23. 忘れ物
お題「忘れ物」
今日もクラスで一番に登校すると僕の席にポツンと置かれているものがあった。忘れ物だろうと思い、机にそっとしまう。
佐原さん。あなたは覚えていないだろうね。しっかりしているようでいて結構忘れっぽいところがあるから。だから僕のことなんてすっかり忘れているに違いない。
あなただけじゃない。きっとみんな僕のことなんて忘れてしまう。もしかしたら初めから僕がいることすら気づいていなかったのかもしれない。
だけど僕は忘れない。少なくとも佐原さんのことだけはずっと忘れない。
大袈裟だと思うかい? そうだよね、きっとわからない。あなたみたいに明るいところにいる人には。
三年前のあの頃、あなたは生徒会役員の任期が切れて、卒業までの半年を学級委員として過ごしていたね。あなたはいつもなにかに一生懸命だった。
あれはちょうど今くらいの季節だった。今年と違って秋という季節がもっと長く続いていたような気がする。
もう風が冷たいけれど僕は窓際の一番後ろの机に腰かけて窓の外を眺める。太陽の底が西棟の屋上にかかったところだ。眩しくて直視することができない。
「おはよ~。いつも早いな」
ヤマケンが斜め前の席の椅子を乱暴に引いた。クラスで唯一同い年のやつだ。
「うん。今はバイトをしていないしね」
「そっか。バイトやめたんだよな。受験勉強してるんだっけ?」
「まあ、ぼちぼちね」
「あと一年あるっていうのに、さすが全日制に行くはずだったやつは違うね」
「べつにそういうことじゃないよ」
僕は笑って答える。同じ言葉でも真顔で言うのと笑顔で言うのとでは印象が違うと教えてもらったから。
ヤマケンはバイト先の女の子がいかにかわいいか熱弁を振るっている。その熱心さがあまりにおかしくて、僕は時おり声を上げて笑ってしまう。
笑いすぎて仰け反ると夕日がちょうど顔にかかって眩しい。その眩しさになぜかすごくせつなくなる。
夕日は早くもその姿の半分ほどが西棟に沈んでいる。
この高校は校舎がコの字型に建っているため、向かい側に職員室や特別教室が入る西棟がある。一般教室は東棟にまとまっているし、西棟は定時制の僕たちが行くことのない校舎だ。この学校に三年近く通っているけれど一度も西棟に行ったことがない。きっと残り一年も行くことはないだろう。
ヤマケンが言うとおり、僕は全日制に行くはずだった。というか、受けるはずだった。インフルエンザにかからなければ。うん、あれはひどかった。後にも先にもあんなにボロボロになったことはない。トイレに行くのさえ死にもの狂いだった。
翌年に受験する手を考えなかったわけではない。一年遅れで全日制に行くのも、一年多く定時制に通うのも卒業できる年は同じだ。それでもその年に定時制の二次募集を受けたのは空白の時間を作りたくないという理由だけだった。
いや、そうじゃないな。少しでも同じ学校にいたかったんだ。不純な動機だって言われるんだろうな。もしかしたらヤマケンなら少しはわかってくれるのかもしれない。まだ同じ女の子の話をしているくらいだし。
もうほとんどその姿を隠しそうな夕日にたなびく雲が淡い朱鷺色のグラデーションを映し出している。屋上に掲げられた校旗がスルスルと降ろされていくのが逆光の中にはっきりとしたシルエットを浮かび上がらせる。
中学時代、僕には友達と呼べる人がいなかった。冷たくされるわけでもないし、バカにされるわけでもない。グループ分けの時だって最終的にはどこかに入れてもらえるし、特に困ったことはなかった。自分から話しかけたことはないけれど、話しかけられればそれなりに会話も成立していた。雑談なんかじゃなくて授業や行事、掃除当番なんかに関することだけれども。ただ、それっていないのと変わらないんじゃないかって思う。まさに空気みたいなやつってこと。
そんな僕を見つけてくれたのはあなただった。
美術の時間、ただ席が隣だったというだけで互いの肖像画を描くことになった。どのペアも「動かないで」とか「そっち向きじゃ描きにくい」とか注文をつけていたのに、あなたがつけた注文はひとつだけだった。
「笑って」
動いても構わないから笑えと言う。おもしろくもないのに笑えないと言ったら、「じゃあおしゃべりしながら描かせてよ」と返ってきた。「笑える話をしてくれるの?」って訊いたら「笑えなくても笑ってよ」と言う。めちゃくちゃだ。僕は思わず笑ってしまって、するとあなたは言ったんだ。
「ほらね、やっぱり笑った方がいい顔してる」
それから持ち時間の二十分をかけていかに笑顔でいることがいい効果があるのかを話し続けた。不思議なことに笑顔で話すと大した内容でもないのにとても楽しい気がした。
僕が笑うとあなたも笑って、そんなあなたを見ると僕はもっと笑ってしまった。結局あのデッサンは時間内に描きあがらなかった。そんなこともおかしくてやっぱり笑ってしまった。
あなたがこの高校を受験すると知ったから僕も真似をしたんだ。なのに受験に合わせてインフルエンザにかかってしまうなんて間抜けすぎる。
次の年またこの高校を受けてもよかったけれど、同じ時間じゃなくてもいいから少しでも早く同じ学校に行きたかった。だから驚いたよ。今、この席を昼間使っているのがあなただと知った時は。
あなたはしっかりしているようで結構忘れっぽい。時々ノートや教科書を机の上に置きっぱなしにしている。今日はクロッキー帳が置かれていた。いつもそこには几帳面なあなたらしくきちんと名前が書かれている。
──佐原亜衣
「巧~、さみーから窓閉めろよ~」
ヤマケンが鼻を赤くしている。
たしかに日が落ちるとかなり寒い。西棟の向こうにも宵闇が迫っている。
佐原さん。あなたは僕のことなんてすっかり忘れているに違いない。きっとあなたが僕に気付くことはない。でも僕が笑えるようになったのはあなたのおかげだってこと、いつか伝えられたらいいのにって思う。
僕はヤマケンの赤い鼻を指差して笑ってから窓を閉めた。
~ fin ~




