30. 壁の穴
お題「髪」
最近、首が痛い。肩こりなのか寝違えたのかわからないが、もうかれこれひと月ほども首の左側が痛い。あまりの痛みに、就寝中に目が覚めることがあるほどだ。
その夜は右側を下にして横向きに寝ていたのだが、ひと眠りしたころ、痛みに目が覚めた。掛け布団がずれて肩が冷えていた。目を開けば、隣に眠る夫の背がある。
同じベッド上の夫の眠りを妨げないよう、そろそろと寝返りを打つ。左を下にして、掛け布団を肩までかかるように整えた。目の前には、1メートルほどの幅をあけて壁がある。照明は消しているが、ブラインドの隙間から外の明かりがかすかに漏れて、寝室はまったくの闇ではない。
寝室は北向きで、冬の時期は特に冷える。左の壁に窓からは冷え切った外気が伝わってくる。わたしは掛け布団を口元まで引き上げた。
窓は少し変わったつくりをしていて、内側に張り出した出窓といった感じだ。窓の周りの壁が柱のように室内に張り出している。
窓は横になったわたしの膝あたりにあって、寝ている位置からは、ちょうどその柱の側面――戸袋の突き当りとでもいうのだろうか、10センチほどの厚みが見える。
再び眠ろうと閉じかけた瞼を再び開いた。壁の張り出した側面に穴があいているのを見つけたのだ。
拳ふたつほどもある穴だ。なにかをぶつけて壁が割れたかのように見える。
まったく記憶になかった。いったいいつからあいていたのだろう。たしかに気づきにくい位置ではある。部屋のドアは足の方だから、入ってくるときには死角になっている。横になれば見えるが、右側に寝る夫には見えないし、左側に寝るわたしも明るいまま眠るわけではないから視界が確保できているとは言い難い。いま気付いたことの方が意外だった。
穴はほとんどが木でできていた。壁はべニア板に壁紙が貼られており、中には角材が打ち付けられているようだ。その奥にもまた板が見える。角材の格子板と板で挟んでいるらしい。その、室内側の板に穴があいている。
中に埃が溜まっているのが見える。数本の髪の毛も綿埃に絡まっている。家具の隙間などにある埃と似ていた。
穴は塞いだ方がいいだろう。だが、とりあえずは、明日にでも軽く穴の中の埃を取り除こう。そこまで考えて、髪の毛を掃除するのは気持ち悪いな、と思った。毎日掃除をしても、数本の髪の毛は床に落ちている。太さや長さからして、ほとんどがわたしの髪だ。だから、穴の中の髪もわたしのものである可能性が高い。それでも、あれを取り除くのかと思うと、かすかな嫌悪を感じた。
それらのことを、わたしは半ば眠りに引きずられながら、つらつらと考えていた。瞬きの間隔があいていき、瞼を閉じている方が長くなってきた。このまま眠りに落ちるかというその瞬間、思考との繋がりをとうに断ち切っていた目が、新たな発見をした。
わたしを包み込もうとしていた眠りが遠慮がちに引き下がっていく。視覚が意識と結びつく。
穴の中の上部、天井ともいうべき部分に、髪の毛が束になって詰まっていた。毛糸玉の一部が見えているような状態だ。
こんなにも溜まるとは、穴はよほど前からあいていたとみえる。わたしはうんざりした。と同時に、塊をスポッと抜き取る瞬間はさぞすっきりするだろうとも思った。
つらつらと考えてきたが、言葉にして思考するわけでもなく、ただ漠然としたイメージが眠りでふやけた頭の中を流れていくだけだから、時間にしたらそれほど経っていないと思われた。夢と現の狭間を漂いながら、そんなことも思った。
ふと、髪の塊がわずかに動いた気がして、目を凝らした。すると。
――ぎょろり。
髪のわずかな分け目から見開いた目がひとつ、覗いていた。
「ひっ……!」
思わず息を強く吸い込んで、声が出た。
目玉はその場でぐるりんと回転して、その勢いを利用するかのように髪の塊もぐるりと回転した。寝返りを打つように。
途端、わたしは理解した。
あれは頭部だ。握り拳ほどの大きさの頭が逆さになっていたのだ。
わたしは張り出した壁の側面を天井まで視線を走らせた。
逆さの頭部なら、体もあるのではないかと思って。もちろん、壁を眺めたところで、その内側が見えるわけでもない。そして、わたしは頭のどこかで、あれは頭部だけしかないのだと知っていた。
「ん……どうした……?」
夫がこちらに寝返りを打ちながら、まだ意識の定まらない声をかけてきた。
「壁に穴が」
「んん? かべ?」
「中に、なんか、いた」
夫はごそごそと上体を起こし、わたしに覆いかぶさるようにして壁を見た。
「ん。どれ」
そのまま身を乗り出して、躊躇う様子もなく穴に右手を突っ込んだ。
とっさのことに声を失うわたしとは裏腹に、夫の声は起床時のそれと変わらない響きになっていた。
そして手を引き抜き、言った。
「別になにもないよ」
夫は右の手のひらを上に向けたまま、よっと声を上げて上体を戻した。そして、左手で枕元の電気スタンドをつける。
「ほら」
やわらかな明かりに照らされた夫の手のひらには、わずかな綿埃がついているだけだった。
わたしが頷くと、夫は右に向き直り、ベッドの外で両手をこすり合わせて埃を払った。そのまま布団に潜り込み、こちらに背を向けた状態で小さないびきをかき始めた。
わたしは、なにもないと言った夫の言葉を呪文のように心の中で繰り返した。
壁の穴を再度確かめる勇気もなく、夫の方を向いたまま、壁を背にして体を横たわらせた。手を伸ばして明かりを消す。夫のいびきに合わせて呼吸するうちに眠りへと落ちていった。
眠りに落ちると同時に、煩わしさに目が覚めた。伏せた顔全体を覆うように髪がかかっていた。
髪を払おうと、首の傾きを変えた。髪はさらりと額や頬を流れ、顔の覆いがなくなったのを感じた。
ほうとひとつ息を吐き、薄く目を開けた。
暗い寝室が見えた。電気スタンドは消したが、ブラインドの隙間から外の明かりがかすかに漏れて、寝室はまったくの闇ではない。
ふと、薄闇の中で塊がわずかに動いた気がして、目を凝らした。すると。
――ぎょろり。
見開いた目がひとつ、覗いていた。
目が合う。それは、ベッドに横たわる「わたし」だった。
わたしは、そんな「わたし」の様子を、ただ静かに壁の中から見ている。壁の穴の奥で、逆さまに。
了




