13. 海からの言葉
お題「海」
小さな漁師町の片隅にある古い舟屋にひとりの女の子がすんでいました。
女の子はこの月に九つの歳を数えるのですが、たったひとりで暮らしておりました。
思い出さえも持つことがないほど幼い頃に母を海になくし、去年の大時化では船ごと父が帰らぬ人となりました。
女の子はひとりで暮らしていますが、連なる舟屋の人々がなにくれとなく面倒をみるので、父母のいない寂しささえこらえればどうにか生きていくことができました。
その町は、岬の先端近くの小さな入江に沿っておりました。
岬に砂浜はなく、海に接する岸はどこも磯でありました。
水に濡れ黒くごつごつとした岩にはたくさんのフジツボがぶつぶつと並んでいます。
寄せる波は岩に弾け、白く砕け散るのでした。
漁師たちの家のほかはなにもない静かな町です。
子供たちは学校に行くために船で隣町まで送ってもらわなければなりませんでした。
女の子のことを乗せてくれる船もあったのですが、引っ込み思案な性分から遠慮がちで、しだいに声をかけられることもなくなりました。
女の子は学校には行かなくなりましたが、かねてより多くの子供たちといることを苦しく感じておりましたので、悲しい思いはありません。
町の女の人たちが魚や海苔を干すのを手伝ったりして過ごすことは、女の子にとって学校に行くよりも心安らぐことでした。
女の子は九つになった日の夜、部屋の窓から入江を眺めつつ、海の彼方にいるであろう父母に思いを馳せておりました。
黒く揺れる海に月明かりはなく、闇の中でざばんざばんと打ち寄せる波音が響いておりました。
それはまるで暗い海の底にひとり漂っているかのような心地がして、女の子は心安らぐのでありました。
波の音に耳を傾けていると、力強い波の音に混じって、ざばざばと小刻みに揺れる水音が聞こえました。
音はしだいにこちらに近づいてきて、女の子の住む舟屋の船着き場に入っていきました。
去年父が船と共になくなってから、この船着き場は空いたままです。
女の子はいつもならば使うことのない階段を降りて船着き場へと向かいました。
するとそこにはずぶ濡れの女の人がおりました。
夜の闇よりさらに深く暗い船着き場ですが、女の人の肌は見たこともないほどに白く透き通っていて、月のように仄かに光っているようにさえ見えます。
女の子と女の人はしばし見つめ合いました。
女の子が声を出せずにいると、女の人はにっこりと微笑み、こぽりと言いました。
本当は喉の奥の方から水の泡が湧き出るような音だったのですが、女の子にはそれが女の人の声に聞こえたのです。
女の人は口を動かし、なにかを必死に伝えようとします。
その口が動くたびにこぽりこぽこぽと優しげな音が弾けました。
耳を澄ますとかすかに人の声のような音も混じっています。
女の子はその人に近づきました。
すると女の人は愛おしそうに女の子の頬を両手で包み込み、涙を零しました。
もしかすると涙に見えただけで本当は海の雫だったのかもしれないのですが、女の子にはそれが涙だとわかったのです。
この涙とこの手を知っている、と女の子は思いました。
けれどもどうしても思い出せません。その間にも女の人は懸命になにかを語りかけてきます。
うみが……れる。はよう……ね。
みな……ね。……はよう……ね。
幾度も幾度も同じ言葉が繰り返されます。
みな……に、つたえ……。
……ね。
女の子はこぽりこぽりという音の向こうにある人の声を拾おうと、女の人の口元に耳を当て、途切れ途切れの言葉を知っている言葉と結び付けていきました。
うみが……れる。はよう……ね。
みな……ね。……はよう……ね。
みな……に、つたえ……。
……ね。
うみが……れる。はよう……ね。
――海が荒れる。早う……ね。
みな……ね。……はよう……ね。
――みな……ね。早う……ね。
みな……に、つたえ……。
――みなに伝えよ。
……ね。
夜が明けるや否や、女の子は町の人たちに海が荒れると伝えて回りました。
けれども空は見たこともないような深い青で、海は凪いでおりました。
沖で鴎の群れが渦を巻いています。魚がたくさんいるにちがいありません。
男の人たちは豪快に笑って船を出します。
女の子も漁師町の子です。
今日はとても漁によさそうな日だと思いました。
けれども、昨夜海から来た女の人の懸命な様を思い出しますと、胸の奥がしんと冷えるのでありました。
昼を過ぎると、沖の方から煤のような真っ黒い雲が漂ってきました。
みるみるうちに真っ青な空を塗り潰していきます。
女の人たちは慌てて干していた魚や海苔を乗せた台を舟屋へと運び入れます。
誰もが女の子の言った通りだった、大人でもわからなかったお天道様のご機嫌をなぜわかったのだと話しかけます。
女の子は船着き場に現れた女の人のことを話しました。
するとみなで見に行こうということになりました。
女の子は、大人の人ならば自分が聞き取れなかったあの女の人の言葉がわかるかもしれないと思い、何人かの女の人を連れて船着き場へと行きました。
そこには明け方と変わらぬ佇まいで半身を水に沈めた女の人がおりました。
その姿を見た町の人たちは口々に驚きの声を上げました。
女の子は海から来た人に、みんなにも話してほしいとお願いしましたが、女の人がどんなに繰り返し伝えようとしても町の大人たちには言葉が聞こえないようでした。
そこで女の子が口伝えすることになりました。
うみが……れる。はよう……ね。
みな……ね。……はよう……ね。
みな……に、つたえ……。
……ね。
――海が荒れる。早う……ね。
みな……ね。早う……ね。
みなに伝えよ。
……ね。
やはり早うどうしろというのか聞き取れません。
しかし、何度か聞いているうちに大人の中にも耳慣れてくる者がおりました。
その人たちははっと口元を両手で覆い震えはじめるではありませんか。
周りの問いに答えるには、これは呪に違いないとのこと。
――海が荒れる。早う死ね。
みな死ね。早う死ね。
みなに伝えよ。
――死ね。
町の大人たちはひとしきりの悲鳴の後に、口々に女の子を責め始めました。
魔のモノを町に招き入れたと。女の子が嵐を呼ぶのだと。
やがて雷鳴轟き、海は荒れ、去年の大時化にも勝る高波が町を襲いました。
海から来た女の人は、女の子を両の腕に大切そうに抱え、波間へと姿を消しました。
忙しく鳴く鴎の声に目を覚ました女の子は背にごつごつとした痛みを感じ、身を起こしました。そこは見慣れた磯の岩の上でした。
けれども町は見慣れた姿を消していました。
舟屋は一軒も残っておらず、のっぺりとした岬の入江の磯があるばかりです。
女の子はただひとり、晴れ渡った空を見上げ、目を細めます。
焼き付けるような日差しのもとで痛む体をさすっていると、手のひらほどの大きさのものがぺりぺりと剥がれ落ちます。
女の子はそれらをそっと剥がして重ね持ち、日の光にかざします。
それは薄く透き通った玉虫色に輝く鱗でした。
ふいに女の子は海から来た女の人の声を思い起こします。
聞こえなかった言葉が耳に甦ります。
うみが……れる。はよう……ね。
みな……ね。……はよう……ね。
みな……に、つたえ……。
……ね。
――海が荒れる。早う去ね。
みな去ね。早う去ね。
みなに伝えよ。
去ね。
女の子は大人になると町を見下ろす小さな山に小さな祠を建てました。
祠には螺鈿細工の箱があり、中には人魚の鱗が収められていると伝えられています。
時が経ち、女の子だった人が誰なのか、知る人はもういません。
岬の先端近くの小さな入江に沿う小さな漁師町は、いまや豊かで穏やかな海しか知らないのでありました。
~ 了 ~




