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18. コーヒーと煙草とCDと

お題「コーヒー」

 インスタントコーヒーは酸味が強くて少し苦手。豆を挽いてドリップしたものならおいしいと感じることもある。私のコーヒーへの嗜好はその程度だ。だけど香りは好き。



 嗅覚は他の感覚とは違い、直接古い記憶や感情と結びついていると聞く。なるほどと思う。あれからもう二十年余りが過ぎたというのに、記憶――ことに感情の記憶というものはなかなかしぶとい。


 けれども特定の記憶を呼び覚ますのは結構条件が厳しい。ただコーヒーの香りというだけでは甦らない。コーヒーはドリップした香りでは駄目だし、煙草もほかの銘柄の匂いでは駄目だ。オーソドックスなインスタントコーヒーの香りと、ある特定の銘柄の煙草の匂い。


 ごくまれに職場の喫煙所の前を通るとこの匂いに立ち止まってしまうことがある。そんな時私は懐かしく甘い痛みにしばし酔いしれる。



 今ではそんなことはないのだろうけれど、私が高校生の頃は職員室での喫煙は特別なことではなかった。煙草が身体に及ぼす害については教育がなされていたし、当然未成年である生徒の喫煙だって見つかれば厳重注意だった。学校によっては自宅謹慎の処罰なんてものもあったように思う。でも成人である教師の喫煙は普通に行われていた。当然職員室内に限ったことではあったけれども。

 今みたいに世間が禁煙を推奨する向きもなく、教師に限らず私の周囲の成人男性のほとんどは喫煙者だった。そしてなぜか例外なく彼らはコーヒーが好きだった。後年になって煙草とコーヒーの因果関係はないらしいと知ったが、私の印象としては煙草とコーヒーは対になっている。



 職員室を訪れると安藤先生はいつも紫煙をくゆらせていた。あの頃私はなんとか先生との接点を持ちたくて、わざと遅刻してみたり、忘れ物をしてみたり、持ってきてはいけない物をこれ見よがしに持ち歩いたりしていた。


「こら~、祥子~。おまえはまた~」


 そう言って軽く小突かれては拗ねてみたりして。


 田中という姓はありふれていて、クラスに三人もいたから、どの先生も三人の田中のことは下の名前で呼んでいた。私はずっとこの苗字が好きではなかったけれど、安藤先生に下の名前で呼び捨てにされるのなら、田中って名前も案外悪くないなんて思ったものだった。


 誰と貸し借りするのでもなく、ただ安藤先生に叱られたいがためだけにCDやらマンガやらを持ってきては没収されていた。遅刻や忘れ物、服装の乱れなどはその場の注意だけで終わってしまうけれど、没収されたものは受け取りに行かなければならない。下校前に職員室に寄って安藤先生と一対一で言葉を交わすことができるのだ。


 放課後の職員室にいる教師は多くはない。別の部屋でなにか作業をしていたり、部活動の顧問をしていたりで空席が目立つ。


 私がドアをノックして職員室を覗き込むと、安藤先生が窓辺の席で夕日を背にしてヨッと片手を挙げる。私が近づくと、咥えていた煙草を一口二口吸ってから灰皿に押し付ける。骨ばった大きな手で辺りの空気を払い、「煙草臭くて悪いな」とたいして悪びれてなさそうに言うのだった。


 まだパソコンがそれほど一般的でなかったあの時代、先生の机の上はプリントやファイルなどの紙類や筆記用具が散らかっていた。

 飲みかけのコーヒーの香りが漂っている。それはコーヒーカップどころかマグカップですらなく、なぜかお寿司屋さんにあるようなバカでかい湯のみだった。

 魚偏の漢字がずらりと並んでいる模様で、先生は時々思いついたように「これ、なんて読むかわかるか?」と聞いたりした。私は国語が苦手だったけれど、先生の湯のみにある漢字だけは気になって、魚偏の漢字だけはきっと誰より詳しかったと思う。でもそんなことを知られるのは恥ずかしくて私はいつも「そんなのわかるわけないじゃん。先生は読めるの?」と切り返していた。先生は読めたり読めなかったりした。


「国語の先生なのに、そんなことでいいの?」


 とからかうと、


「そういじめるなよ~」


 と情けない声を出すのがかわいかった。


「ほら、これ。もう持ってくるなよ」


 そう言って、没収したCDを返してくれる。


 先生の目に留まることを意識してCDを選んだりした。


「いいよな、このアルバム。俺もこのアーチスト好きなんだよ。でもまだ買っていなくてさ」


 とか言われると、無造作に受け取る振りをしながらも口元が緩みそうで困った。


「貸してあげようか?」

「え? マジで? あ、でもな~、持ってきちゃいけないやつだもんな~、それを先生が借りるってなしだよな~」


 なんてたいして葛藤していないように頭をかかえてみせてから声をひそめて言った。


「ほかの先生には内緒な。明日には返すから」

「安藤先生はダメ教師だなぁ~」

「それを言うなよ」


 CDの貸し借りだなんて友達かそれ以外のなにか特別な関係みたいで、軽口を叩きながらも胸の奥が妙にムズムズしたのだった。


 差し込む夕日に目を細める先生のまつ毛が案外長いことや、内緒話をするために近づいた時に匂うコーヒーの香りの息。

 たぶん他の生徒が知らない安藤先生を私は知っている。グラウンドのざわめきをBGMに私はドラマの主人公にでもなった気分だった。



 あの頃あんなに大人に見えた先生は、私より十ほど年上なだけだった。あっという間に私はあの頃の安藤先生の年齢を追い越した。だけどもちろん、先生にも同じだけの時間が流れていて、私たちの距離が縮まることはない。


 私の年齢はあの頃、先生の車の助手席にいた女性と同じくらいになった。



 ある日の放課後、例によって職員室を訪れたが安藤先生の姿はなかった。少し席を外しているだけだろうと思い、先生の席に近づくと湯のみにはコーヒーがまだ半分ほど残っていて、いつものインスタントコーヒーの香りを漂わせていた。

 やはりすぐに戻るだろうと確信しかけたところで、湯のみで押さえられたメモが目についた。



   田中祥子へ

     用事があるから今日はもう帰る。

     CDまた貸して。月曜日に返す。悪い。

                  安藤



 こんなことは初めてではない。会えなかったことに落ち込みながらもおとなしく下校した。


 当時の公立高校の休みは日曜日とあとは土曜日の午後だけだった。

 明日は安藤先生に会えないのか。そう思うと無性に淋しさが襲ってきて、それをどう解消すればいいか思案した挙句、近所のスーパーでインスタントコーヒーを買って帰った。少しでも先生を身近に感じたかった。


 スーパーを出たところで、駐車場に停められた車から一組の男女が降りてくるのが見えた。

 男性の方は安藤先生だった。心臓がドクンッと跳ね上がった。

 女性が笑顔で話しかけている。「なにが食べたい?」口がそう動いた。

 先生がなにか答えると、女性は笑いながら先生の肩を叩いた。先生は女性の頭をクシャクシャと乱暴に、けれども愛おしげに撫でてから肩を抱いて店内に入っていった。


 会社員も週休一日というのが一般的だった。私の父も日曜日しか家にいなかった。きっと多くのうちが同じような感じだったろうと思う。


 よせばいいのに、私はスーパーの入口まで戻った。


 安藤先生の持つかごに女性が次々と食材を入れていくのが見えた。


 女性は、クラスメートのお母さんだった。


 私は特に考えもなしにフラフラと先生の車に近寄った。停めたばかりの車からはねっとりとした熱気が立ち昇っている。


 フロントガラスの向こうに今日没収されたCDのケースが見えた。




 インスタントコーヒーは酸味が強くて少し苦手。豆を挽いてドリップしたものならおいしいと感じることもある。私のコーヒーへの嗜好はその程度だ。だけど香りは好き。






       ~ 了 ~

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