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24. 前略 雲の峰より

お題「ありがとう」

 前略 いま一度あなたに言葉を送りたいと思い、手紙をしたためます。


 このような遠く離れたところから、きちんとあなたの手元に届くのか不安ではありますが、届いても届かなくても、わたしにはそれを知るすべはないのですから、気にしたところでどうにもなりませんね。

 なにより、わたしにはもう時間がないのです。おそらく、これがあなたへ送ることのできる最後の手紙になるでしょう。


 ああ、それにしてもいったいなにを書けばいいのでしょう。伝えたいことが山ほどあるはずなのに、なにひとつ言葉になりません。うまく言い表せないという意味ではなく――いえ、あるいは、そういうことなのかもしれませんが――とにかく、この胸の内をどう伝えればいいのか途方に暮れてしまいます。心は急くばかりで、思いは心の壁を決壊し、わたしが掬い上げるその前に轟々と流れ出してしまうのです。


 ここは空気が薄く、息も浅くしかできません。このような高い山を登っているからでしょうか。ええ、きっとそうなのでしょう。頭がぼんやりしています。あなたに伝えたいことがうまく言葉にならないのもそのせいに違いありません。いま心に浮かぶ思いも、かつての記憶も、ひどく曖昧であやふやなのです。

 こうして文字を連ねていても、わたしがわたしでないような妙な心持ちになります。わたしの知らない誰かがわたしになりすましてこの手を使っているのではないかと勘繰ってみたりします。

 あなたに語りかけるこの言葉づかいさえ、いつもとは違うような気がするのです。けれども、ならばいままではどのような口調で話していたのかと思い出そうとしても、さっぱりわからないのです。頭の中に靄がかかったように、辺り一面ぼんやりとかすんでしまっているのです。

 それでもたしかなのは、どうにかしてあなたにこの気持ちを伝えたいということです。この、自分でも言葉にできないでいるこの気持ちを。


 ここはひどく静かです。さきほどまでは鳥のさえずりも聞こえていた気がするのですが、登り続けているうちに鳥たちが暮らす高さを越えてしまったようです。

 ここはかなりの高さです。さきほどまでは人々の気配を身近に感じることもできた気がするのですが、歩き続けているうちにふもとの人々とは別の世界に来てしまったようです。


 おや、靄が晴れていきます。目の前も頭の中もすっきりしてくるのがわかります。


 そうそう、あなたと大きな虹を見たことがありましたね。あれはいつのことだったでしょうか。

 例年ならばしとしと雨が続くじめじめした梅雨のはずなのに、あの年はいつになく激しい雨が、降っては止み降っては止み、と繰り返し、まるでよその国の天候のようでした。

 その日は、夕立が去ったあともまだ日が落ちるまで間がありました。一緒に商店街まで買い物に出たのですから、あなたはまだお留守番もできないくらいに小さかったのでしょうね。途中、屋根と屋根に挟まれた空の切れ端に虹の一端が見えたので、わたし達は行先をかえて高台の公園を目指しました。

 あなたは覚えていないかもしれません。

 公園のフェンスはわたしの胸ほどの高さしかなくて、あなたを抱き上げて景色を見せてあげましたっけ。

 高台といっても遥か彼方まで見渡せるほどではなくて、地平線は私鉄の線路でした。電車が右から左へ、左から右へと流れるのを包み込むようにして、大きな半円形の虹がかかっていました。

 たいてい虹というものは四半円で、端は薄れて消えているものです。けれどもあの時の虹は線路から線路まで色褪せることなくくっきりと鮮やかに半円を描いていました。

 両端が地上とつながっていたからなのでしょう、あなたはあの虹を渡りたいと言いましたね。けれどもみるみるうちに夕日に溶けていくものだから、今度はひどく心配をし始めましたね。今あの橋を渡っている人たちは落ちてしまうのではないかしら、と。

 見ず知らずの、いるかどうかもわからない人々を心配するような優しい子に育ってくれて、どんなに嬉しかったことでしょう。


 それからもあの公園によく行きましたね。


 夏の日は線路の向こうに大きな大きな雲がもこもこ連なっていて、あなたはその入道雲を登りたいと言いましたね。

 それはちょっと難しいかしらね、と答えたら、あなたはなんて言ったか覚えていますか? 長靴を履かないといけないかしら? と言ったのですよ。

 わたしは思わず笑ってしまいましたが、謝らなければなりません。なぜならわたしは今、長靴を履いていないことを残念に思っているからです。

 あの日のあなたが思った通り、入道雲は積もりたての雪のようにふわふわとしたものでできています。でも冷たくはありません。わたしは裸足ですが、冷たくもないし、痛くもないのです。

 優しいあなたのことですから、きっと心配してくれていることでしょう。でもだいじょうぶです。登っても登っても足は痛くならないし、疲れることもありません。ただ、なかなか頂に辿り着かないことだけがもどかしいのです。

 歩いても歩いても、登っても登っても、先に進んでいる感じがしません。

 ですから、わたしはしばし足を止め、あなたに手紙を書くことにしたのです。


 ああ。また靄が立ち込めてきたようです。わたしの心もまた曖昧にかすんでいきます。

 あなたとの思い出をもっと語りたかったのに、瞼の裏に映る情景がなにを表しているのかわからなくなってきました。そこにいるのはあなたのはずなのに、わたしの心はその姿が確かにあなただと言い切ることができません。

 もうこの入道雲を――雲の峰を登り始めた時から、地上の記憶が薄れていったのです。一足ごとに剥がれ落ちていったのです。

 今はもう、あなたの名前も思い出すことができません。たくさんの願いを込めてつけたはずの名前なのですが。たくさんの想いを込めて呼んだ名前なのですが。

 そのような感情はまだ鮮やかに残っているのに、その言葉だけは風に散ってしまったようです。


 先ほどは、ほんのひととき、剥がれ落ちたはずの思い出が舞い戻ってきて、あたたかな気持ちになりました。雲間から差し込む光に包まれたようでした。


 ああ……薄れて剥がれていきます。


 地上にいた頃は、星になったり風になったりするものだと思っていましたが、どうやらそうではないようです。おそらくわたしというすべてが剥がれ落ちて、散り散りになるのでしょう。どこにもなく、どこにでもある、そんなものになるような気がします。この世を織りなす形なき概念のようなものに取り込まれるような気がします。もしくはわたしが取り込むのかもしれません。

 なにもかもはっきりと言えないのは、誰かに口止めされているわけではなく、わたし自身、よくわからないのです。なぜこの雲の峰を登っているのかも定かではありません。


 いえ、違いますね。雲の峰を登らなければならない――それは確かなことなのです。

 ただ、どうしてわたしがそのようなことを知りえたのか皆目見当がつきません。あるいは、その理由もまた剥がれ落ちていったのかもしれませんが。

 いずれにせよ、わたしはここを登らなければならず、登れば地上のことは忘れてしまうのです。


 もしかすると、次の一歩ですべてが失われるかもしれません。


 今ならまだ、あなたが誰なのか、わたしとどのような繋がりがあるのか、そのようなことは既にわからなくとも、伝えたい思いがあるということだけはかろうじて残っているのです。それは最後まで剥がれ落ちることのない思いということなのでしょう。

 けれどもいよいよその思いがどのようなものなのかさえわからなくなってきました。


 頑張りすぎてはいませんか。

 きちんと泣けていますか。

 涙を拭ってくれる人はいますか。

 共に笑ってくれる人はいますか。

 今日を見つめていますか。


 さあ、もう行かなければなりません。いつしか頂はすぐそこに見えています。見えて……いるのでしょうか。わかりません。けれども近いことを感じます。そちらが遠いことも感じます。遠いはずなのに、これまでにないほど近くにも感じます。いったいなにが遠くて近いのでしょう。よくわかりません。わかりません。わかりませんわかりませんわかりま――




 あ……ほんのひとときの清澄が。


 ああ、そう。この思いを伝えたかった。



 ありがとう。あなたに会えてよかった――。



草々


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