2. ホムの空
お題「空」
――寒い。
布団の中で膝を折り、両足を抱え込む。
なんだか昨日から妙に足が冷える。
もともと冷え症ではあったけれど、それにしたって寒い。
布団の中で丸まっていても、もこもこのソックスを履いてみても、こたつに足を突っ込んでみてもちっとも温まらない。
昨夜なんて、いつもより熱めに沸かしたお風呂のお湯の温度すら感じなかった。両手や身体はちゃんと温まるのだから、足の感覚だけが失せているのだろう。
病院に行った方がいいのだろうか。診療科はどこだろう。神経科なのかな。となると、大きな病院じゃないと。大きいところは待ち時間が長いんだよねぇ。
昨日自分のデスクに積み上げたままにしたファイルの山を思い浮かべる。やっぱ、だめだよね~。休めないよね~。
しぶしぶベッドから這い出て身支度を整え始める。
タイツの上からソックスを重ね履きする。そして厚手の生地のマキシスカート。足元はムートンブーツ。
こんなラフな服装で許されるのは、外部の人といっさい接触しない入力室勤めならでは。
これだけ重装備でいても足が冷える。
ほんの一箇所に不都合があるだけで全身の具合が悪いような気がしてくる。
ファンデーションを手に取ることすら億劫で、化粧水を雑にびちゃびちゃと叩きつけただけで、使い捨てマスクを装着する。これでどうせ目元しか見えない。だいたい誰がいちいち私の顔など確認するだろう。
髪を梳かすのもそこそこに家を出る。
外に出ると一段と冷える。どこがって足がだ。上半身よりも格段に冷える。どちらかといわなくても下半身の方が明らかに厚着をしているのに。
寒さ……というよりは冷えを紛らわすためにのしのしと大股で歩く。そのおかげかほんのり温まってきた気がする。冬晴れの朝日が暖かなせいかもしれない。
日射しを全身に受けようと空を仰ぎ見る。
雲ひとつない青空は冬の街を閉じる蓋のようにのっぺりとしている。
「あれぇ?」
職場に着くなり、同僚が私の全身をくまなく眺めつつ問いかけてくる。
「今日はスーツどうしたの?」
「え?」
どうしたもこうしたもない。スーツなんか着てきたことないじゃないか。
「あ。もしかして、それで調子悪いの?」
それでとはどれだ? だけど足がひどく冷えて、たしかに調子がいいとは言えない。
「調子はよくないね」
彼女は「だよね。それの様子じゃそうだよね」と妙に納得してお悔やみの言葉を述べるかのような神妙さで「お大事に」と言い残し去っていく。
いったいなんだったのだろう、と考えるでもなく考える。
コートをロッカーのハンガーにかけていると、また別の同僚が出勤してきた。
「おは……」
挨拶の途中で静止する。
「おはよう。なに? どうかした?」
私が声をかけると、彼女はほうと大きく息を吐いた。
「ああ、なんだ、結構大丈夫なもんなんだね」
「ん? 大丈夫だけど、なにが?」
「だって、スーツが……」
またか。この格好のどこがスーツだというのだろう。
「スーツなんかじゃないけど?」
「スーツって、そのスーツじゃなくてさ」
さっぱりわからない。
「どのスーツよ?」
とりあえず聞いてみる。
「どのって、ホムのスーツにきまっているじゃない」
「ホム?」
そんなブランドあったっけ?
「……もしかして、そういう支障が出るんだ?」
どういう支障? 私が首を傾げていると、彼女は慌てて私の姿勢を正す。
「いや、いいから。気にしなくていいから、大人しくしていたほうがいいよ」
改めて言われなくても暴れたりなどしない。
「いつから?」
心配そうに覗き込んでくる。
「え? わかるの?」
「見ればわかるよ」
そんなに厚着をしているだろうか。
「えっと、昨日からかな。たしか昨日の帰りの電車を降りた頃からだった気がする。やけに冷え込む夜だなと思ったから」
「電車でなにかあった?」
「なにかって、特には……」
といいかけて、ふと思い出す。
「あ。いや、でもあれはなんの関係もないし」
「言ってみて」
「うん。でも本当に冷えとは関係ないよ。旅行帰りらしき人がいてね、網棚にお土産の紙袋を置いていたの。で、降りる時にそれを取ろうとして、私の頭にゴンッとぶつけたのね。結構痛かったな」
私が思い出して苦笑すると、彼女は自分が痛むかのように顔を歪めた。
「それだよ、間違いない」
意味がわからない。頭を打ったから? そんなことで?
「ホムの空がなくなっているの、気付いてる?」
「ホムの空? 言っている意味が……」
彼女はロッカーの扉を大きく開いて、内側についている鏡を私に向ける。
促されるままに覗き込むと不安そうな私の顔が映った。
私の……顔?
いや、なにかが違う。
「ほら、もうちょっと屈んでみ?」
肩を下へと押され、わずかに膝を曲げる。
頭の上の方が見え……なかった。頭頂部がなかった。
河童のお皿のような形に穴が開いていた。
そして、中からぬめりとした小さななにかが覗いてる。
見えているという意味ではない。文字通り「覗いて」いるのだ。一度も日に当たったことのないような白い肌の――小人。濡れているのか、粘膜に覆われているのかぬめっとした――。
鏡越しに目が合った。小人と鏡の中の小人の目が。
「ね? 肉体に穴が開いちゃってるのよ」
彼女が気の毒そうに言う。
とっさに両手で頭頂部の穴を覆う。すると意識が、記憶が、はっきりとした。
ああ、そうだ。私の本体はホム。さっきまで「私」だと思っていたのは肉体。
肉体の頭部に私は住んでいるのだ。小さな世界に。やわらかな地と、半球で覆われた空に囲まれた世界に。その空の一部が失われ、外気にさらされていたのだ。
ホムがそのままの姿で生きるには、今の世は穢れすぎている。幼い頃に習った歴史の授業を思い出しつつ、私は改めて鏡を覗き込む。肉体の両手を「空」から外し、私は鏡を覗き込む。
白い肌に見えたところは皮膚が乾いて剥がれかけていた。既に外気にやられている。
なぜ。なぜ誰も教えてくれなかったのだ。
昨日電車で「空」を失った時から周りには多くの人が溢れていたのに。あの時気付いて穴を覆っていれば……代わりの「空」で代用していれば、これほどまでホムが感染することはなかっただろうに。
ホムが震える。すると肉体の胸がきりりと収縮した。
もうおしまいだ。
肉体の目から無色透明の液が流しだされる。
ああ、肉体の機能はまだきちんと働くのに。
足元が冷えた時に気付くべきだったのだ。「空」のてっぺんがなんの感覚と繋がっているのかを。
いや、無理だ。既にホムの存在を認識できないほどに破損していたのだから。
くずおれる私の肉体を彼女の肉体が見下ろしている。そして彼女自身のハンカチを広げ、私の「空」としてくれる。
「ありがとう……」
そう呟いたのは肉体だったのか、ホムだったのか。
私の意識は曖昧に輪郭を失う世界で揺らぎながら蕩けていった――。
~ fin ~