3. 始業まで
お題「おはよう」
【8:25】
予鈴が鳴る。
話し声がばらけつつ、席におさまっていく。
本鈴まで間があるのをいいことにまだ騒ぎ続けるグループもあって。
教室の後ろの方で男子たちの笑い声が弾ける。中学生男子はうるさい。騒がしく上がるいくつかの声に交じって、落ち着いたひかえめな笑い声が漂ってくる。
――あいつの声だ。
直接言葉を交わしたことはないけれど、あいつの声はどこにいても聞き分けられる。
あいつの声は柔らかい。ほかの男子の声のようにギャンギャンと吠えるような尖った声じゃない。まあるい声。
背後から漂ってくるその声を耳でとらえると、思わず口角が上がってしまう。慌てて口を引き結ぶ。それだけでは足りなくて、吸い込むように唇に力を入れ、前歯で軽く抑えた。そうでもしないと口が勝手にニヤリと妙な笑いを浮かべてしまいそうだった。
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【8:00】
キュッキュッと上履きが鳴る。
いつだってPタイルの床にこすれるゴムはこんなふうに鳴っているのだろうけれど、人が溢れると音は散り散りに砕けて耳にまで届かない。
朝日が鋭い角度で教室に差し込み、机や椅子の脚の陰が教室の床に細いストライプの模様を描いている。
自分の席に鞄を置くと、コートも脱がずに窓を開ける。
運動部のジョギングする掛け声や、ボールを蹴る音、スパイクのままコンクリートの通路を歩く硬い音などが、ピンと張った冷たい風と共に教室へと流れ込んでくる。
窓際の机のひとつに腰かけてそのまま外を眺める。教室だけでなく、廊下もまだしんと静まったまま、冷たい朝を過ごしている。
「正しい時間」っていう感じがする。なにが正しいのかわからないけれど、それでもなんだか、朝のこの時間は「正しい」ような気がするのだ。
私が通ってきた正門は体育館の陰になっていて、ここからは見えない。ここから見えるのは裏門。まだ誰も通らない。
私は地上から視線を羽ばたかせて、空を見上げる。長い長い飛行機雲が一筋、真っ青な空を真っ二つに切り裂いていた。
【8:10】
ちらほらと登校してくる生徒がいる。
私は裏門がよく見える角度に姿勢を変える。
――来た。
顔が見えるよりも早く心が大きく跳ねる。遠目の姿だけであいつだとわかるくらいに私は毎日眺めている。
男子三人組の真ん中。あいつらはいつもあの並びだ。
でもきっと並び方が違っても、私はすぐにあいつがわかるに違いない。
だからってなんの自慢にもならないんだけど。なんの得にもならないんだけど。
ツンと胸の奥がつねられたように痛む。まるで涙が溢れる直前に鼻の奥が痛むような。だけど、この痛みが大きいほど私は嬉しくなる。あいつを見つめて痛む胸が熱くなる。
だんだんと近づいてくる。4階のここまで声は聞こえないけれど、もう顔ははっきり見えて、時折笑いながら話しているのさえわかる。
あいつの笑顔はクシャッてなる。ちょっと笑っただけなのに目が細くなって、目尻が下がる。つられて私も笑顔になる。
誰に見られているわけでもないのに、くすぐったくなって、窓枠に手をかけて伸びをする振りをしてみたりする。
ちょっとよそ見をしていた隙に、既にあいつは窓の下を通り過ぎていて、後ろ姿が見えている。
窓から少し身を乗り出して、昇降口に入っていくのを見送る。
私は少しだけ足をブラブラ揺らしてから、ひょいと机から飛び降りる。
澄ました顔で廊下を歩き、クラスメートとすれ違えば「おはよー」と片手をあげてみたりする。
まるでどこかに用事でもあるかのように階段をタタンッとリズムよく降りていく。
タタンッ、タタンッ。
私は毎朝、仲のいい友達が登校するのを見つけては昇降口まで迎えに行く――という設定。だけど本当は、あいつとすれ違いたいだけ。いつも2階と3階の間の踊り場ですれ違う。ただそれだけ。
それだけのことが大切で。それだけで今日も一日頑張れる。
タタンッ、タタンッ。
3階から更に降りようと、手すりを軸にくるりと回ると――目の前にあいつがいた。
ぶつかる直前で互いに避ける。
「あ。ごめん」
私がとっさに謝ると、あいつはクシャッと笑った。
「びっくりした~。おはよう」
そう言って4階への階段を上っていく。
その背中を見送るわけにもいかなくて、私は当初の設定のままに昇降口まで降りていく。
タンッ、タンッ、タンッ……。
あいつの声を聞いちゃった。すぐ目の前で聞いちゃった。
私に向けられた言葉を聞いちゃった……。
迎える誰かがいるわけでもなくて、私は用事があるかのように1階の廊下を端まで歩いてからさっきとは違う階段を上りはじめる。今頃はあいつがいるであろう教室に向かって。
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【8:30】
本鈴が鳴り、固まっていた男子もそれぞれの席へと散っていく。去り際に「おまえもだからな」と誰かがなにかの念押しをする。あいつは笑いを含んだ声で答える。
「わかってるって」
私の口元と共に目元も緩む。
あ。ダメだ。私は寝不足の振りをして机に突っ伏す。自分の腕で囲まれた空間で机の湿った木の匂いを嗅ぎながら思うぞんぶんにニヤニヤする。
そしてふと、挨拶を返さなかったことに気付く。
もしかして、失礼な奴だと思われただろうか。でもびっくりしたんだから言い忘れたってわかってくれるだろうか。それよりも、勢いよく階段を降りる迷惑な奴だって思われただろうか。嫌われるだろうか。
不安は尽きない。
けれどもあのクシャッとした笑顔での挨拶を思い浮かべれば、ひととき不安も溶けていく。
あいつの笑顔が瞼に残る。あいつの声が耳に残る。何度も何度も思い返す。幼い頃からのたからものをことあるごとに眺めるように。
「おはよう」と笑ったあいつを思い浮かべる。
答えられなかった自分を思い返す。
「――おはよう」
私は、自分の息で曇り始めた机に向かって小さく呟いた。
~ fin ~