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32. 吾輩は亀である

お題「約束」

 吾輩は亀である。名前? 名前は、だから、亀である。

 じいさんとばあさんちの小さな庭の小さな池で暮らしている。以前はどこにいたのか覚えていないが、いつぞやの夏にいきなりここへ連れてこられた。二人の孫だというやつが勝手に置いていったらしい。以来、吾輩はこの池で暮らしている。

 かつては池に魚もいたが、一匹減り、二匹減り、いつしか誰もいなくなった。いまでは池を独り占めである。

 飯は毎日ばあさんが持ってくる。今朝は小松菜を食べた。池には甲羅干しをするのに適した石もある。文句なしに快適だ。


 しかし、いかんせん、暇である。


 ときおり地域の猫殿が通りかかるほかは話し相手もない。畢竟、じいさんとばあさんの会話に耳を澄ますしかないのである。




 今日も吾輩は石の上で甲羅干し。目の前の濡れ縁ではじいさんも背中を日に当てている。いつもと変わらぬ、飽き飽きするほど穏やかな昼下がりだ。


 うつらうつらしていると、がらがら、と玄関の引き戸が開けられる音がした。

 同じく縁側でうつらうつらしていたじいさんが、のそりと起き上がった。いてて、いてて、と膝や腰をさすりながら玄関へと向かう。吾輩は耳を澄ます。


 じいさんの声がする。

「えっと、あなたは?」

「ツルです。あのときのこと覚えてます?」

「あのとき……」


 吾輩にはわかる。じいさん、明らかに相手が誰だかわかっていない。


「やはり覚えてないんですね」


 相手の諦めと悲しみの混じった声に吾輩も少しばかり気鬱になる。


「い、いや、覚えてる覚えてる」

「……それ、絶対覚えてないでしょ」


 まったくもってその通り。じいさんが二度繰り返し言う時は偽言である。


「覚えてるさ。ツルだろ。ツル。あのときの。俺が助けたツル。ということはさ、俺は、よ……」

「与ひょうじゃないですよ」

「えっと、俺、与ひょうじゃない……」

「ええ、あなたは権蔵さんです」

「権蔵……」

「……思い出しました?」

「思い出した、思い出した」


 じいさんは二度繰り返し言った。

 相手は――ばあさんは、いいんですよ、とやわらかな溜息をついた。


「ところで、私が買い物に出ている間にちゃんとごはん食べました?」


 ばあさんはじいさんの昼飯にいなり寿司を置いていったはずだった。


「いや、飯はまだだな」

「お皿、空っぽですね。よかった。ちゃんと食べましたね」

「俺、食べたのか?」

「食べましたね。この家にはあなたと亀しかいませんから」

「じゃあ食べたのは亀ではないかな?」


 とんだじいさんだ。吾輩のせいにするとは。吾輩は小松菜しか食っておらん。


「亀ではないようですよ。だって、あなたのここに、ほら、ごはん粒が」

「これは亀の陰謀に違いない。俺は食べてない。腹ぺこだ」

「あらあら。それは困りましたね。食べすぎはよくないんですけどね」

「ツル、恩返しに来たなら飯を作ってくれ」

「そんなこと言われても。おにぎりくらいしかできませんよ」


 じいさん、頭は元気がないが、腹は元気だ。昔と変わらずよく食う。ばあさんが作った握り飯を濡れ縁に座って貪り食う。いつ見てもうまそうに食っている。


「だめですよ、そんなにあわてて食べたりしたら。もっとゆっくり、ちゃんと噛んで」


 ばあさんにかかったら、じいさんなぞ、まるで子供である。


「だってよ、うまいんだ」

「そう。よかった」

「すごくうまいんだ」

「お味噌を塗って焼いただけですよ。あなた、このおにぎり好きですものねぇ。嫁入り前に、町内の集まりで作った時もあなた、おいしいって言って、それから、それから……」


 ばあさんは泣きながら笑っている。笑いながら泣いているのかもしれない。どちらかにすればいいものを。

 じいさんが物足りなさそうな顔をすると、ばあさんは「今日はこれでおしまいですよ」と二つ目の握り飯を手渡した。


「うまいなあ。ツルのおにぎりはうまい。こうやって隣にいてくれると尚うまい」

「あらあら」


 ばあさんは一層笑って、一層泣く。


 まあ、こんな光景は毎日のことだ。同じことの繰り返し。まったくもって暇である。


「なあ、ツル。これからずっとここにいてくれないか?」

「はい。いつまでもいますよ」

「そうか。よかった。安心した」


 じいさんはそう言って、濡れ縁にごろりと横になると、たちまち寝息を立てた。

 ばあさんはじいさんの手や口をふきんで丁寧に拭いてやっている。やはり子供扱いである。


「今日も覚えていなかったわねぇ。あのときのこと」


 そうなのだ。じいさんは日によって覚えていたりいなかったりするのだ。初めてばあさんの握り飯を食べた日のことを。まだじいさんでもばあさんでもなかった頃のことを。吾輩だってその頃の二人のことなど知らないのだが。


「ねえ、亀や。聞いてくれる? あのときね、この人ったらね」


 その頃のことなぞ知らないのだが、ばあさんの話でなら知っている。


「この人、言ったのよ。『ツルのおにぎりはうまい。こうやって隣にいてくれると尚うまい』って。初めて会ったのに適当なこと言うわよね」


 じいさんは毎日忘れるが、ばあさんは毎日同じ話をする。じいさんは覚えていないくせに毎日同じことを言う。ばあさんは覚えているくせに毎日同じ返事をする。


 ――なあ、ツル。これからずっとここにいてくれないか?


 ――はい。いつまでもいますよ。


 じいさんとばあさんは毎日同じ約束をする。あのときも。昨日も。今日も。きっと明日も今日を繰り返すのだろう。




 吾輩は亀である。じいさんとばあさんちの小さな庭の小さな池で暮らしている。よって、じいさんとばあさんの会話に耳を澄ますしかないのである。毎日同じやり取りに耳を澄ますしかないのである。


 まったくもって、吾輩は暇である。



(了)


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