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19. 坂道と日傘の女

お題「坂道」

 頭が重い。二日酔いの症状に似ているが、昨夜酒を飲んだかどうかが思い出せない。そのあたりもまあ二日酔いの症状らしいといえなくもない。

 ともかくも起き上がろうと上体を起こすと、思いのほか身体が軽い。飲みすぎたわけではないのか、それにしては頭がだるい。


 起き上がってはみたものの、思考回路が途切れている。つまりここがどこだかわからない。

 ベッドの上であるから室内である。病院やホテルでもない。生活感満載の――はっきりいえば散らかり放題の――古びた部屋である。かわいらしさの欠片も見当たらないので、女の部屋に転がり込んだわけでもなさそうだ。記憶はないが、とりあえず面倒な事態はさけられたとみえる。友人の部屋でなければここは自室だろう。そしてこの年季の入った乱雑ぶりからすると実家なのだろう。

 いったいいつから掃除をしていないのか、窓の桟や部屋の隅に埃がたまっている。埃の中に車の形をしたどぎつい色の消しゴムが横転しているのが見える。昨夜の記憶はないが、その消しゴムをノック式のボールペンを使って滑らせて遊んだことは覚えている。いや、遊んでいるのを見ていただけだったか……。まあ大した違いはない。


 一瞬、高齢者に多い脳疾患の名前が頭をよぎる。若年性――。いや、まさか。まだ寝惚けているだけだろう。そう思うと少し気が楽になった。


 そうだ。俺はすぐに面倒事を軽く解釈する癖があるのだ。そのことを指摘したのは誰だったか……。やはり記憶にない。記憶にはないが、どうせそんなことを言うのは口うるさいやつに違いない。思い出せなくても構わないだろう。


 ここが実家だとすれば、家族と顔を合わせるまでにこの曖昧模糊とした頭の中をどうにかしておかなくてはなるまい。ただの寝惚けた状態を大袈裟に受け止められては面倒だ。


 ともかくも外を見てみようと窓に目をやるが、黒ずんだ木製の格子に細かな凹凸のある模様が彫られた硝子がはまっていて、曇り硝子のような状態で外が見えない。ネジ締め錠を指先でくるくると回してガタガタ騒がしい窓を開けると、この部屋が二階であることが判明した。


 外は蝉の声が溢れている。家の前の雑木林そのものが鳴いているかに思えるほどだ。窓を開ける前から聞こえてはいたが、思った以上に騒がしい。油蝉、ミンミン蝉に混じって(ひぐらし)の声も聞こえる。

 日の位置が低いからてっきり午前中だと思っていたが、もう日暮れ時だったのか。こんな時間まで寝ていたとは、俺はよほど疲れていたのだろう。なるほど、なにやら長距離を走りきったような、もしくは長旅をしてきたような心地よい疲労感があるような気がしなくもない。


 ふと蝉の声がやんだ。


 空もふいに暗くなった気がして見上げてみるが、夕立の気配もない。ひんやりとするのにやけに粘り気のある風が吹く。その風上を見やると、三軒先の家があったところに坂道ができていた。


 坂道――と言って差し支えないだろう。しかし、舗装された道路などではなく、防空壕の入り口のような横穴があいていて、その穴が下っているのだ。

 普通なら坂道とは言わないであろうその道が確かに坂であると私は断言できる。なぜかはわからないが、確信があった。ただ、この辺りは平地で、高台でもなんでもない。あの下り坂はどこへと続いているのであろう。


 身を乗り出すと、その坂を上ってくる人影が見えた。白い日傘を差した女だ。こちらの方が高い位置にあるため、女の顔は日傘に隠れて見えない。


 気になる。非常に気になる。


 俺はさらに身を乗り出す。しかし、逃げ水のように坂道も女も消え、民家が現れた。と同時に蝉の声も聞こえる。


 なにかを思い出せそうな気がした。


 蝉が静まる。薄暗くなる。


 ――来る。


 案の定、忽然と坂道が現れた。一軒分近づいている。ただし、今度は道の真ん中だ。それでもあの入り口はこちらを向いている。白い日傘の女もいる。


 ――こっちを向け!


 女が日傘をくるりと回し、背負うように傾けた。顎を上げる。目が合う。特に美しくもなんともないありふれた娘だ。しかし――。


 坂道が消える。女も消える。蝉しぐれ。


 なんだ? なにが起こっている? あの娘は誰だ? かなり好みだ。


 静寂。薄雲る。坂道。日傘の女。


 また近づいている。そして見上げた女の顔が歳を経ている。


 消える。現れる。近づく。消える。現れる。近づく。消える……。


 現れる。玄関先へ。女が見上げる。目が合う。微笑みを向ける。

 皺だらけだ。老婆の顔だ。だが、こいつは()い女だ。そう、俺にはわかる。


 女が手招きする。俺は頷く。階下へ向かう。まだ足元がおぼつかない。力が入らない。よろよろと階段を下りる。よぼよぼと廊下を進む。仏間の前を通った時、布団が敷かれているのが見えた。近づき、寝ている人の顔を覗き込む。


 ――俺だ。


 あれだけ曖昧模糊としていた記憶が磁石に集まる蹉跌(さてつ)のようにものすごい勢いで吸い寄せられてきた。

 身体のどこも悪くはなかった。だから息子夫婦は俺をおいて出かけたのだろう。今日に限ったことではない。ただ今日に限って俺が起きなかっただけだ。

 二階のあの部屋は俺の部屋ではない。息子の――いや、孫の部屋だ。その孫もいまや人の親で、ここには住んでいない。なるほど埃だらけにもなるはずだ。


 玄関引き戸の硝子に白い影が映っている。ガラリと開ければ女が立っている。笑みを浮かべ俺の名を呼ぶ。名を呼ばれたので、おうと答える。


「迎えに来ましたよ」


「ああ。待たせたな」


 女の名を呼び、差し出された手を握る。

 玄関を出るとそこは坂道の入り口だった。

 道標がある。石塊に文字が刻まれただけのものだ。その形からして古くよりあるものと知れる。刻まれた文字も薄れている。


 ――よ……ひ…さか。


 坂を下り始める。背後で響き始めた蝉しぐれに気が遠くなる。蜩の声が(りん)のような高く澄んだ()を奏でる。



 暮れていく。今日という日が終わろうとしている。


 さぁて。ゆっくり眠るとしよう。





   ~ 了 ~

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