33. 椅子牧場
お題「椅子」
「わあ! すごい! 放牧されている椅子なんて初めて見たわ!」
牧場につくなり、彼女は柵にしがみついた。僕はそんな彼女の反応に大いに満足した。
「そうだろう。普通は舎飼いだからな」
「ねえ、ほんとうにいいの? 放牧椅子なんて高いでしょう?」
「構うもんか。長い目で見ればこっちの方がいいに決まっている。……ですよね?」
牧場主は大きく頷いた。
「もちろんです。畜舎で繋がれて育った椅子より、こうして毎日動き回っている椅子は脚が強いですから。一生ものになりますよ」
「ほらね。だから好きなのを選べよ」
「嬉しい! どの椅子がいいかしら。う~ん。迷っちゃう~」
彼女は幼い子供のように柵に沿って右に左にと走り回り、ときには背伸びして遠くの椅子を眺めている。
「ところで、お客様……」牧場主が声を落として一歩近づいてきた。「本日は二脚お求めになるということでよろしいでしょうか」
「はい。そうお伝えしたはずですが、なにか?」
なにか不都合でもあるのだろうか。彼女にいいところを見せたくて、こういう買い物に慣れているふりをしてはみたものの、実のところは僕だって彼女みたいにはしゃぎたい気分だった。もしや重大な勘違いでもあったのだろうかと不安になる。
思わず表情に出ていたのだろう、牧場主は慌てたように顔の前で手を振った。
「いえ、その、さきほどお連れ様もおっしゃっていましたが、放牧ものは値が張りますから、なかなか二脚同時にお求めになる方はあまりいらっしゃらないものでして」
そういうことか、と僕はやっと笑みを浮かべる余裕ができた。
「実はお恥ずかしい話、かなり奮発するんです。新婚旅行の代わりに椅子を買うことにしたんですよ。僕たちの共通の趣味といいますか、好きなものが家具でして。家具好きとしてはやはり椅子にいきつくんですよねぇ」
「わかります! そうなんですよ、いきつくとこは椅子ですよね!」
牧場主は急に打ち解けた様子で、今にも握手を求めてきそうな雰囲気だ。椅子牧場をやっているくらいだ、椅子好きに決まっている。本当に二脚も売れるのだろうかという心配よりも、買われていった椅子たちが大切にされるかどうかが心配だったのだろう。
「ねえ!」
離れた場所から彼女が叫ぶ。そして僕と目が合うと、放牧場を指さした。
その先にはぽつんと一脚だけ真っ白な椅子が立っている。脚は細いが締まって丈夫そうだ。背もたれのカーブも美しい。
「見て。あの椅子、とっても素敵じゃない?」
「ああ、ほんとうだ」
「私、あの椅子がいいわ。……どうかしら?」
「うん。すごくいいと思うよ。じゃあ僕も二脚目を選ぶか」
そう言って牧場に点在する椅子たちを眺め始めるやいなや、牧場主が頭を下げた。
「すみません、あの白い椅子は対になっておりまして、バラでお売りするつもりはないんですよ」
「二脚セットなんですか? ではそれで」
「いえいえ、見た目の揃ったセットではなくてですね……ああ、ちょうど来ましたね」
栗色の椅子がゆっくりと白い椅子に向かっていた。白い椅子の方も、わずかな距離さえ待ちきれない様子で、自らも歩み寄っていく。身を寄せ合い佇む姿が微笑ましい。
牧場主は孫でも眺めるように柔らかな笑みを浮かべた。
「いえね、今までにもそれぞれの椅子に買い手がつきそうだったことはあるんですよ。手前味噌ではありますが、あの二脚はうちの牧場でも自慢の椅子たちでしてね。一脚ずつであればすぐに売れるんですが、いやあ、どうもいけませんね、あの二脚を引き離すのがしのびなくて。これはもう二脚とも引き取っていただける方にお売りしようと」
「たしかにあの寄り添う姿を見たらそう思われるでしょう。ただ、インテリアとしての統一感が」
「そうなんですよねぇ」
がっかりしたような、安心したような、弱々しい笑みを浮かべる牧場主だったが、「あら、いいじゃない」という彼女の声に真顔に戻って瞬きを繰り返した。
「ねえ、あの二脚にしましょうよ。椅子にこだわりのある人こそ違う種類の椅子をそろえるじゃない。あの二脚だって、色こそ違うけれど、背もたれの感じが似合っているわ」
なるほど、言われてみればそうかもしれない。いや、本当のところ、僕は椅子が好きではあるけれど彼女ほどその魅力をわかってなどいないんだ。僕にとって大切なのは、いい椅子などではなく、彼女がいいと思う椅子なのだ。
「よし、そうしよう。あの二脚をください」
そうして我が家にやってきた二脚だったが、どうにも仲がよすぎて困る。僕たちが腰掛けていないときは休憩時間だとばかりに二脚きりで部屋の隅で寄り添う始末。
「あら。困ることなんてないじゃない。椅子たちを見ていると和むわぁ」
妻にそう言われるとそう思えてくる。我が家の環境に合っているのか、椅子たちは牧場で出会ったころよりも艶やかで美しい。
その椅子の様子が、最近変だ。
白い方が倒れていることがあるのだ。
初めは、なにかの拍子に転んだのだと思った。帰宅したら白い椅子が横倒しになっていて、傍らに栗色の椅子が付き添っていたから、てっきりバランスを崩したのだろうと。
しかしそれが、二度三度と続くと心配せざるを得なくなる。しかも倒れているのはいつも白い椅子だけなのだ。いやな予感がして、傷などがついていないか念入りに調べてみたが、むしろ艶が増しているようにも見える。
二脚の部屋をわけるべきかとも考えたが、妻に反対された。
「そんなの、使うときに不便じゃない。それに、シロがクリを慕っているのがわからないの?」
「わからないよ。どうしてそんなことがわかるんだ。相手は椅子だぞ」
「わかるわよ。だって、いつもシロの方からクリに寄っていくのよ?」
「そうだったかな……それより、いつから椅子に名前がついたんだ?」
そんなやりとりからまもなくのこと。帰り道でばったり妻と会い、一緒に今晩の食材などを買って帰ると、いつもはダイニングにいる椅子たちがリビングのラグの上で寛いでいた。しかもそこには、小さな椅子が一脚。
「まあ! ベビーチェアだわ!」
赤ん坊用のあれである。ミルクティーのような淡い色合いの。
「え? まさか、この色って……」
「なんて優しい色合いなの。あなたたちの色が綺麗に混ざっているわ」
妻は労うように二脚の椅子をなでている。
「や。びっくりしたな。まさかブリーダーでもないのに椅子の出産を目の当たりにするとは」
「ほんとうに。ね、この二脚にしてよかったでしょ?」
「あ、ああ。けど、どうするんだ、ベビーチェアなんて」
その辺に置いておけばいいのだろうが、どうにも落ち着かない。
「あら。ちょうどいいかもしれないわよ? さっき、病院の帰りだったんだけどね……」
そう言って妻は、自分の腹をそっとなでた。
(了)




