社会人になってからでも読み読み返す本
今まで生きてきた中で、いろいろな種類の失敗をしたり、多くの人に騙されてきたりした。十代の頃には、社会でよくある失敗例とそのような失敗に陥いらないための知恵や騙されないための知恵を教えてくれる本や社会人としての心構えを教えてくれる本が何冊かはあるものと、漠然と考えていた。社会に出るまでに、そのような本を読みたいと、学生時代からいろいろと本を探してきた。しかし、そのような自分が読みたいと思っていた本は、残念ながら社会に出る時までには見つけることができなかった。また、社会に出てからも、失敗しないための知恵や騙されないための知恵を教えてくれる本や社会人としての心構えを教えてくれる本を探し続けたが、部分的には満足できるものであったが充分満足できる本を見つけることができなかった。
社会人としての心構えを書いた本を探して、中国の哲学書や西洋の哲学書等の本を読み漁った。しかし、それらの本は崇高な精神を養う点では申し分のないものだったかも知れないが、抽象的で難解な文章が多く、自分の読解力不足のためと面白くない内容のため、字面を追って頁をめくるだけで中身が全く身につかず、無駄な時間を費やすだけであった。各種の偉人の本も感心するものであったが、凡人が社会で失敗しないでかつ騙されないで社会を生き抜くための参考にはならなかった。各種新興宗教家の本は、前世や来世を信じろと言ったような、人を迷わす内容の羅列であり、全く信用することができなかった。
序文
主題『東洋人のための哲学』
副題『社会人になるまでに読むべき本/
社会人になってからでも読み読み返す本』
今まで生きてきた中で、いろいろな種類の失敗をしたり、多くの人に騙されてきたりした。十代の頃には、社会でよくある失敗例とそのような失敗に陥いらないための知恵や騙されないための知恵を教えてくれる本や社会人としての心構えを教えてくれる本が何冊かはあるものと、漠然と考えていた。社会に出るまでに、そのような本を読みたいと、学生時代からいろいろと本を探してきた。しかし、そのような自分が読みたいと思っていた本は、残念ながら社会に出る時までには見つけることができなかった。また、社会に出てからも、失敗しないための知恵や騙されないための知恵を教えてくれる本や社会人としての心構えを教えてくれる本を探し続けたが、部分的には満足できるものであったが充分満足できる本を見つけることができなかった。
社会人としての心構えを書いた本を探して、中国の哲学書や西洋の哲学書等の本を読み漁った。しかし、それらの本は崇高な精神を養う点では申し分のないものだったかも知れないが、抽象的で難解な文章が多く、自分の読解力不足のためと面白くない内容のため、字面を追って頁をめくるだけで中身が全く身につかず、無駄な時間を費やすだけであった。各種の偉人の本も感心するものであったが、凡人が社会で失敗しないでかつ騙されないで社会を生き抜くための参考にはならなかった。各種新興宗教家の本は、前世や来世を信じろと言ったような、人を迷わす内容の羅列であり、全く信用することができなかった。これらの本は、殆んどの本が読んでいても面白いものではなく、堅苦しい説教じみた文章ばかりで眠気を誘うものであった。
中国の古典である老子、荘子、大学、中庸、論語、孟子、荀子、墨子、韓非子、孫子、史記、十八史略、菜根譚、呻吟語等の本の中には、生きるための糧となる内容や参考になる言葉が多数含まれていた。同じ内容や類似の内容やそれに関連する言葉を関連づけて一連に読みたいと思ったが、関連する内容を横断してまとめた本はなかった。このため、各種の本の同じ内容や類似内容や関連する言葉をまとめて、失敗しないための知恵や騙されないための知恵や面白い事例を組み合わせることで、興味深いストーリーを創り上げました。
史記等の中国の古典のいろいろな本には、真実とは異なると思われる内容を、噂のまま真実として記載した所が幾つかあった。真実とは異なると思われる箇所を真実と思われる解釈をしてこの本で示してみた。先ず、堯舜禹の禅譲は、ある本に舜が堯を捕えて監禁したとあることから、言われているような理想的な禅譲ではないのではないかと思った。堯の息子の丹朱も舜の息子の商均も出来が悪く、帝位を自分の息子に移譲したら帝国が滅びるので、自分の息子ではなくて他人に帝位を移譲せざるを得なかったのである(第69章)。帝位の移譲を後世の儒者が自分たちの考えに都合が良いように、禅譲として広めたのである。次に、いろんな本に悪女として記載されている妲己は、言われているような悪女ではないのではないかと考えた。晋の献公の妻の驪姫は自分が産んだ奚斉を王位に就けたくて献公の息子の申生、重耳、夷吾を罠にかけて殺したり国外に追い出したりした。驪姫の行為は悪意に満ちたものであるから、驪姫は悪女であるとする各種の本の記載は理解できる。これに対して、妲己を悪女とした各本の記載は、炮烙の刑を殷の紂王と共に楽しんだというだけであり、これは妲己が主導した行為ではなく、その他に妲己が悪行を主導した行為は何もないのである。勝者の史家は妲己を悪女にした方が話が面白くなると思って、妲己を悪女に仕立てたのである(第36章)。更に、鶏鳴狗盗で有名な斉の孟嘗君が、泥棒や物まねの上手な者等の幅広い人材を食客として抱えており、懐の深い人物であると各本に記載されている。しかし、これも話を面白くしたものであり、真実ではないように思われる。秦で孟嘗君一行が軟禁された時に、孟嘗君一行を助けるために、秦王に献上して秦王の蔵に一旦収められた狐白裘(こはくきゅう…狐のわきの毛で作ったもの)を秦王の愛妾に渡すために蔵から盗み出した食客を司馬遷は泥棒とみなした。その後、軟禁から解かれた孟嘗君一行が秦の東の出口である函谷関に夜明け前に到着した時に、物まねの上手な者が鶏の鳴き声をしたことで、関所に飼われていた鶏が鳴き出し、朝が来たと勘違いをした役人が関所を開いたので、孟嘗君一行は秦から無事逃れることができた(第143章)。司馬遷は、物まねの上手な者等の幅広い食客を孟嘗君は抱えていたとした。真実は、選りすぐりの食客の中に、忍者のような能力がある者や物まねの上手な者が居ただけである。秦へ連れてゆく選りすぐりの食客の中に泥棒や物まねの上手なだけの者を含める余裕などなかったはずである。
この本は、社会に出る若者が社会人として失敗することが無いようにと願って書いたものであり、後悔に先立つ前に読んでもらいたいものである。この本は更に、同一内容や類似内容をまとめて中国の歴史上の面白い事例を盛り込んで作り上げたものである。特に、歴史上の人物の心から絞り出した生の言葉を随所に散りばめてあり、必ずや読者の血となり肉となるものと信じている。
社会に出る前の若者だけでなく、既に社会に出た人でも何年か後でこの本を読み返してもらえば何か新しい発見があるはずである。更に、いろいろな種類の人に読んでもらうために、上司の立場からも部下の立場からも経営者の立場からも社会の底辺の人の立場からも書いたものであり、互いの立場を理解するための参考になるものである。この本のどれかの章が、これを読んだ人にとって、生きる際の糧になれば幸いである。将来の希望に満ちた若者が、自らの希望通りの人生を歩めるように、この本から事前に危機を避ける章を見出すことが出来れば幸いである。
第1章【楽は下に在り】
「楽は下に在り」という言葉は、何も努力をしないで世の中の一番下に身を置けば楽で良いという意味ではなく、怠け者のためのものではない。誰にでも、努力をしても思うように成果が上がらないことが必ずあり、他人との競争で後れを取ることが必ずある。そのような時に、肩の力を抜いてリラックスしてみたらと、自分を癒すことを勧めるための言葉である。また、肉体的にも精神的にも疲れた時には、無理をしないで、休み休み一歩ずつ地道に努力すれば良いと、自分自身に言い聞かせるための言葉である。
「楽は下に在り」は、「高い地位でなくても、現在の自分の地位に身をおいて、自分のあるべき姿で自分の信じることを地道に堂々と行えば良い」という意味である。「楽は下に在り」という考えで物事に対処すれば、特に自分をことさら大きく見せる必要はなくなる。この考えからすれば、「楽は下に在り」は、老子の「無為自然」という言葉に通じる。
人によっては、「無為自然」は「何もしないことである」と誤った解釈している人もいるが、老子の「無為自然」は、「作為を持たずに、物事のあるべき本質に沿って物事に無心に対処すれば、本来の道に人は導かれる」という意味である。「無為自然」に基づく全ての行動は、物事の本質や正しい考えに基づいて行えば、無理なく落ち着く所に落ち着くというものである。
「出世をしたい」とか「金持ちになりたい」とかという思いが強いと、その思いが実現しないと焦りが生じる。焦りは、往々にして致命的な失敗を招くものである。「楽は下に在り」は、焦りを生じて誤った判断や行動をしないようにするための自戒の言葉でもある。どんな人にも必ずやってくる逆境や停滞期に、心身を保養させるためや心をリラックスさせるための言葉として、「楽は下に在り」という言葉を時々思い出してもらいたい。人生、気持ちに余裕を持って生活すれば、無理をせずに、命を永らえることができる。
中国の前漢の役人である宋忠と賈誼が、著名な易者の話を聞いてその博識に驚いて、「先生のような立派な方が出世もされないで、何でこのような易者の生活をされているのでしょうか」と問いかけた。易者は「立派とは何か、出世とは何か」と反対に問いかけ、二人は「立派な人とは、出世をして高位高禄を得る人のことです」と答えた。易者は「立派な人は主体性を持って行動し、高い地位を与えられても自分が適任でないなら断り、高禄を与えられても自分に資格がないなら返上する。出世をする人は、権力の前ではへつらい、能力以上に背伸びをし、地位の上がることが立派なことだと思い込むものである。それに対して、易者は悩み多い人々の相手となって、庶民のために役立っているのである」と言った。その易者の名前は司馬季主という。宋忠と賈誼は、その数日後に顔を合わせて、「生き方が高邁であれば身は安全であるが、我々のように地位が高ければ高いほど身に危険がある。易者は占いが当たらなくても、見料を取り戻されることはないが、我々の仕事は成果が上がらないと身が危険である」と言い合ったが、二人とも役人を辞めることはなかった。その後、宋忠と賈誼の二人共が失脚した。
人によっては、身分がほどほどのところで身を引くことも考えなければならない。功成り名を遂げた人に対する戒めとして、「亢竜悔いあり」(易経)という言葉がある。昇り詰めた地位は、傲慢や奢りにつながり、時に躓いて大いに悔いることがあるというものである。運良く頂上に昇り詰めることができても、その地位から安全に身を引くまでは身の回りに危険が付きまとっている。最高位の地位は孤独なものであり、政治家はクーデターや讒言によって失脚する恐れがあり、経済人は世界の経済状況等の要因によって足下を掬われる恐れがある。高い地位にある人は「亢竜悔いあり」という言葉を肝に銘じておかなければならない。老子の言葉に「足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆うからず、巧遂げ身退くは天の道なり」とあり、我々は身の処し方を正しく判断できる人生の達人にならなければならない。
第2章【庶民のど真ん中に身を置いて人生を全うする】
若者の大半は、お金持ちになりたいとか出世をしたいとかという望みを持っている。しかし、実際には、殆んどの人はそのような望みが達成できずに、五十歳代以降になると、金持ちになりたいとか出世をしたいとかという望みは単なる希望であり、自分は金持ちになれなかったとか出世できなかったと達観するものである。余程の才能や運に恵まれない限り、大半の人はそのような望みを達成できずに一生を終えるのである。望みを達成できなかったのは、才能がなかったのか、運が無かったのか、自分にとって目標が高過ぎたのか、自分の能力に合わない分野に挑戦したのか、努力の方向性が間違っていたのか、自分が属する分野や方向性が合っているにも拘わらず単に努力不足であったのか等のいずれかに該当すると考えられる。五十歳代や六十歳代で会社等を引退した人々の中に、会社の取締役になれなかったとか大学の教授になれなかったとかと言って悲観する人を多々見かける。しかし、それらの人々の悲観は間違っているのであり、悲観するには及ばないのである。
論語の中に、「死生命あり、富貴天にあり」と言う言葉がある(第92章参照)。長生きするのも、お金持ちになるのも天命であるとの考えである。どんなに努力をしても、出世できない場合やお金持ちになれない場合がある。人生は、努力だけでは如何ともしがたいことがあると認めなければならないのである。
金持ちを羨ましく思うのは人の常である。しかし、お金持ちの人は、たまたま、その人の仕事が、お金に恵まれるような仕事であったというだけのことである。大学の教授が自分の研究に没頭していて、若いころの論文が老境になって認められてノーベル賞を得たというのも、運が良かっただけかも知れない。その反対に、ノーベル賞に値する成果を成し遂げながら、ノーベル賞の候補になる直前に寿命が尽きてしまった運が悪い人も多数居る。宇宙が1000億個以上の銀河から成り立っていることと、宇宙が膨張していることを発見して宇宙の広さを数億倍に広めたアメリカのエドウィン・ハッブルに、ノーベル賞が与えられなかったことが残念でならない。だが、天体宇宙望遠鏡に「ハッブル宇宙望遠鏡」という名前が残っているのが救いである。
金持ちになれなかったり出世しなかったりする人の割合が少ないことを考えれば、金持ちになることや出世をすることを目標としない方が良いのである。お金持ちにならなくても出世しなくても、正直に誠実に仕事をして、普通の生活ができることを良しとして、健康で平凡で楽しい一生を送ることができれば、人生それで最高だと思うべきである。
人生で恵まれなかったと思っている人に、「呻吟語」に救いの言葉が述べられている。「貧しいからといって何ら恥じることはない。恥じるのは貧しいからといって志を持たないことである。地位が低いからといって何も卑下する必要はない。卑下するべきは地位とは関係なく、能力のないことである。年を取っているからといって嘆くには及ばない。嘆くべきは、老いて虚しく生きることである。死ぬことは何も悲しいことではない。悲しむべきは死んでのち名前が忘れ去られることである」という言葉が、我々を激励してくれている。
食べ物を例にとると、野菜でも果物でも魚でも、旬のものが一番安くて一番美味しいのである。走りのものは、旬のものと比べておいしさは劣るし、しかも高価である。神様は、庶民の生活に一番必要な食べ物に、お金持ちでなくても、安くて美味しい最高の贅沢品を与えてくれているのである。庶民の平凡な日常が最高だと理解できれば、日々の人生を楽しく過ごすことができる。
若い時には、お金や高価な宝石やブランド品や高級自動車や豪華な邸宅や美男美女の配偶者を手に入れたいと誰もが願うものだが、いずれそれらは重要なものではないと分かる時がやってくる。庶民の平凡な生活の中にこそ、生きるための知恵や人生の面白さが詰まっている。心優しい人達や気の合った友達に囲まれた平凡で健康な一生が最高なのである。その事が早く分かるようになれば、その後は心の平和を得て幸せな一生を送ることができる。
第3章【命令への対応】
春秋時代に、斉が晋・燕と戦う時に、斉の将軍に司馬穣苴が任命された。司馬穣苴は将軍に任命された時に斉王に「私は低い身分の出であるので、国民の支持はなく、将兵は心服していません。だから、軍に対する押えがききません。どなたかお気に入りの重臣をお目付け役として付けて頂きたい」と願い出た。斉王は司馬穣苴の申し出はもっともなことだと思い、荘賈という寵臣を目付として任命した。
司馬穣苴は荘賈と打ち合わせをして「明日正午、軍門で落ち合いましょう」と約束した。翌日、荘賈は約束の刻限になっても約束の場所に現われない。やむなく、司馬穣苴は部隊を閲兵し、軍令を通達した。それが終わって、夕刻になった時にやっと荘賈が現れた。司馬穣苴が荘賈に「どのような理由で約束の刻限に遅れたのか」と詰問した。「すまん、すまん。重臣や親戚が見送りに来て、つい遅れてしまった」と答えた。すると司馬穣苴は「将たる者は、一旦軍に配属されて軍令を定められれば、家庭を忘れ、出撃の太鼓が鳴らされればその身を忘れて軍に馳せ参じるものである。それなのにお主は、送別の宴を楽しんで、約束の刻限を忘れて遅れたと言うのか」と言って直ちに軍法官を呼び、「約束の刻限に遅れた者は、軍法ではいかなる罪に該当するか」と問い合わせた。軍法官は「斬罪に相当します」と答えた。震え上った荘賈は使いを斉王のもとに走らせ、斉王に助けを求めた。だが司馬穣苴は使いが戻る前に荘賈を斬罪にし、そのことを全軍に知らせた。兵士達はそのことを聞いて怖れおののいた。これによって、全軍はピリッと引き締まった。その後、司馬穣苴は軍の隅々まで自ら点検し、細かく指示を出した。司馬穣苴は傷ついて弱った者を保護し、兵士と同じ食糧をとった。三日後にあらためて軍を点検すると、病人までが軍に志願してきた。司馬穣苴の軍が引き締まったことを伝え聞いた晋・燕の両軍は恐れをなして撤退した。司馬穣苴は戦わずして勝利を収めた。司馬穣苴は孫子の兵法を基に、戦わずに勝つことを基本とした「司馬法」という兵法書を作った。
司馬穣苴は、意図してお目付け役を付けてもらい、そのお目付け役が遅れてやって来ることがある程度分かっていた(軍にお目付け役等として派遣される人は、軍に入る時は近しい人と宴を張るのが一般的である)としたら、お目付け役を犠牲にして、兵士達に恐怖心を与えて、軍の規律を守らせようとしたのではないか。各種の本には、司馬穣苴は「厳」と「仁」を兵士に示すことで、兵士達のやる気を引き出したとあるが、自分の厳しさを周りに示すことで、軍を掌握しようと考えたのではないかと思われる。
司馬穣苴と同様に、命令を徹底することで自分の厳しさや能力を他人に見せつけた例がある。中国春秋時代の兵法家の孫武が、自国の斉で認められず呉に行った。呉王闔廬に謁見して、自分が著した「孫子兵法」を献上した。それを読んだ闔廬は孫武の能力を試そうと「汝の兵法書は読んでよく分かった。汝の兵法を我が宮廷の婦女子で試すことができるか」と意地悪な質問をしてきた。「もちろんです」と孫武は答えた。闔廬は宮中の美女百八十人を集め「これらを戦士として訓練させよ」と命じた。孫武は、女官達を二手に分け、闔廬が寵愛している二人の美人を隊長に任命し、各隊の全員に「お前たちは、胸、左右の手、背中を知っているか」言った。女官達は、これからどんな遊びが始まるのかと楽しそうに「知っていまーす」と返事をした。孫武は「前といったら胸を見ろ、左といったら左手を、右といったら右手を、後といったら背中を見ろ。わかったな」と言った。女官達は全員「はーい」と楽しそうに答えた。孫武は大斧を持って来させ、先程と同じことを繰り返し説明した。そして、鼓を打ち鳴らして、「右」と号令をかけた。彼女達は、遊びだと思っているので、おかしくて一斉に笑いころげた。孫武は、「命令が徹底しない。これは隊長の責任である」と言い、何度も同じ説明をした。そして再び鼓を鳴らして「左」と号令をかけた。女官達は、真面目くさって一人で声を出している孫武がおかしくて笑い転げていた。孫武は厳粛な顔をして「命令が徹底していない。これは隊長の責任である。再三警告したにも拘わらず命令に従わないのは、将と兵の罪である」と言って、二人の隊長を縛って、首を切ろうとした。高台からこの様子を見ていた闔廬は慌てて「分かった。分かった。将軍が兵を訓練できるのは良く分かった。二人が居なくなったら、わしは飯も喉に通らぬ。許してくれ」と叫んだ。孫武は「私は既に将軍に任命されている。将軍たる者、軍にあっては、君主の命令でも聞く必要はない」と言って、二人の隊長の首を刎ね、新しい隊長を任命した。再び鼓を打つと、女官達は怯えきり右、左、前、後等の動作は整然たるものであった。孫武は「兵士達の訓練は整いました。王様、どうぞお試し下さい。どんな命令を出されても、王様の命令通りに従います」と言った。闔廬は二人の愛人を失って、意気消沈したが、孫武の才能を認めて孫武を将軍に採用した。
この話をいろいろな本で読むたびに、闔廬が寵愛していた二人の美女がかわいそうになる。闔廬と孫武は、女官達を軍隊とみなすことは二人の間で了解していたが、女官達はただの遊びとしてしか考えていなかった。それなのに、女官達は男同士の真剣勝負の場に駆り出されて、とばっちりを食ったのである。当時は、男性から見て女性は物と同じと考えられていた。だから、闔廬が寵愛していた二人の美女の首を孫武は軽々と刎ねたのである。更に、闔廬が孫武の能力を試すのに、孫武を試すのに意地悪をして女官達を材料にした。そのことに、孫武は闔廬に少し立腹して、正当に仕返しをする方法を考えたのかも知れない。王から指揮権を任せられた将軍は、戦場に出たら、状況がどう変わるかも知れないので、王の命令を聞かなくても良いのである。戦場では、将軍の命令が優先されるのである。
間違った命令に対して、正しい判断を貫いて、命令を拒否した例がある。日本の福島第一原子力発電所が爆発した時に、原子炉に冷却水を導入すべきことは専門家なら誰でも分かっていた。しかし、冷却水導入用のポンプを稼働する電源が壊れて真水を導入できなかった。原子炉を冷やすためには、真水を導入するポンプを作動することができない場合には海水を投入するしか手段がないので原子力発電所の所長は海水を投入しようと判断した。海水を投入すると原子炉の各種部品が腐食して将来使いものにならなくなるとして、政府や東京電力の上層部は、原子炉への海水の投入を拒否した。当時の原子力発電所の所長は、大量の水を投入しないと原子炉が爆発すると考え、政府や会社の上層部の「海水は投入するな」という東京からの指示に対し、テレビ電話で東京に「指示の通り、海水の投入を停止します」と答えた。しかし、所長は部下達に「テレビ電話では東京の上層部に、私は『海水の投入を停止しろ』と君達に命令はするが、君達は海水の投入を続けろ」と言った。所長や部下達がその時の状況に応じて、海水の投入を続けるという一番適切な処理を行ったので、原子炉が爆発するという大惨事を避けることができた。事件は本部で起きているのではなくて、現場で起きているのである。現場の能力のある人が一番正しい判断を下せるのである。
春秋時代の中国でも、戦の指揮権を一旦任されたら、将軍は王の命令を聞かなくても良いのである。現代でも、場合によっては現場の判断で、上層部の命令を聞かなくてもよいシステムを作るべきである。新しい組織を初めて率いて組織を動かす場合、司馬穣苴が用いた方法は現代では通用しないが、その方法を参考にして、組織をまとめる別の方法を考えなければならない。
第4章【君は悠然と南山を見ているか】
陶淵明(5世紀、東晋時代)の有名な「飲酒」という漢詩に「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」という一節がある。ここに、「飲酒」の全文を記載する。
『廬を結んで人境に在り
而も車馬の喧しき無し
何ぞよく然ると
心遠ければ地自ずから偏なり
菊を采る東籬の下
悠然として南山を見る
山気日夕に佳なり
飛鳥相与帰る
この中に真意あり 弁ぜんと欲すれどすでに言を忘る』
「庵を構えて人里の境に住んでいるが、ここには訪問客の車馬の騒がしさはない。どうしてそのようなことができるのかと人に尋ねられる。心が遠く俗界を離れると、住む土地も自然と辺鄙な場所になるのだ。
菊の花を家の東のまがきのあたりで手折りつつ、悠然とした気持ちで南山(盧山)を眺める。山のたたずまいは、夕暮れに特に素晴らしく、飛ぶ鳥は連れ立って山のねぐらに帰ってゆく。この中にこそ世の中の真実がある。それを説明しようとしても、もはや表現すべき言葉を忘れてしまう」……「漢詩漢文小百科より」
陶淵明は、上司にへつらうのを潔しとせず、役所を辞めて故郷に帰り、その後、役人勤めをすることなく、悠々とした人生を送った。陶淵明は、幸せな気持ちで毎日悠然と南山を眺めていたのだろう。大抵の人は、陶淵明の生き方を目標にしたいと思ってはいるが、家族の生活を守るために心ならずも組織に属し、時には嫌な上司に仕えなければならない。殆どの人は、嫌な上司への怒りを押し殺して、家族の生活を守っているのである。
私は、幼い頃は田舎で四季を感じる生活を送っていたが、社会人となって故郷を離れて都会に住んでからも、季節を感じる生活をしたいと望んでいた。
春には、花吹雪を浴びつつ、友と語り合いながらほろ酔い気分で夜の花街道をさまよい歩きたい。
梅雨の季節には、家を包み込む雨音を聞きながら、雨に煙る風景を窓から飽きるまで眺めていたい。
夏の昼間には、夏の暑さを感じつつ蝉時雨を浴びながら森の中をさまよい歩きたい。また、夏の夕暮には、浜辺で波の音を聴きつつ、沈みゆく夕日を眺めながら、夜の闇に徐々に身を包まれてゆきたい。
秋には、居間のテーブルの上に酒と肴と月見団子を置き、庭の戸を開け放ち、庭越しの山の端から昇る月を、虫の音を聞きながら眺めていたい。
冬には、雪の日に炬燵に入りながら、時折響く列車の汽笛を聞きながら、雪に埋もれゆく野山の風景をずっと眺めていたい。
現実には、陶淵明の生き方に達することは誰にでも簡単にできるものではない。しかし、自分の身近に、自分なりの南山を見つけて、悠然として自然を眺めてみる時間を作ってみたいと思っている。日々の風景の中に一瞬身を置いて、生きている幸福を感じていたい。良い風景を眺められる環境に身を置くだけでなく、心地よい音色に包まれる環境に身を置くのも、望ましい生き方だと思う。
枕草子(清少納言の随筆)の「香炉峰の雪」の項は、漢詩「重題」(白居易(白楽天))の一節「遺愛寺(いあいじ…中国江西省の盧山にあった)の鐘は枕を欹てて聞き、香炉峰の雪は簾を掲げて看る」に基づいたものである。枕草子の「香炉峰の雪」は、「雪がたいそう降った日の朝に、御格子(雨戸)を下ろしたまま、女房達が火鉢に火をおこしながら話をしていると、中宮様が来られて『清少納言よ、香炉峰の雪とはどんなものであろうか』とおっしゃった。清少納言は即座に御格子(雨戸)を開けて簾を高く掲げたところ、中宮様は清少納言の気の利いた行為ににっこりされました。女房達は『白居易の漢詩は誰でも知っているし、口ずさんだりしているけれど、とっさの行動に移せるとは思いもよらなかった。中宮様に仕える人は、こうでなければならない』と言い合った」という話である。平安時代の宮廷では、白居易や杜甫や李白等の漢詩は上流階級の教養として広く読まれていたのである。枕草子の「香炉峰の雪」を読んだとき、「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞く」という言葉が頭の片隅に残り、その当時から遺愛寺の鐘の音はどんな音だったのだろうとずっと気になっていた。
大学卒業時の一人旅で、三月末の晴れた日の夕方に大分県の湯布院温泉に到着した時に、西洋風の鐘の音が町全体に流れてきた。自由な学生生活が終わる時に、心に沁みる鐘の音を聞いて、青春時代が終わったのだと感傷に浸った。その時に、社会人になっても、このような心に沁みる美しい音色に包まれながら毎日を過ごせたらどんなに良い人生になるだろうと思った。現代において、若者達が到る所でヘッドホンをして音楽を聞いて楽しんでいる姿を見ると、自由な時間や場所で音楽を楽しむことができる機器を持てる時代に生まれたことを、現代の若者は感謝すべきである。
白居易が聞いた遺愛寺の鐘の音は、寒く澄みきった地域(江西省の盧山)に響いているものであり、名誉名声から解放された地で、白居易が幸せな心境で鐘の音を聞いている情景が目に浮かぶ。漢詩「重題」の終わりは、「心身共に安らかでいれられる地こそ安住の地であり、故郷は長安の地だけとは限らない」という一節で終わっていることから、白居易の人生の終わりは心安らかであったことにほっとしている。白居易にとって、遺愛寺の鐘の音は心に沁み入る音であって心を安らかにする音であったに違いない。古い寺が多く存在する京都等の古都では、時刻を知らせる寺の鐘の音が町中を覆って流れてくる。古都の鐘の音は、昔から古都の家並も人々も包み込んで、鐘を聞く人々の心を和ませてくれるものである。遺愛寺の鐘の音もこのように優しく人々の身体を包んでくれるものであったのだろう。
一人旅の終わりに、湯布院から佐賀県の唐津に移動して、唐津の民宿に泊まった。その時に、民宿にまで響いてくる潮騒が耳に心地よく、その潮騒に包まれながら一人旅の最後の夜の眠りについた。心地よい音を毎日聞きながら過ごす人生も良いものであると思った。ただ、音が大きすぎる距離に身を置くとストレスの原因になることもあり、音源から一定の距離を保って、心地よい音を聞ける場所に身を置きたいものである。
第5章【天道、是非を語らず】
司馬遷の史記の伯夷列伝に、「天道是か非か」という言葉がある。中国の歴史は、堯舜禹(ぎょう、しゅん、う)の三帝以降、夏(禹が始祖)、殷(商)(湯王が始祖)、周(武王が始祖)、秦、前漢と王朝が続くが、伯夷、淑斉(はくい、しゅくせい)の事件は、殷(商)から周への王朝の転換期の出来事である。後に周王朝を開く武王(発)が殷(商)の紂王を征伐しようと軍を進めていた時に、孤竹国の国王の二人の息子である伯夷・淑斉が、武王の馬の前に立ちはだかって「未だ王朝は改まっておらず、殷の臣下である周の武王がその君主に背くのは、天の定めに反する」と言った。その時、武王の部下が伯夷・淑斉を切り殺そうとしたが、武王の軍師である太公望呂尚は「彼等は義人である」と言って、伯夷・淑斉の命を助けた。その後、武王は殷を滅ぼし、周王朝を打ち立てた(紀元前11世紀)。伯夷・淑斉は、天の道に背いた周の粟を食まないと決心して首陽山に居を定め、蕨等で命脈を保っていたが、結局、伯夷・淑斉は飢餓によって命を落とした。これとは反対に、約五千人の部下を持ち強盗や殺人を繰り返した盗跖という盗賊(孔子とほぼ同時代(紀元前6世紀~紀元前5世紀)の人間)は、天寿を全うしたのである。
伯夷・淑斉のような義人が餓死をして、盗跖のような悪人が天寿を全うしたことについて、司馬遷は、天は義人の味方をせずに悪人の見方をするのか、天道は正しくあるべきなのに、これが天のすべきことなのかと、「天道是か非か」という言葉を発して、天の在り様に不平を漏らしたのである。「天道是か非か」という言葉に最初に接した時に、この言葉に言い知れない感動と衝撃を受けたが、何度か伯夷・淑斉の行動とこの言葉に接してくると、どこか腑に落ちない所があると感じるようになった。自分が年齢を重ねてきて、「天道是か非か」という言葉のどこが腑に落ちなかったのかやっと言葉に出せるようになった。
司馬遷は、匈奴に投降した李陵(第98章参照)の弁護をしたために、武帝(前漢の七代目皇帝、紀元前2世紀~紀元前1世紀)の怒りに触れ、宮刑(腐刑…去勢)という刑罰を受けた。司馬遷は、李陵を弁護した自分の考えが正しいのに、何で自分に天の助けがなかったのか、何故、天は正しい者(伯夷・淑斉)の味方になってくれなかったのか、と不平不満を天に向かって発したのである。「天道是か非か」という言葉は、伯夷・淑斉への同情と共に、自分への天の仕打ちに対する憤りも入り混じって発せられたのであった。
司馬遷には天の救いがあって欲しかった。しかし、天の救いがなかったために、司馬遷は発奮して人類の遺産ともいえる史記を長年にかかって完成させたことを思えば、天の救いが司馬遷に無かったことが史記の完成に寄与したことになる。伯夷・淑斉の餓死に対しては、天が救いの手を差し伸べる必要があるのかどうかについて、私はずっと疑問を感じていた。伯夷・淑斉は教養豊かな王族の生まれであり、自分が住み付いた地域の民衆の役に立つ仕事をするか、民衆を教育する仕事をするか、民衆を何らかの形で救済する仕事をすれば、何も飢えることがなく、民衆から尊敬されて天寿を全うすることができたはずである。殷(商)王朝が滅んで周王朝になったことが耐えられないとして餓死したのなら、自ら望んで餓死を選んだことになる。そうだとすれば、生きるという意欲を無くしたことに他ならないのではないか。例え、世の中の政権が殷(商)から周に代わっても、民衆のためになる行為は数え切れない程あったはずである。政権が変わったとしても、自分達の生きる目標が民衆の教育や救済にあったなら、そして民衆と共に生きるという目標があったなら、伯夷・淑斉は自ら飢えることは無かったはずであり、民衆は伯夷・淑斉を飢えさせなかったはずである。伯夷・淑斉は生きるとういう意欲を無くしたか、人の世との付き合いを自ら断ったかのいずれかであったのではないか。伯夷・淑斉は自ら生きるということを放棄したことから、天は、伯夷・淑斉への救いの手を差し伸べなかったのではないか。伯夷・淑斉は司馬遷が考えるほど天からの歓心の対象にはならなかったのではないか。
一方、盗跖は、生きる意欲が強く、彼が生きていた時代の彼が住んでいた地域の官憲に悪知恵が勝っていたのである。生きていた時代と地域とが、盗跖に幸運をもたらしたのである。彼が住んでいた地域の政権の権威が確立していた時代だったら、盗跖は世の秩序を乱すものとして、直ちに官憲に捕えられていたはずである。乱れた時代で権力の及ばない地域に住んでいたからこそ、それを見越して盗跖は強盗や殺人を繰り返したのである。どの時代でも悪人の末路は哀れなものである。たまたま盗跖のみが天寿を全うしただけであり、盗跖がその時代を生き延びる術を運良く心得ていたからに過ぎない。しかし、盗跖が天寿を全うしたとしても、常に部下に対して恐怖政治を敷いており、部下からいつ殺されるか分らないという不安にいつも苛まれていたのではないか。不安に苛まれた一生は、不幸の一生であり、天寿を全うしたとしても、不安と不幸の連続であり、これも地獄の一生ではなかったかと思われる。天は、伯夷・淑斉を擁護しなかったばかりか、盗跖にも鉄槌を下さなかった。伯夷・淑斉に対しても盗跖に対しても、天がわざわざ手を差し伸べるべきものではない、と天は判断したのではないか。
現代でも、伯夷・淑斉のように、一見正しいことのように聞こえる主張を貫く人が多数居る。一方の面からすれば正しいかもしれないが、他方の面からみれば正しくないものもある。一見正しそうなことを言う人は、言葉や主張だけは立派であるが、大抵の人は本当は力の無い人で、行動力の無い人が多い。我々凡人は、カッコの良い言葉を発することなく、地に足がついた行動を取ることに努めたいものである。また、天は、正しい者に、常に味方をしてくれるとは限らないことを肝に銘じておくべきである。
中国の古典である老子、荘子、大学、中庸、論語、孟子、荀子、墨子、韓非子、孫子、史記、十八史略、菜根譚、呻吟語等の本の中には、生きるための糧となる内容や参考になる言葉が多数含まれていた。同じ内容や類似の内容やそれに関連する言葉を関連づけて一連に読みたいと思ったが、関連する内容を横断してまとめた本はなかった。このため、各種の本の同じ内容や類似内容や関連する言葉をまとめて、失敗しないための知恵や騙されないための知恵や面白い事例を組み合わせることで、興味深いストーリーを創り上げました。
史記等の中国の古典のいろいろな本には、真実とは異なると思われる内容を、噂のまま真実として記載した所が幾つかあった。真実とは異なると思われる箇所を真実と思われる解釈をしてこの本で示してみた。先ず、堯舜禹の禅譲は、ある本に舜が堯を捕えて監禁したとあることから、言われているような理想的な禅譲ではないのではないかと思った。堯の息子の丹朱も舜の息子の商均も出来が悪く、帝位を自分の息子に移譲したら帝国が滅びるので、自分の息子ではなくて他人に帝位を移譲せざるを得なかったのである(第69章)。帝位の移譲を後世の儒者が自分たちの考えに都合が良いように、禅譲として広めたのである。次に、いろんな本に悪女として記載されている妲己は、言われているような悪女ではないのではないかと考えた。晋の献公の妻の驪姫は自分が産んだ奚斉を王位に就けたくて献公の息子の申生、重耳、夷吾を罠にかけて殺したり国外に追い出したりした。驪姫の行為は悪意に満ちたものであるから、驪姫は悪女であるとする各種の本の記載は理解できる。これに対して、妲己を悪女とした各本の記載は、炮烙の刑を殷の紂王と共に楽しんだというだけであり、これは妲己が主導した行為ではなく、その他に妲己が悪行を主導した行為は何もないのである。勝者の史家は妲己を悪女にした方が話が面白くなると思って、妲己を悪女に仕立てたのである(第36章)。更に、鶏鳴狗盗で有名な斉の孟嘗君が、泥棒や物まねの上手な者等の幅広い人材を食客として抱えており、懐の深い人物であると各本に記載されている。しかし、これも話を面白くしたものであり、真実ではないように思われる。秦で孟嘗君一行が軟禁された時に、孟嘗君一行を助けるために、秦王に献上して秦王の蔵に一旦収められた狐白裘(こはくきゅう…狐のわきの毛で作ったもの)を秦王の愛妾に渡すために蔵から盗み出した食客を司馬遷は泥棒とみなした。その後、軟禁から解かれた孟嘗君一行が秦の東の出口である函谷関に夜明け前に到着した時に、物まねの上手な者が鶏の鳴き声をしたことで、関所に飼われていた鶏が鳴き出し、朝が来たと勘違いをした役人が関所を開いたので、孟嘗君一行は秦から無事逃れることができた(第143章)。司馬遷は、物まねの上手な者等の幅広い食客を孟嘗君は抱えていたとした。真実は、選りすぐりの食客の中に、忍者のような能力がある者や物まねの上手な者が居ただけである。秦へ連れてゆく選りすぐりの食客の中に泥棒や物まねの上手なだけの者を含める余裕などなかったはずである。
この本は、社会に出る若者が社会人として失敗することが無いようにと願って書いたものであり、後悔に先立つ前に読んでもらいたいものである。この本は更に、同一内容や類似内容をまとめて中国の歴史上の面白い事例を盛り込んで作り上げたものである。特に、歴史上の人物の心から絞り出した生の言葉を随所に散りばめてあり、必ずや読者の血となり肉となるものと信じている。
社会に出る前の若者だけでなく、既に社会に出た人でも何年か後でこの本を読み返してもらえば何か新しい発見があるはずである。更に、いろいろな種類の人に読んでもらうために、上司の立場からも部下の立場からも経営者の立場からも社会の底辺の人の立場からも書いたものであり、互いの立場を理解するための参考になるものである。この本のどれかの章が、これを読んだ人にとって、生きる際の糧になれば幸いである。将来の希望に満ちた若者が、自らの希望通りの人生を歩めるように、この本から事前に危機を避ける章を見出すことが出来れば幸いである。