8. チョコレート
お題「チョコレート」
色褪せた萌黄色のドアを押すと、ドアベルがカランコロンと踊った。一番奥まった角の席で亮太さんが軽く手を上げた。目が見えなくなるほどに細まる笑顔。わずかに垂れ目の優しげな表情が更にやわらいで、彼の周りだけほんのり暖かくなる。だから私はつられて笑顔になる。
大好き。会うたびにそう思う。
「ごめんね。待ったでしょう?」
亮太さんのコーヒーはあとひと口ほどしか残っていなかった。
「うん、ちょっとね。早めに来てのんびりしてた。希美香を待つ時間が好きなんだ」
私は脱いだコートを隣の椅子の背にかけながら、コートを着ていたときよりもほっこり温まる。「待ったでしょう」と言われて「そんなことないよ」とか「今来たとこ」なんて見え透いた気を遣わないところが亮太さんらしい。正直に答えて、でも嫌味じゃなくて。それどころかほのかに甘い言葉を添えてくれる。
「仕事、忙しいんだ?」
亮太さんは組んだ手をテーブルに乗せて身を乗り出してくる。私は「うん」と答えながら少し姿勢を正す。そんな風に覗き込まれるとドキドキしちゃうよ。
「遅番の人が電車の遅延でなかなか来なくて。だから休憩時間が30分遅れ」
「休憩時間が短くはならないんだよね?」
「うん。戻りも30分遅れでいいから」
「それならよかった」
そう言ってにっこり笑う。それはもう本当に「にっこり」って感じに笑う。
胸の奥がくすぐったくなる。不思議。もう半年も経つのに気持ちはちっとも色褪せない。
*
まだ夏の暑い盛り、亮太さんはうちのお店にやってきた。奥さんと一緒に。
私が勤めるのは、シンプルでナチュラルな商品を揃えたインテリアショップ。おしゃれだけどカジュアルな雰囲気ではなくて、若い子はちょっと躊躇いそうな上品な品揃えになっている。お値段の方もまあ、大人向けで。なのでお店が混むということはあまりない。いつものんびりしている。
その日のお客さんも亮太さん夫婦が最初だった。
思わず溜息が零れそうな素敵な夫婦だった。すらりと背の高い奥さんはヒールを履いているせいもあって、亮太さんと頭の位置が同じだった。顔のつくりがというよりは――って、こんな言い方は失礼かもしれないけど――雰囲気の美しい人だった。佇まいっていうんだろうか。清流を思わせる凛とした美しさ。
一方、亮太さんは木漏れ日のようにキラキラと優しげに煌めいていた。
一目惚れって本当にあるんだ、と他人事のように感じたことを覚えている。
*
「希美香、なににする?」
亮太さんがメニューをこちらに向ける。
「オムライス」
私が即座に答えると、亮太さんは「またかよ」と笑った。
「だって好きなんだもん」
亮太さんは店員を呼ぶと、オムライスをふたつ注文した。
オムライスは亮太さんと付き合うようになってから好きになった。亮太さんの好物だと知ったから。毎回私がオムライスを頼むとおかしそうに笑ってくれるから。
このお店のふわふわ卵は亮太さんと過ごす時間の味がする。
*
亮太さん夫婦は洗面所に置くゴミ箱を探しているという。足元に置きたいのだが、ホテルにあるようなおしゃれなやつが欲しいという。
いくつか紹介して、木目調の流線型が美しいゴミ箱を気に入ってもらった。会計の直前になって、奥さんは亮太さんに軽く両手を合わせて謝ると、足早に去っていった。エスカレーターに足を乗せるころにはどこかに電話をかけているようだった。
呆気にとられて見送る私に、亮太さんは苦笑交じりに「仕事だそうです」と教えてくれた。奥さんは仕事が忙しくてデートもままならないのだと少し寂しそうにいうものだから、私はなんだか切なくなってしまったのだった。
*
オムライスを頬張る亮太さんは子供みたいで可愛い。私よりも年上なのに抱き締めたくなるほどに可愛い。もちろんそんなことしないけど。だって手を繋いだこともない。
私たちの関係は曖昧で甘い。
亮太さんは私の気持ちを知っているし、大好きって言ってくれる。けれどその「好き」の意味は聞かない。知ってもしかたがないことだから。気付かないふりをする。
私は私に嘘をつく。幸せだって。不安なことなんてなにもないって。淋しくなんかないって。
だってそんなひんやりとした気持ちを手に取ってしまったら、亮太さんのあたたかな笑顔が消えてしまいそうで。
「もうすぐバレンタインデーなんだよね」
そう呟く亮太さんの視線の先にはバレンタインメニューのポップスタンドが立っていた。私はそうねとかなんとか言いながら笑顔を作る。
隣の椅子に置いたバッグにちらりと目をやる。手作りのチョコレートブラウニー。ラッピングにもこだわってみたりして。
バレンタインデー当日は週末だから、亮太さんとは会えない。だから早目のプレゼント。
「希美香からはもらえるのかなぁ~」
無邪気に微笑む亮太さん。どこまで本気で言っているのかわからない。本気にしたら傷つきそうで。だから私は曖昧に微笑む。
「あげるわけないでしょう」
ましてや手作りチョコなんて。
甘くて苦いチョコレート。
「え~。ほしいな~。ほしいな~」
たぶんそう言って私の出方を楽しんでいるだけ。わかってる。私たちは曖昧で甘い関係。
ずっと一緒にいたいから。
「ねぇ、本当にないの?」
きっとバレンタインデーのチョコレートなんて亮太さんならいくらでももらうあてがある。きっと冗談めかした本命チョコなんかもらったりする。そしてその甘さを知りながら、気付かないふりをするんでしょう?
私は甘さなんか乗せてあげない。バッグからチョコレートの箱を取り出して、「はい」と無造作に差し出すの。
「えっ。なにこれ。まじで?」
亮太さんが笑う。
よかった。これが正解。
「亮太さんなんか、それで充分よ」
私はちゃんといたずらっ子っぽく笑えているかしら?
「ひどいな、これ」
そんなふうに言いながらも亮太さんはやわらかな笑顔を見せる。
そう、これでいい。バックの中のチョコレートブラウニーは眠ったまま。
「でも俺、このチョコ、結構好き」
亮太さんがアーモンドチョコの箱をカタカタと振る。コンビニのシールがチラチラ揺れる。
189円。
それが私の愛の値段。
~ fin ~