22. 早足スニーカー
お題「靴」
――これは「9 鏡」の続編である。
黒川要、小学校6年生。
朝からボクは危機に瀕している――らしい。
というのも、ボクにはこの状態が特に危機的状況とは思えないんだ。なのに黒川のやつがギャーギャーとうるさい。まあ、たしかに目の前にいるおじさんはちょっと怪しげではあるけれども。
初めから話そう。
学校へ向かう途中、空き家になっているお屋敷の横を歩いていた時だった。どこからともなく声が聞こえた。
『これは「9 鏡」の続編である』
――意味がわからない。
これがいわゆる空耳というやつに違いない。だけど声はお屋敷の庭から聞こえたような気もする。
庭と言っても手入れも何もされていないから、植木も草もぼうぼうに生い茂っていて、柵も錆びて折れて通り抜けられるようになってたりする。奥の方に洋館みたいな煙突つきの屋根が見えているけれど、手前には背の高い草がみっちり生えていてとても行き着くことはできない。
そんな幽霊屋敷みたいな空き家なんだけど、敷地がばかに広い。だから通学路を通ると、このお屋敷をぐるりと回らなくちゃいけない。たまに近道だからって通り抜ける子もいるけれど、ボクはそんなことはしない。
ルールってのは守るためにあるんだ。そのルールに従いたくないのなら、ルールを変えるしかない。ルールを変えられないのなら従うしかない。ボクはルールを変えるより守る方が断然楽だと思っている。いたってシンプルな理屈だ。
だから今日だって中に入る気はなかったんだ。
それがなぜこんなことになっているのかというと、大谷のバカのせいだ。
ボクは聞こえた声が本物なのか空耳なのかそれを確かめたかっただけなんだ。ちょっとお屋敷の庭を覗いてみようと数歩中に入ったけれど、すぐに引き返すつもりだった。なのに黒川の奴に見つかった。いつも遅刻ギリギリかギリギリ遅刻のくせに今日に限ってボクと同じ時間に登校するなんて。
「黒川、そこに入っちゃ駄目だ!」
真面目なボクがなぜあのちゃらんぽらんな大谷に注意されなければならない!? 意味がわからない。
しかも引き留めに来たつもりのあいつが庭の入口に立ちはだかっているもんだから、出るに出れない。どけと言えば、どかないと答える。「お前を行かせるわけにはいかないんだ」とかどっかのヒーローみたいな台詞を吐く。お前のせいで出れないんだと言うのさえあほらしくなる。
黙っているボクのことをどう思ったのか、大谷はグイグイ顔を近づけてきて脅すような声を出す。
「この先には妙なおじさんがいて、かなり面倒なことになるぞ」
「……近い」
「そうだ、この近くにいるかもしれない」
「近いのはお前だ、バカ」
言いながら距離を取ろうと後ずさるから、ボクはますます庭の奥へと入ることになった。
そして、大谷の言う「妙なおじさん」に出くわしたのだった。
「それでは願い事を――」
「鏡には触れてないぞっ!」
いきなり話し出したおじさんの声をぶった切るような勢いで大谷が大声を出した。そして得意げに足元を指差す。そこには手のひらサイズの手鏡が落ちている。
反射的に拾おうとするボクの手を大谷がペシリと叩いた。ムッとして口を開いた瞬間、おじさんが「ムムムッ!」と顔をしかめたので言い返す気力をそがれる。
勝ち誇ったようにニヤリと笑みを浮かべる大谷。「フ~ム」と唸りながらナマズみたいな髭を摘まんでくるりんと跳ね上げるおじさん。意味がわからない。
おじさんはマジシャンかなにかみたいな恰好をしている。つばのある帽子、コートみたいに丈の長いスーツ、そしてステッキ。うん、確かに「妙なおじさん」に違いない。
なるほど、大谷はこの不審者がいることを知っていてボクを行かせまいとしてくれたらしい。引き留め方を間違ってはいたし、結果的には妙なおじさんに出会ってしまったが、大谷の好意には感謝すべきだろう。しかしそれはここを出てからだ。
けれども出口というか入口というかともかくこの庭に入ってきたところへ戻る道は細い一本道でその両側は雑木林になっている。ちょっとしたハイキングコースみたいな感じだ。なにが言いたいかというと、大谷がどいてくれるか回れ右をして歩き出してくれない限りここから出られないということだ。
なのに大谷はこのボクを挟んでわけのわからないおじさんと意味不明の問答を始めてしまっている。
「え~、つまり、あれですな。君が言っているのは私のことではないですな」
「い~や。どう見たってあんただろ。同じような奴が何人もいてたまるか」
「オホン。それでは願い事を――」
「だから鏡をこすってもいないし、拾っていもいない!」
「はて? 鏡? なんのことです? 私はただ望みを叶えて差し上げようとしているだけですよ? あなたのおっしゃることはわかりかねますが」
「とんちんかんなことを言って誤魔化そうったってそうはいかないからな」
「とんちんかん……いいえ、私は三つ子ではありません。双子です。おそらくあなたがおっしゃっているのは兄のことでしょう。はい、そうですね、そういうことにしておきましょう」
「……なるほど。そうだったのか」
大谷は納得したらしい。
え? いいのか? だって、このおじさん「そういうことにしておきましょう」って言ったぞ?
それから大谷はボクに耳打ちした。
「まずい。これは不測の事態だ。俺たちは今、危機に瀕している」
これでようやく冒頭にもどるわけだ。
おじさんはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ナマズ髭を摘まんでくるりんと跳ね上げた。意味がわからない。おじさんも大谷も。
「さて。今日は何を出してほしいのですかな?」
おじさんは胸を張り出し、顎を突き出した。姿勢を正したつもりのようだ。
決め台詞が変わっているような気がするけど、いいのだろうか? あ、そうか、双子ってことにしたから台詞を変えたのか。でもそれまでのキャラはどうするんだ? なかったことにするのか?
ボクがこのおじさんのどこに疑問を抱けばいいのか疑問に思っているうちに、大谷は再びおじさんと対峙している。
「何か出してくれるのか?」
若干楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。そうか、バカって順応性が高いんだな。
「はい。お望みとあらば」
おじさんはそう言って、コートみたいに丈の長いスーツのボタンをはずし始めた。身を乗り出し興味津々の大谷。
あ、これ、あれだろ、お父さんやお母さんが子供の頃によく出くわしたっていうヤバいおじさん。コートの前をバッと開くと――
「わぁ!」
大谷が大声を上げる。
ほら、言わんこっちゃない。いや、まだなにも言っていなかったけど。
でも一応ボクも見てみる。――おじさんのおなかに半円形の大きなポケットがついていた。
意外にもシャツは着ている。ヤバいおじさんと同じだと思ってごめん。ボクは心の中で謝る。
「まさか、これって、あれのつもり? 異次元につながっているやつ」
大谷がポケットに顔を近づけると、おじさんは恥ずかしそうに頬を染めてスーツの前を合わせ、身体をくねらせた。
おい、なんだそれ。自分で見せといて恥じらうってなんだよ? それ以前にどこに恥ずかしい要素があるんだよ? 意味がわからない。っていうか、もうこれ、遅刻だよ……。
これならこの妙なおじさんと大谷のせいにして遅刻したことにできそうだ。けして体育がいやで遅刻した訳じゃない。50m走のタイム測定が嫌で遅刻したわけじゃない。ボクのせいじゃない。これは不測の事態なんだ。
うん、そうだ。大谷だってそう証言してくれるはずだ。だってこいつが言ったんだから。「これは不測の事態だ。俺たちは今、危機に瀕している」って。
ありがとう、大谷。ボクは君に感謝するよ。君はスポーツが得意なだけのバカで、子供会の肝試しもビクビクして一人で歩けないようなやつだけど、ボクは君に感謝するよ。口には出さないけどね。
大谷はまたもや耳元に口を寄せてくる。
「なあ、やっぱこいつヤバいぞ」
ボクは深く共感し、大きく頷く。
うん、知ってる。とっくに知ってるよ。大谷隼人くん。だから青ざめた猫の真似をする妙なおじさんの相手はこれくらいにしてそろそろ学校に行こう。そして遅刻のいいわけをしてくれ。
その時だった。おじさんが片手をおなかのポケットに突っ込み、高らかに歌い始めたのだ。
「テッテケテッ……」
「わーーーー!!!」
「それ以上は駄目だーー!!」
ボクたちは慌てておじさんに飛びつき、口を手でふさいだ。
「……なにごとですか?」
きょとんとするおじさん。我に返るボクたち。
あれ? どうしたんだろう? ボクたち、なんでこんなことを……?
よくわからないけど、なんかすごくまずいことが起こりそうな気がしたんだ。それこそ本格的な危機的状況に陥りそうな……。でも、たぶん、きっと、回避できたと信じている。意味がわからないよね。うん、大丈夫、ボクも意味がわからないから。わかるはずないよ、だってきっと危機なんてなかったんだから……。まあ、もしかすると、近い未来に神様かなんかの力でこのシーンだけなかったことになるかもしれないけどね。
なんてことはさておき。おじさんの手には一足のスニーカーが。頭上高く掲げられていた。
「早足スニ~カ~!!」
抑揚をつけて叫ぶおじさん。
「これを履けば誰よりも早く走れるんだ!」
急に砕けた口調になるおじさん。誰だ、こいつ。あ、いや、もともと知らない人なんだけど。
ヤバい。本格的にヤバいぞ、このおじさん。
大谷と顔を見合わせる。無言で頷き合う。そして、出口に向かってダッシュ!!
当然、スポーツの得意な大谷はまさに風のように走っていく。ボクはといえば、早足スニーカーをもらってこなかったことを後悔してしまうくらい足が重い。気持ちが焦れば焦るほど足は地面に吸い付くように重く、大谷の背中が遠のいていく。
「待って!」
ついにボクは声を上げた。振り向く大谷。
「黒川、急げ!」
「これ以上早くなんて走れないよ」
「ひざ下で走ろうとするな、足の付け根から動かせ! 腕を振れ!」
ボクはただ言われたとおりに体を動かした。それだけでスッと足が地面から離れるようになる。
「後ろに砂をかけるつもりでつま先を蹴り上げろ!」
身体が前へ前へと流れていく。軽い。なんだこれ。
「いいぞ。もう出口だ!」
ボクたちはお屋敷の庭を出ても足を止めず、学校まで一気に走った。いつもなら途中で立ち止まってしまいそうな距離なのに、どこまでも走り続けられそうな気がした。
大谷がスピードを落としてくれているのか、ボクが早いのか、もう離されることはなかった。
チャイムが鳴る。ギリギリ遅刻せずにすんだようだ。
「よし、教室まで走るぞ!」
大谷が昇降口に駆け込む。ボクも急いで追いかける。
50m走のタイム測定が楽しみになっていた。早足スニーカーなんて貰わなくてよかった。
だいたい、早足って歩くことだろ? 役に立たないじゃないか。ほんと、意味がわからない。
~ おしまい ~




