼寝でもしよう」
清麻呂がそのまま横になった。なんだ、仕事着でも寝転がるじゃないか、清仁が吹き出した。
「寝られるかなぁ」
心配をよそに、二人はものの数分で眠りに落ちた。




