26. 旅に出よう
お題「旅行」
佳奈ちゃん、旅行に行こうよ、と制服姿の紗英ちゃんが言った。
「りょこう……」
わたしはベッドの中で、目覚めたばかりのぼんやりした頭を必死に動かし、それってなんだっけと考えながら復唱した。
「そう。旅行。旅に出よう」
紗英ちゃんが肩にかけた大きな旅行バッグをこちらに見せた。
「ああ、旅行」
言葉と意識の回路がつながる。
「そう、旅行」
準備万端のいで立ちで紗英ちゃんが笑顔を見せる。それから、ほら、とわたしの旅行バッグを持ち上げてみせた。
わたしは上体を起こす。パジャマが汗で湿っている。でも熱は下がったようで、すごくすっきりとした気分だ。
「ちょっと待ってて。シャワー浴びてくる」
わたしは替えの下着と制服を持ってお風呂へ向かう。
熱めのシャワーを頭から浴びると、体中の細胞がプチプチと弾け古い表皮を脱いでいくようだった。
思考もだんだんはっきりしてくる。
一昨日の夜、私は熱を出した。翌日は修学旅行出発日だというのに。
夜のうちに38度まで上がって、翌朝早くにお母さんが中学校に電話を入れた。休ませますって。
修学旅行に行けないのが悔しくて、いつ以来かわからないくらいの大泣きをした。泣いたせいか熱のせいか、頭が壊れそうなほど痛くなった。
インフルエンザかもしれないからと病院につれていかれたが、検査結果は陰性で、午後には熱も下がり始めた。夜にはまた少し熱っぽかったけれど、ちゃんとおなかもすくし、頭痛もなくなった。
そして今日、普段だったら登校するくらいに快復したけれど、みんなは修学旅行中だから家にいるしかない。やることもなくベッドでごろごろしていたのだった。
汗を洗い流して制服を身に着ける。お母さんを呼んでみるが返事がない。わたしが寝ていたものだから、黙って買い物にでも出かけたのかもしれない。
廊下に紗英ちゃんが立っていた。
すでに玄関にふたりぶんのバッグが運ばれていた。
「行こ」
手をつないで駅までの道を歩く。
こうして紗英と修学旅行を楽しむはずだった。自由行動の観光ルートだって完璧に調べた。神社やお寺と、あとは博物館くらいしか見るところはなさそうだったけど、いっぱい調べて、行きたいところを厳選した。特に、うらないとかおまじないが大好きな紗英ちゃんは張り切っていた。この神社はこんなご利益があるとか、ここのお守りはこんな効力があるとか、まるで地元の人みたいに詳しく説明できるまでになっていた。
ふたりで行き先を考えるのも楽しかった。
「佳奈ちゃんも行きたいところを言って」
「わたしはどこでもいいよ」
紗英ちゃんと一緒ならどこへ行っても楽しいに決まっている。でも紗英ちゃんは自分ばかり希望を出すのは気が引けるらしく、どうしてもわたしに行き先を選ばせようとした。
「どこでもいいとか、うちのお父さんみたいなこと言わないで」
「んと、じゃあ、ここの神社。このお守りのお人形がほしい」
「ああ、これね。うん、いいと思うよ。身代わりになってくれるんだって」
「身代わり?」
「そう。きっとね、危ないときとか、代わりに引き受けてくれるんだよ」
「なんだかかわいそうね」
「そうかなあ? 分身みたいなものじゃない? どっちも自分っていうか」
紗英ちゃんはあの神社に行っただろうか。
――あれ? なんで紗英ちゃんがここにいるんだろう? 修学旅行に行ったはずなのに。
手をつなぎ、ずんずん進む。
駅はまだ見えてこない。
「紗英ちゃん」
「なあに? 佳奈ちゃん」
「修学旅行はどうしたの?」
「行ったよ」
「じゃあなんでここにいるの?」
「だって、一緒にあの神社に行こうって言ったじゃない」
「言ったけど……」
あたりが薄暗くなってきた。
いったいどれだけ歩き続けているのだろう。歩いても歩いてもどこへも行きつかない。それなのに、足はちっとも疲れていない。大きな旅行バッグも重さを感じない。いつまでもどこまでも歩ける気がした。
それより……駅、こんなに遠かったっけ?
――佳奈っ!
かすかにお母さんが呼ぶ声がした。
「……もう見つかっちゃった」
紗英ちゃんが泣きそうな声でつぶやいた。
そうか、お母さんに見つかったら旅行に行くのなんか反対されるに決まっている。わたしは紗英ちゃんの手をギュッと強く握った。紗英ちゃんの目からぽろっと涙がこぼれた。
「あ、ごめん、痛かった?」
あわてて手を放そうとすると、握り返された。
「ちがうの。佳奈ちゃんと旅行したかったの」
「うん。わたしも修学旅行楽しみにしてたのに」
「大人になったらふたりで旅行もしてみたかった。温泉とか、海外とかも行ってみたかった」
「行こうよ。大人になったら行こう」
わたしも泣いていた。
どうして、わたし、泣いているんだろう……?
――佳奈! 佳奈っ!
お母さんの声が近づいてくる。
「佳奈ちゃん、わたし、先に行っているね。佳奈ちゃんはあとからゆっくり来てね」
「どうして? 紗英ちゃん、一緒に行こうよ。一緒がいいよ」
「ごめんね。待ってるから。ずっと待ってるから。ゆっくりでいいよ」
――佳奈! しっかりしてっ!
パシリと頬をはたかれた。
「佳奈!」
「……おかあ……さん?」
「よかった……! ごめんね、ひとりで留守番させてごめん」
抱きしめられた。うちの、玄関で。
大きな旅行バッグが肩からずり落ちて、床がどすんと鈍い音を立てた。
お母さんの手から数枚のプリントがパリパリ音を立てて落ちていった。いくつかの文字が目に映る。ホテル。火災。避難。搬送。怪我。やけど。――死亡。
いくつかの項目に分かれた表に名前が並んでいる。
そうだ。どうして忘れていたのだろう。昨夜、聞かされたばかりなのに。今朝、説明会に行ってくるとお母さんが出かけて行ったばかりなのに。
「……お母さん……紗英ちゃんは?」
お母さんはわたしから腕を離して泣き崩れた。
お母さんの震える肩を見下ろしながら、私は握りしめていた手をそろそろと開く。
写真でしか見たことがなかった身代わり人形があった。手のひらに収まるほど小さなその人形を両手で抱きしめると、かすかににおいがした。焚火のようなにおいだった。
(了)




