第35話 セパール
「君は、この世界の外に出たいと思ったことはないの?」
彼は、私に向かってそう尋ねて来た。純朴な瞳で尋ねられたその質問に、私は静かに首を横に振って答える。
「どうして?この世界も確かに素敵だ。でも、海の向こうにも素敵な世界が広がっている。それを見たいとは思わないのかい?」
彼の質問で、初めて気づいた。自分は、この世界を超えることなど、考えていないことに。
彼は、自分をじっと見て答えを待っている。私は悩みながらも、心にある素直な思いを告げた。
「このままでいい。このまま……皆と、貴方がいてくれたらそれで」
彼は、私の言葉に対し「嬉しい事言ってくれるね」とはにかんだ。しかし、寂しそうに続けた。
「でも、それは少し寂しいよ」
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「わぁ、ここがセパール……!!」
獣道を抜けてその光景を目撃した際、サラは歓喜の声をあげた。
「皆見て!すごい綺麗だよ……!!」
そう言って上を向くと、リュオンとディアンが疲れ果てていた。彼らは今、サラに乗っている。
「ご、ごめんきつかった!?」
彼らは二日前、南大陸の出入り口ガイゼンという国についた。ルゴーとは仕事があるため別れ、彼らは陸道でなく、山道を行き悪魔バフォメットが契約しているというセパールを目指すことにしたのだが……。
「い、いえ……むしろサラ様が疲れたのでは……」
最初は二人ともサラに負担がかかるので遠慮したのだが、サラはその方が早く着くといい、二人を乗せる形となった。
「いえ!久しぶりに気持ちよく走れたので満足です!でもリュオンごめん、傷口が痛い?」
リュオンはまだ、完全に怪我が治っていない。彼は今も、腕や腹部に包帯を巻いている。
「いや、大丈夫だ……。傷口はもう大分ふさがっている。しかし、確かに大きいな。セパールは……」
リュオンは明らかに乗り酔いしているのを隠しながらそう言う。
彼らが見ているのは、セパールの一部分ではあるが、その一部だけ見ても土地が広がっていて、雄大な国だった。石を基調とした建物が並んでいて、その建物の所々にこの国のだろう緑の国旗が掲げられている。屋台がいくつも出ていて、人が皆外に出ているようだ。
「かなり賑わってますね。祭りでもしてるのでしょうか?」
「行ってみましょう!」
「え?サラちょっと待って……!!」
悲鳴が山の中でこだまし、消えていった。
「エマ、元気出しなよ!ほら、アイスだよアイス!珍しい果物のアイスらしい、ほら見てこのクリーム色!ああ美味しそう」
「いらない」
トラスはエマの低い声に、すすすと後ずさる。手にもっていたアイスは、シアンにとられてしまった。エマは路地のベンチに座り、今にもキノコが生えるのではないかと心配になる程ジメジメしている。
「機嫌まだ直らないのですか、エマ殿は」
「落ち込むことないって。エマは美人だよ?ちょっと老け顔なだけで」
シアンはアイスを食べながらそう言うと、エマに首ねっこを掴まれる。
「誰が老け顔ですってぇ!?」
「あ、ごめん、言葉のあやで」
「え、エマ落ち着いて」
「きゃー!!」
遠くで、叫び声が聞こえた。
「獣だ!獣が来たぞ!!」
人々は叫びながら、逃げたり興味本位で騒ぎの方に行こうとする。
「……獣?」
エマはシアンから手を離し、騒ぎの方に慌てて駆けていく。
人ごみをかき分け進んでいくと、誰もいない広場の真ん中に黒い獣がいた。人々は広場の周りにいて、獣の様子を見ている。
「化け物だ、誰か退治しろ」
「殺されたらどうするんだ」
「……あれは……」
それまで獣の上にのっていた何かが突然起き上がる。人々は驚きの声をあげる中、エマだけはその者の名を呼んだ。
「リュオン様!!」
その声に、意識が朦朧としていたリュオンは目を見開き、エマを見る。
「……君は、ローザ様のー……」
「早く、衛兵様、こちらです!」
その声を聞き、エマは慌てて「こっちへ」と右を示す。
サラがそちらに向かうと、その方向にいた人々は悲鳴をあげ、逃げ惑う。道の先に待っていたエマに連れられ細い道に入り、やがて一つの家に入った。エマは三人を中に入れると、慌ててドアを閉める。
「ここはー……」
サラがキョロキョロしながらそう言う。一階建ての作りで、奥にベットが見える。
「私たちが借りている部屋です」
「衛兵は?」
「大丈夫です。今頃トラスが他の道に上手く誘導してますわ」
「有難うございます。えーと……」
サラは、困った表情を浮かべる。それにエマも慌てて気づき、優雅に礼をする。彼女のフード付きのえんじ色のマントが、軽やかに揺れた。
「すみません、ご挨拶が遅れました。私はローザ様付きの従者、エマと申します」
濃茶色の髪を後ろに纏めて、瞳はつり目の、意思が真っ直ぐな印象の女性だ。確かはじめてローザ様に会った時にいらっしゃった方だ、とサラは思い出す。
「エマ様……有難うございます」
サラの心からの感謝にエマは少し驚いた後、優しく微笑んだ。
「様付けはやめてください。あの、ローザ様は?」
その言葉に、サラは悲痛な気持ちになる。
「申し訳ありません……私のせいで、誘拐されたんです」
エマは驚くかと思ったが、難しい顔をしている。
「…ではやはり彼女が……」
「?」
「あ、いえ……とりあえず、お二人を休ませましょうか」
「あ」
サラは、上で倒れている二人の存在に今更気づいた。
ディアンたちはすぐに落ち着くと、エマに詫びた。
「申し訳ありません。ローザ様を、危険にさらしてしまい……」
「……いえ。姫様のお側にいなかった、私たちの責任でもあります」
「エマ、僕だ、開けて」
ドアが三回、間を開けて一回ノックされ、エマはドアを開ける。
「有難う。大丈夫?」
「ああ、シアンたちがイタズラもしてくれてね。おかげで、処理が大変だったけど」
「何だよ、僕らの手柄じゃーん」
入ってきた者たちを見て、サラとリュオンは固まる。確か一番前にいるのは、エマと以前一緒にいたトラスという男。淡い茶色の髪で、紺色のコートに、黒色のズボンとブーツを履いている。後ろにいたのは、白い装束の二人だ。フードを被ったままなので、顔がよく見えない。サラが視線をそらせずにいると、背丈の低い方の者と目が合った。
その瞳は、リュオンよりは濃ゆい水色の、綺麗な瞳をしている。
「この方たちは……」
サラがそう言った後、声を出してしまった事に焦った。しかしそんなサラとは対象的に、白装束の二人は特に怯えた様子を見せずに、静かに礼をする。
「はじめまして」
「は、はじめまして……」
サラは、それに恐る恐る返事をする。白い装束の二人はゆっくり顔をあげると、にこやかに微笑んだ。




