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16. あなたの声を聞きたくて

お題「電話」

 ――たった一度だけ、生者と死者が語らうことができる。


 そんな噂を聞いたのはどこでだっただろうか。おそらく入院中に誰かから聞いたのだと思うのだが、はっきりしない。


 その噂に限らず、あの事故から今までの記憶はすべて曖昧だ。目に映るもの、耳に響くもの、肌に触れるもの、それらはなにひとつ心に届かない。私の心はあの事故の瞬間から震えることをやめたのだ。


      *


 友也とふたりで同じ病院に運ばれたが、病室は別々であったため顔を合わせることはできなかった。

 私の方が早くに病院を去ることができたから、それからは毎日友也の病室へ通った。人工呼吸器の口元を止めたテープの端が少しめくれあがっているのが気になってそっと押さえてみたりもした。

 点滴のチューブや心電図のコードなどに繋がれた友也は時おり瞼をピクピクと震わせ、その下で必死に視線を彷徨わせているのがせつなかった。あれはきっと夢を見ていたのだ。事故の夢を。


 長年ペーパードライバーだった友也にせがんでレンタカーでの旅行がしたいと言ったのが間違いだった。電車や飛行機の時間にしばられず、ゆったりとしたふたりの時間を過ごしたかっただけなのに。


 動物の出没注意の看板を見かけてはそれだけで気分が高揚した。黄色い標識に走る鹿のシルエットを見た時も、まるで動物園の案内板を見るような感覚だった。


「鹿が出るんだって。見られるかしら」


「さあ。どうだろうね。鹿だって車の音は怖くて近寄らないんじゃないかな」


 そんなのんきな会話をした直後だった。

 大きな影が前方右側のガードレールを飛び越えて来た。鹿だ。瞬時に心が浮き立った。

 しかし、鹿は着地した途端、ハッとしたようにこちらに顔を向け、その場で硬直した。


 私の叫び声と重なるようにしてタイヤも悲鳴を上げた。車はほとんどその場でくるりと回転し、その勢いのままガードレールに突っ込む。車体は横転し止まった。

 車道からそれほどの落差はなかったが、身体のあちこちをぶつけたらしく、全身がひどく痛んだ。朦朧とする意識の中で全神経を瞼に集中し、どうにか視界を確保すると、額から血を流している友也が見えた。


「とも……や……」


 耳の奥が膨張したように痺れていて、自分の声の大きさも定かではない。けれども声にはなっていたらしく、友也の顔がゆっくりとこちらを向いた。


「香織」


 自分の声はよく聞こえないのに、友也が呼ぶ声ははっきり届いた。目が合う。こんな時なのに――こんな時だからこそ――この人のことが大好きだ、と思った。そして私は友也を想いながら意識を手放したのだった。


      *


 ――たった一度だけ、生者と死者が語らうことができる。


 そんなことが本当にできると信じているわけではない。それなのにここまで来てしまったのは、それがインチキだろうと気安めだろうと構わないと思ったからだ。互いの名を呼び合ったあの瞬間が最後だなんて悲しすぎる。


 ベッドの上の友也は夢の中で私を探していたのだと思う。その目を開けてさえくれれば目の前にいたのに、あの日々の中で彼の瞼は開くことはなかった。




 そうして私はここにいる。


 どうしてこの場所を知ることになったのか判然としない。友也との別れからずっと私の世界は歪み、そして揺れている。けれどもたしかに私は辿り着いた。


 私が知らないだけで有名な施設だったようだ。二階建ての温泉旅館のような建物の前には長蛇の列ができていた。誰も口をきかない。もしかしたら怪しげな団体なのかもしれない。並んでいる間にそう思わなくもなかった。それでも構わない。そう思ってゆるゆると進む列に並び続けた。


「どうぞこちらへ」


 仲居のような女性がやはり仲居のようなしぐさで部屋へと導いてくれる。怪しげな団体どころか、これはもしや普通の旅館なのではないかと思う。だが、そうだとすると外に並ぶ人々の説明がつかない。ともかくも行ってみるしかない。


 廊下は細く長く入り組んでいる。この建物は随分と広い。外観からはわからないものだ。


「こちらになります」


 仲居はひとつの部屋の前で立ち止まり、格子戸を音もなく引いた。靴脱ぎ場があり、すぐ目の前に半間の襖があった。仲居は格子戸より内に入る気はないらしい。廊下で深くお辞儀をすると、すいっと去っていく。


 なんの説明もないが、入るしかあるまい。私はおそるおそる襖を開ける。

 六畳間だった。なぜ一目で広さがわかるのかといえば、それは和室だからである。畳が六枚敷き詰められているのだ。ただそれだけの部屋である。旅館ならばどの部屋にもあるはずのお膳や座椅子などはない。それどころか窓ひとつないのだ。これではまるで座敷牢ではないか。

 その部屋の真ん中にぽつんと黒電話がひとつ置かれている。ダイヤル式のあれである。


 これでどうしろというのだろう。説明不足もいいところだ。躊躇いよりも苛立ちが上回りそうになったところで、電話がジリリンと鳴った。肩が跳ねあがる。と同時に受話器に飛びついた。


「――はい」


 どれくらいぶりに声を出したのだろう。たった一言が喉に引っ掛かって掠れた。

 受話器の向こうでヒュッと息を飲む音がする。


「――香織?」


 友也の声だ。目の奥が熱くなる。


「友也……」

「ああ……香織だ。香織の声だ」

「うん……うん……」

「本当に繋がるなんて」

「ね」


 受話器を挟んで静かな笑い声が重なる。

 ああ、幸せだ。声が聞こえる、ただそれだけのことなのに。そこにいると思えることが幸せだ。


「香織、ごめんな」

「どうして友也が謝るの? 私が車で行きたいなんて言ったのがいけなかったのに」

「いや、僕の運転が……」

「やめましょう、こんな話。時間がもったいないわ」

「うん。そうだね。時間……って決まっているんだろうか」

「さあ。なにもわからないの。友也も?」

「ああ、わからないよ。なにも。どうしてこんなことになってしまったのかも。あ、いや、それは事故を起こしたからなんだけど」

「だから、もうやめましょう」

「――許してくれるの?」

「許すもなにも、初めから友也が悪いなんて思っていないわ」

「――ありがとう。大好きだよ、香織」


 耳元で友也の声が囁く。


 ああ、そうだった。私はこの言葉を聞きたかったんだ。


「大好きだ」


 友也が繰り返す。


 もう会えない。わかっている。だから最後にまたこの言葉を聞きたかったんだ。

 そして、最後に言いたかったんだ。


「私も大好きよ、友也」


 電話の向こうで友也が微笑んだのがわかった。


 ――もう、これでいい。きりがないもの。


「ずっと大好き」


 ふたりの声が重なった。


 別れの言葉で締めたくなかった。だから私はそのまま静かに受話器を置いた。チンッとまるで仏壇の(りん)のような澄んだ音が鳴る。


 漂ってくる煙に包まれる。お線香の香りだ。

 壁しかないと思っていたのに、正面は開け放たれた空間だった。

 煙なのか霧なのか、一面真っ白に染まる。


 立ち上がる。立ち上がったんだと思う。身体の感覚がない。目の前の光景も見えているのか感じているのか定かではない。


 溶けていく。

 散っていく。

 消えていく。


 もう逝こう――。


 最期に心の奥から取り出して抱き締める。




 ――大好き。






      ~ 了 ~


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