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5. 鍵の話

お題「鍵」

 向後(こうご)君が僕のうちへ来たのは、立春の前日の昼過ぎだった。

 面白いことをするからちょっと来ないかと云う。寒いから厭だと云うと年寄りくさいことを云うなと叱られた。

 せっかく温まっていた袢纏を剥がされ、掘り炬燵から引きずり出された。もうこうなってはいくしかあるまい。体を動かしている方が幾分ましだ。

 僕は長年使い続けて厚みのなくなった襟巻をグルグルに巻いて向後君についていく。


 どこまでいくんだいと聞いても、まあまあと笑って答えてはくれない。

 耳が千切れそうな冷たい風だというのに、向後君は運河の方へと向かっていく。

 運河と云っても、川というよりは入江の奥まったところみたいになっていて、ぐるりと回って向こう岸にいくこともできる。だが遠回りになるのは当然のことで、この辺りに住む人たちはみな渡し船を使っている。


「やあやあ。ちょうどいいじゃないか。珍しく船がこちらに接岸している」


 向後君は嬉しそうに桟橋を渡っていく。

 渡し船は一艘しかなく、向こう岸に泊まっているとただひたすらに帰りを待つしかないのだ。

 船頭はどこかへ用でも足しにいっているのであろう、船は無人で、寒々と黒い波の上で揺れている。


「船頭が帰って来てから乗った方がいいのではないかい」


 小心者の僕はそう提案してみたのだが、向後君は笑って取り合わない。


「だって寒いじゃあないか。船の上なら屋根があって幾分ましというものさ」


 この船は屋根だけじゃなく障子までついている。常には開け放たれているものの、障子である以上は当然ながら閉めることもできる。向後君はまるで自分のうちの戸締りでもするかのように、パシリ、パシリと勢いよく障子を閉めていく。


「おいおい。いいのかい。そんなふうになんでも勝手してしまって」

「まったく君は肝が小さすぎるよ。だめだと云われたら開けりゃあいいじゃないか」


 もっともではあるものの、だめだと云われることが厭なのだとは思わないのであろうか。たしかに僕は肝が小さいのかもしれないが、向後君なんぞは肝をどこかに置いてきてしまったに違いない。怖いものなどなにもないに決まっている。


 障子がすべて閉じられると、船が動き出した。船頭が帰ってきたのなら船賃を払わねばと障子に手をかける。


「降りる時でいいじゃあないか。今外に出ても寒いだけさ」


 肝を持たない向後君はどしりと腰を下ろした。それもそうかと肝の小ささよりも寒さの弱さが勝り、僕も向かい合って腰を下ろす。


 船はポンポンと軽快な音を鳴らしている。


「おや。いつから機械船になったんだい。つい先ごろまでは櫓漕ぎの伝馬船だっただろう」


 そうだった。向後君は真面目な顔をしてふざけたことを云うのだ。幼い頃の僕はいちいち真に受けては馬鹿をみたものだった。


「先ごろって、一体君はいつの話をしているの」


 僕が騙されないと知ると、向後君はわははと大きく笑った。

「君も大人になったのだなあ」などと人を食ったようなことまで云う。そして急に真顔になって「久しぶりだな」と云う。いきなり現れて人を連れ出しておきながら今更「久しぶりだな」もないだろう、と云い返してやる。また笑うかと思ったが、向後君は真顔のまま、膝を正した。


「なあ。もしこの障子が開かなくなったらどうする」


 僕は笑った。


「鍵がかかるわけでもないのに、開かなくなるわけはないだろう。いくら僕が小心者だからって、そんなことで焦ったりはしないよ」

「そうか」


 向後君もにやりと笑う。


「それなら、どこかの鍵がかかって閉じ込められたことがあるかい」

「そうだなあ」


 僕はすすけた天井を見上げて考える。鍵は閉めた側から開けるのだから、開かない鍵と云うのはないだろう。そこまで考えてはたと思い当る。


「ああ、あったぞ」

「ほう。どこに閉じ込められた」

「便所だ」

「便所だと」

「ああ。便所だ。我が家の便所だ」

「なんでまたそんなところに」




 あれは僕が小学校に上がる前のことだった。

 我が家の便所はよくあるほかの家のように、縁側の廊下の突き当たりにあった。板を張り合わせただけの軽い扉で、小さなつまみのような木製の閂がついていた。その閂は内からも外からも動かせるもので、扉が勝手に開かないようにするためだけのものだった。

 だから、僕が便所に入っていることを知らないで勝手に開けられたりもした。また、僕の方が知らずに開けてしまうこともあった。

 その頃一番上の姉は中学校に上がったばかりだった。さすがにうっかり開けられるのに困ったのだろう、父に泣きついて、便所の内側から鍵を取り付けてもらった。

 鍵と云っても錠前のような頑丈なものではない。扉と壁をフックで引っかけて止めるだけの簡単なものだ。それならば外側から開けることはできない。

 そのうちその鍵を二番目の姉や母も使うようになり、鍵を締めないのは僕だけになっていた。


「おまえは鍵を締めてはいけないよ。開けられなくなったら困るからね」

 母にはそう念押しをされていた。

 しかし、僕も用を足している尻を見られるのはいい気分ではない。


 ある時、軽い気持ちでそのフックをかけてみた。扉を開け閉めするたびにプラプラと揺れる程の華奢なフックだ。簡単にカチリと壁の輪っかにはまった。なんだかんたんじゃあないか。

 僕はさっさと用を済ますと、早く母に報告しようと扉に手をかけた。

 開かない。

 当然である。鍵がかかっている。

 僕は自分で自分を笑いながらフックを外そうとした。

 だが、外れない。

 あれ程プラプラしていたはずのフックは、壁の輪っかにガッチリとはまって、びくともしない。

 力の限りフックを外そうとするのだが、指先が痛くなるだけでびくともしない。

 焦った僕は泣き出した。すぐに母が来てくれたが、外からではどうすることもできず、父が帰る日暮れまで僕はひとり便所で過ごしたのだった。




「そんな話、聞いてないぞ」


 向後君が不満げに睨む。


「そうだったかな」

「そうだよ。絶対に聞いていない」

「今云ったからいいじゃあないか」

「うん。そうだな。今聞いたからいいか。それで、どうやって出たんだ」

「父が鋸で扉を切った」

「そりゃあ大変だったな」

「ああ。新しい扉ができるまでが大変だった」


 それを聞くと向後君はまた大きく笑った。それから、「今度は僕の閉じ込められた話をしようか」と云う。


 船はポンポンと軽快な音を立てている。


 向こう岸までまだ間があるようだ。僕の話は案外短かったらしい。


「いいだろう。聞かせてもらおうか」

「ほら、納骨堂があるだろう」


 小学生の頃、近所の墓地に納骨堂があった。僕やほかの子も合わせ四、五人でその納骨堂の階段を上り下りしたりして遊んだものだ。その日、どういうわけか入口の扉が細く開いていたのだという。


「そんなことあったかな」

「あったさ。覚えてないのかい」

「僕はいなかったんじゃあないのかな」

「まあいいさ。続きを聞けよ」



 向後君の話はこうだ。



 小学生の男の子ばかり揃っているせいか、度胸試しをしようということになった。

 細く開いた隙間は僕らくらいの子供が体を横に滑らせればどうにか入れるくらいだった。隙間から覗いた納骨堂の中はひんやりとした闇が溜まっており、昼間の日差しを背負った外側からは窺い知ることができなかった。

 ただ入って出てくるだけ。それだけのことでも小学生の男の子の度胸を試すには充分だった。

 子供とはいえ男の子だ。弱虫扱いされては堪らない。

 けれども納骨堂の闇は隙間から漏れ出てきそうなほどに濃く、互いに誰かがやめようと言い出すことを待っていた。誰かが弱音を吐きさえすれば、その子だけを弱虫扱いして、こんな遊びはやめようと余裕ある態度を取れるに違いなかった。

 そのことを感じ取った向後君は、自分が初めにやろうと云った。

 ただ入って出てくるだけのこと。強がりなどではなく、露ほども怖いなどと思わなかったのだ。誰か一人がやってしまえば、後の者は引くわけにいかなくなる。

 ほかの子がじゃんけんにしようと云うのも聞かずに、向後君は納骨堂の扉の隙間にするりと入っていった。息を飲む仲間たち。


「向後君、もうわかったから出ておいでよ」


 そう声をかけるも、待てど暮らせど向後君は出てこない。

 怖くなった子供たちはその場を逃げ出した。


 その頃、向後君は光の帯が細長く伸びる納骨堂の闇の中で、膝を抱えて笑っていた。

 みんななんて弱虫なんだ。声を殺して大きく笑った。


 すっかり人の気配がなくなってから、向後君は立ち上がった。


 すると、たちまち光の帯が細くなり、糸のようになって、消えた。ガシャンと巨大な閂をかける音がする。


「待って! まだいるんだ!」


 向後君は叫んだ。広くもない空間でその声は響くこともなく闇に飲まれていく。


 ガシャリと重々しい鉄の音がする。

 向後君の脳裏に両手に余るほどの大きさの真っ黒な錠前が浮かんだ。いつも納骨堂の扉にかかっている鍵だ。見慣れた鍵。


「開けて! まだ中にいるんだ! 開けてよ!」


 扉を何度も叩く。しかし、硬く分厚い鉄の扉は向後君の拳の当たるペシリペシリと薄っぺらい音を立てるだけであった。




「――それで、どうやって出たんだ」


 僕は聞いた。



「さあね。――これから出してもらおうか」



 向後君は大きく笑った。声をたてずに大きく笑った。


 船が岸に着いたようだ。

 降りれば目の前に墓地がある。既に廃寺となり、守るもののない墓地と納骨堂がある。


「さあ、鍵を開けておくれよ。度胸試しはこれからだ」


 船室が暗い。

 日暮れが近いのかもしれない。

 障子も闇に溶けている。

 暗い。

 一層冷えてきたようだ。




「なあ。もしこの障子が開かなくなったらどうする」




 闇の中で向後君が声もなく笑った。








 ~ 了 ~

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