31. 感染
お題「パソコン」
久々に予定のない週末。ブログの更新でもしようと思い、パソコンを起動した。
マウスを握ると、妙に触り心地がいい。程よい大きさ、程よい柔らかさで、軽く丸めた手のひらにフィットする。手元の感触に集中しすぎて出遅れた視線を向けると、予想通りネズミの姿があった。
目が合うと、ネズミは短くチュと鳴いた。
私はため息をついて、ネズミになったマウスを両手で包み、ストックしてあった飼育ケースに入れた。幅25センチほどの透明プラスチックケースだ。カブトムシやらなんやらを飼育するアレだ。100円ショップで買ってきた。部屋の隅に積むと、同じ型の飼育ケースが3列2段並んだ。これで6匹目だ。
6個目は、いつ本物のネズミになったのだろう。昨夜ネットニュースを眺めていたときはプラスチック製だったから、夜のうちに変化したにちがいない。
この現象は今年に入ってから急激に広まったコンピューターウィルスで、マウスがネズミになってしまうというものだ。通称アルジャーノンと呼ばれている。
アルジャーノン自体は一年前くらいからあったらしいが、当初は、有線接続のマウスしか感染しないとされていた。企業などでは紛失防止のためもあってか有線マウスを使用しているところが多く、一時は対策に追われたとニュースでやっていた。
対策が行き渡り、それらが下火になったころ、一般家庭での被害が報告され始めた。家庭ではノートパソコンの利用がほとんどのため、タッチパッドを使っている分には問題なかった。ただ、デスクトップパソコンで慣れた人たちはマウスを接続することも少なくない。けれどもその際でも有線マウスは避け、無線マウスが主流だ。だから安全なはずだった。
なのに。うちには6匹のネズミがいる。
アルジャーノンは有線でしか感染しないというのはデマだったのか。
真偽のほどをネットで調べようとしてキーボードに指を置いたが、そこで手を止めた。ディスプレイをチョロチョロ動き回るものがある。複数の点が不規則な動きをするので、数も形もなかなか見定めることができない。
ひとつの点が、一瞬だけ止まった。マウスポインタのようだった。うっかり自分の手がタッチパッドに触れてしまったのかと思い、両手を上げてみるが、点は動いたままだ。
動く点を必死に追い、どうにか数えてみる。1、2……3……。
……6個。
6個のマウスポインタがぴたりと動きを止めた。飼育ケースを見ると、6匹のネズミたちがじっとこっちを見ていた。小さく短い後ろ足で立ち上がり、前足を壁面についている。
鼻先がヒクヒク動く。鼻が動くたびに口元も小さくひきつれて、時おり大きな前歯が覗いた。
真っ青な歯。伸びていく。わずかに先端が見えるだけだった歯は、みるみるうちに伸びて、胸に突き刺さらんばかりに弧を描き始めた。
飼育ケースは、飼育する意図で用意したものではないから、床材も遊具も餌もない。ただの透明な箱だ。その中で、ネズミの歯は伸び続ける。ネズミたちは歯を飼育ケースの壁にこすりつけようとしてもがいている。かゆいのか、邪魔なのか、長くなっていく歯を持て余している。だが、垂直に建つ壁に歯は立たない。カツカツと爪弾くような音だけが響く。
カツカツカツカツ……
ディスプレイのマウスポインタは3列2段に並び、小刻みに揺れている。
カツカツカツカツ……コツッ。
細く軽やかに重なり合っていた音に、わずかに厚みの増した音が混じる。
カツカツカツ、コツッ。コツッ。ピシッ。
透明の壁面に、白い筋が発生していた。放射状に広がっていく。白の中心部分がますます白く濁っていく。私は目を逸らすことができない。
音は部屋中から家鳴りのように聞こえてくる。音に取り囲まれる。音の間隔が狭くなっていく。
カツカツカツカツ……カッカッカッ……
飼育ケースの前面は白く細やかなモザイクで埋め尽くされ、ネズミの姿を隠している。歯がプラスチックに当たる音と白の中心からチラチラと覗く鮮やかな青。
バリッ。ガリガリガリ……。
齧りやすい大きさの穴があいたようだ。まもなく体が通る大きさに広げるだろう。
私は部屋を見渡し、手当たり次第に飼育ケースに被せられるものを被せた。ひざ掛け、コート、ベッドシーツ……。
齧る音はくぐもって響く。
後ずさりつつ、はたと気づく。――逃げなきゃ。
どこかに逃げ込み、現状を伝え、助けを請わなければならない。ネズミたちがなにかしでかしたら自分が責められるのではないか、場合によっては罰せられるのではないかという恐怖もあった。
取るものも取り敢えずという状況よりは冷静だった。財布とスマホくらいは持っていくべきだろう。たしかパソコンの脇に……。
手を伸ばした際、ディスプレイが目に入った。マウスポインタはその場で震えるだけで、激しく動き回ったりはしていなかった。だが。
増えていた。1、2、3……10以上はある。
飼育ケースを齧る音はやんでいた。ごそごそと布の向こうでうごめく音と、それを裏付けるかのように布のあちこちが小さく押されたり戻ったりしている。
私はドアの方に後ずさりながら、再びディスプレイに目をやった。マウスポインタが細かく震えている。増えていく。もう数えきれない。
カリカリと布を掻く音がする。
ベッドシーツやコートそのものが生き物であるかのようにうごめく。
私は手にしていた財布とスマホをその生き物に投げつけ、部屋を飛び出した。
去り際に、ちらりと見えたディスプレイは、マウスポインタ一色に埋め尽くされていた。
(了)




