婚約破棄をしてくださらないこと?
私は周囲をぐるりと見回した!
正しくはプールの中からプールサイドを囲んで立つ人たちを見上げて、だ。
私は恋敵をプールで殺しかけた事を弾劾されているのだ。
殺気だった視線は私を魔女だと裏切り者だと断罪しているが、
ええ、それでよくてよ、
これで私の道は開けるのだ。
――生まれ変わった先であなたを待っております!
――絶対にこの先で会おう!
遠い過去の無理矢理に終わらせられた恋物語は、他の国で、それまた私達の孫子の代ぐらいにまで持ち越されたらしい。
いいえ、他の国は違うわね。
私達の国を滅ぼしたのがこの国なのだから。
世界は皮肉一杯で私を甦らせたのだ。
ええ、私は生まれ変わった。
単なる一市民で占領時に散らされた命が、リゼット・ミレイという名の侵略してきた国の侯爵家の娘として生まれ変わったのだ。
ただし、ピンクブラウンの不思議な色合いの髪や、自慢だった青い瞳は死ぬ前の前世と一緒だ。
笑えるのが、顔立ちもあの前世と一緒なのだ。
だから私は間違えた。
前世で恋したあの人と同じ顔立ちの彼、アーシェス王子を一目見て彼の生まれ変わりだと思い込んで、私は頑張って許嫁の立場を手に入れたのである。
ところが、違うの。
アーシェスに記憶が無いと気が付いた時点で、彼は違うって気が付けばよかった。
でも、私だって、五つの時に湖に落ちて思い出したのよ。
ああ、死にそうだってその時によ。
走馬灯で過去が見えるって言うでしょう。
だから、同じ顔をしたアーシェス王子を前世の恋人だと思い込んでいた私を責められないでしょう。
そうでしょう。
私の心の中の葛藤など知らないだろうアーシェスは、かなりの怒りを込めた瞳で私を見据えた。
「君は何を考えているのだ。そのような事をしなくとも、思い詰めていたならば私に相談をしてくれればよかったのに!殺そうとまでするなんて!」
私は顎をツンと上げた。
私は前世からこの国の人間ではないのだから、私達を滅ぼしたあなた方に二度と膝を屈しないという心意気で、だ。
「反論は、あるいは自己弁護はないのか?」
前世のあの人と同じ顔、アンティックゴールドに輝く金髪にエメラルドグリーンの瞳。
しかし、私を見つめる視線は恋ではなく裏切り者に対する、それ、でしかない。
私はアーシェスが学院に進学してから心惹かれることとなった美少女、ミュゼリアを殺しかけた罪を問われている。
証拠はない。
目撃証言どころか、状況証拠だけの弾劾裁判だ。
うん、でも、殺したいと思ったから、いいかな。
――――――――
発端はミュゼリアだけど、原因はミュゼリアの父ね。
とある村で酔っぱらった勢いで男の人を撃ち殺したらしいわ。
無残にも殺された人は強盗犯にされて、伯爵様は正当防衛でお咎めなし。
それどころか、遺族に恩を着せていた。
どうして私が知っているのか、というと、ミュゼリアは少しお馬鹿なの。
トイレで取り巻きに大声で家の事情を話しちゃだめよ。
取り巻き無しでトイレに入っている私みたいな女がいるのだもの。
「いいわよ!私には何でも言うことを聞く奴隷がいるの。優しいお父様を殺そうとした男の家族を保護して差し上げていますもの。彼等は領地から出れないし、何だって言うことを聞くのよ。」
その時は普通に犯罪者の家族でもそんな扱いを受けるなんてと、それだけだったわ。
それで、義憤に駆られた私は学園を抜け出して、探偵事務所を目指していた。
探偵をどうして知っていたかですって。
その探偵は有名で、時々新聞に名前が載るのよ。
ジョッシュ・アービング。
侯爵令嬢の私ならば依頼料も払えるかと、ただしお忍びで彼の事務所のドアを叩いていたの。
「お願い。不幸な家族を助けたいの!」
探偵というには若すぎる男性は、茶色い髪に茶色の瞳をしていた。
彼の髪は長くもさもさで目元にも毛先が掛かって煩いくらいだ。
そして、探偵と言う家業をしているからか、人に殴られてそのままなのか、鼻筋がすこし歪んでいた。
それでも、全体的にハンサムと言ってよく、少しアーシェスに似ていた。
いや、愛したブリューにか?
そして私の前世への記憶を掻き立てた探偵は、名乗る前に私を抱き締めた。
「ああ!ミカ!君はミカだ!」
私は驚いただけでなく、全部を受け入れて彼を抱き締め返していた。
「ブ、ブリュー。あなたなの?」
でも、やることはやらねば。
ジョッシュという名になっていたブリューは、私の願い通りに不幸な一家を救っただけでなく彼等の亡くなった父親であり夫の名誉まで回復してくれた。
伯爵の殺人を殺人と詳らかにし、伯爵家に囲われていた哀れな一家を慰謝料付きで新天地へと逃がしてくれたのである。
ミュゼリアの父は刑務所には入らなかった。
下々の者からの意趣返しにプライドの高い彼は激高し、憤怒のまま脳の血管が切れたのだと後日聞いた。
そして何事もなくミュゼリアの兄が伯爵を継ぎ、ミュゼリアは変わらずに学園の花となり、いや、父親を失って傷心な風情を纏い、アーシェスの恋心をさらに掻き立てた。
――――――――
この時点では、よし、アーシェスを落としてちょうだい、だ。
王子として誰にでも公平であろうとする姿や心意気は尊敬すべきところだ。
だが、私の心にはジョッシュがいる。
人を愛して思う事は、相手がどんな悪党でも、愛してしまったら愛し続けられる事こそ幸せだという事だ。
だから、たぶん、ろくでもない女でも、アーシェスが愛してしまったのならば、ミュゼリアと結ばれる事こそ彼の幸せでは無いのか?
そんなこんなで停滞した世界。
私が悩んでいたところ、世界のほころびは勝手にやって来た。
ジョッシュという探偵を雇い、伯爵家にダメージを与えたのが私だとミュゼリアに知られたのだ。
だが、私をその時点で弾劾するには、伯爵家の闇の方が大きすぎる。
また、ミュゼリアはちょっとお馬鹿だった。
私からいじめを受け、そして、終には殺されかけたと騒ぐことにしたらしい。
プールサイドに私を呼び出したのは、私にプールに突き落とされて殺されかけた!というシチェーションを作るためだったらしい。
ただし、私とプールに落ちる、までは台本通りなのに、彼女は私への憎しみが大きすぎ、途中で本気で私をプールに沈めて殺そうとしてきたのだ。
もみ合う二人。
ミュゼリアが用意していた証人がプールサイドに駆け付けたその時、私の右腕はとても美しい曲線を描いてミュゼリアの顎にぶち当たった。
気絶した彼女はプールに浮かび、私は、あら、まあ、見られちゃいましたわね、だ。
そうして今の弾劾裁判なのだが、私はアーシェスにお世話になりましたと言っていた。
「え、どうして!君はミュゼリアを殺そうとしたわけではないだろう!どうして!」
おや、引き留めてくるとは、アーシェスは立派な王子だったのだろうか。
けれど、私はすでにミカでしかない。
よいしょと、濡れて重たい体をなんとかプールから上がらせると、私を弾劾したくてたまらないその他大勢の中に立った。
まっすぐに立った。
さあ、退場するのだ。
そして、ただのミカに戻って、ブリューと大昔に語り合ったようなささやかだが幸せだろう家庭を作ろう。
私は優しく公正であろうとした王子に腰をかがめて敬意を表すと、そのまま身を翻して寮の部屋へ戻ろうと一歩足を出した。
荷物を纏めて学園を退学し、親からは勘当も頂こう。
「下がれ!皆の者、下がれ!おい、お前!さっさとミュゼリア伯爵令嬢を医務室に運んで行け!これは行き過ぎた女子の戯れだ!」
「え?」
私の足は止まり、私はジョッシュの声に振り向いた。
世界は観客を失った。
私を弾劾していたはずの周囲の人混みは、王子の命令によってミュゼリアを担ぎ上げるとほうほうの体で消えた。
そして、私と二人だけ、王子と婚約者は見つめ合ったまま固まった。
「アーシェス王子。」
「ミカ!」
「え?」
私の目の前には立つのはアーシェス王子、いいえ、ジョッシュでありブリューがそこに立っていた。
いいえ、そんなはずは無い!
「君が襲われたところから全員が見ていたから心配しなくていい。」
「どうして!いえ、どういうこと!」
「どうしてって、ミュゼリアはいじめで俺の親友の妹を自殺に追い込んでいたからね。だから、同じ学園になったからと監視していたんだ。」
え、アーシェスは恋心では無くて、ミュゼリアを監視していただけ?
「でも、びっくりした。愛する君が記憶を取り戻してくれないと落ち込んでいたのに、俺を切り捨てる算段までしていたなんて。本当に傷ついたよ。君がブリューしか見ていないと喜ぶべきか、王子という肩書まであるのに見向きもされない現在の自分を嘆くべきなのか。」
そこまで言って、私の王子様はしゃがみ込んだ。
どどーんと地の底まで落ち込んだように。
「君はジョッシュと駆け落ちするつもりだったんだね。俺を完全に捨てて。」
「あなたはジョッシュに化けていたって、こと?」
王子はこくんと頷いた。
「学園でいっしょなのに、君はおしゃべりしてくれない。」
私は両手で顔を覆っていた。
前世の人が婚約者でハッピーエンドな筈なのに、彼の私達を盛り上げようと考えた行動のお陰か、私の中での前世の恋物語が昇華されちゃっていると気が付いたからだ。
私はブリューでなく、ジョッシュという男性と駆け落ちしたかったのだ。
「あなたは本当にジョッシュだったのね。顔は違うのに。」
「……鼻の形で人は意外と誤魔化せるんだよ。」
「確かに。あなたに似ているなって、ああ、思ったのに、私はしっかり騙された。前世の顔とそっくりになるって思い込みのせいね。だからあなた方が似ていても不審に思わなかった。ああ、なんてこと。」
私の肩に何かが乗せられた。
顔から手を外してみてみれば、アーシェスが私の肩に彼の上着をかけてくれたところだった。
「まあ、ありがとう。」
「いいよ。風邪をひくから、急いで寮に戻ろう。」
「ミュゼリアは?これからどうなるの?」
アーシェスは、さあ?といって肩をすくめた。
「俺は君の事しか考えられないから。」
「まあ。」
困ったわ。
私の中で今はそんなに恋心は燃え立っていないの。
本当にどうしましょう。