3
追ってくる気配は無い。そもそも、あれも本気ではないのだろう。
「はぁ」
気持ちを落ち着けたくて、深呼吸しながらのんびり歩く。周りを眺めてみる。穏やかな風と、木々と、町の人たち。なんら心をざわつかせるものはない。自分だけ切り離されている気分だ。
「俺も長岡京の一部になってみるか」
いつ帰ることが出来るのか分からない。それならいっそ、溶け込んでみよう。郷に入っては郷に従え。自分だって日本に生きる一人だ。ようやく体中を暴れる嵐が去っていくのを感じた。
「ただ、あの旅館一泊五万したんだよな……せめて泊まってからタイムスリップしたかった」
社会人十周年を記念して自分を褒めるために予約した旅館。外観すら見ることが叶わなかった。いつか戻れた時にまた泊まるとしよう。
「それにしても、思ったより栄えてる」
元いた時代からすれば千年以上前なので、もっと質素な生活だと思っていた。授業で習ったが、用語を覚えるので精一杯だったから、どんな生活かまで気にしたことがなかった。
確かに、平安時代は優美な絵が多かったので、長岡京の時点で都は発展していたのだろう。しかし、貴族に混ざって簡素な装いの庶民も見受けられるので、都を離れたらまた違うのかもしれない。
「平城京も栄えてたのかな」
こうなると、前の時代のことも気になってくる。そんなことを気にしている場合ではないのだが、帰る方法が分からない今、そのくらいしか気にすることがない。
ただただ歩いていると、道が真っすぐ伸びていることに気が付いた。なるほど、これが碁盤の目というものか。
「だいぶ歩いたけど、どこまで続くんだろう」
乗り物が無い上地図が無いので、いまいち全体図が掴めない。情報が欲しくてあちこち探してみるが、看板も地図も立っていなかった。仕方がない、ここは千二百年前の日本である。看板自体は存在するのかもしれないが、現代のようにはあちらこちらにとはいかないのだろう。
「そうだ、地図、あるぞ」
思い出した清仁が服の中からパンフレットを取り出す。長岡と令和では絶対違うが、共通点の一つくらいあるかもしれない。通行人がこちらに視線をやったので、素知らぬ顔で細道に入る。初日と一緒だ。
気を取り直して地図のページを開き、説明を読み込む。しかし、通りの名前と寺の名前が記されているだけで、たいした情報は得られなかった。パンフレットを仕舞いかけた手が止まる。
「いや、そんなことない。寺の名前があるんだ。こっちで見つけたものと同じ名前があれば、どの辺りにいるのか分かる」
空を見上げ、太陽の位置を探る。スマートフォンを見れば一発だが、いざという時のために、長岡の時代に沿った生活の仕方にも慣れておきたい。おそらくまだ午前中だろう。感覚的にも、朝食を食べてからまだ何時間も経っていないので、合っているはず。そう考えると、今自分は北に向かって歩いていることになる。
「北の方にある寺は……」
パンフレットにはいくつか寺の絵が描かれている。建立が平安京より前であれば、ここにも建っているはず。通りに顔だけ出して辺りを見渡すと、奥の方に寺があった。
「やった」
懐にパンフレットを仕舞い、速足でそこを目指す。辿り着いた先は、全く人気の無いものだった。
寺の入り口に文字が掘られた木が取り付けられている。近づいてみた。
「乙訓寺……?」




