11. 卒業式の翌日は
お題「卒業」
たった一日でこんなにもよそよそしくなるんだ……。
週末とは違う静けさ。どこが違うというのでもないのに、校門の先に足を踏み入れるのが躊躇われる。
「卒業おめでとう」と書かれた校門の立て看板も、校舎の横断幕ももう外されている。
私服で入るのは変な感じ。気恥ずかしいような、ちょっと悪いことをしているような。
ひとつも靴が入っていない下駄箱を横目に昇降口を奥へと向かう。「3年3組坂本遥」のラベルのついた棚の前を通るが、そこに靴をいれるのはいけないことのような気がして、脱いだ靴は簀子の端に揃えて置いた。
上履きもないから靴下のまま廊下を歩く。
すごく冷たい。心持ちつま先に重心がかかる。
階段を4階まで上っていく。ひと気がないのはどの階も同じ。
休みの日の朝の日差しはやわらかい。いつもの朝は青く澄んだキリリとした日差しなのに、誰も来ない日は朝日までゆったりとくつろいでいる。
階段の踊り場ごとにある窓が少しずつ開いている。用務員さんが換気のために開けているのかもしれない。
光の帯の上を小さな埃たちがキラキラと舞っている。
特別棟の方から吹奏楽部の音合わせが聞こえてきた。
校舎裏を走るかわいらしい掛け声が響いている。この掛け声は女子テニス部だ。
グラウンドからは微かに砂が擦れる音が聞こえている。スパイクを履いてダッシュをしている時の音だ。
いくつもの重なり合う頑張る音を感じながら、私は足音もなく階段を上る。
4階ももちろん誰もいない。地面が遠くなった分、聞こえていた音もかすかに遠くに聞こえる。
3組の青いドアは開け放されていた。
黒板には卒業式の時間が担任の先生の文字で書かれている。チョークの白い粉が浮き上がって見える。
机や椅子は、昨日みんなが帰った時のまま。出しっぱなしの椅子、曲がった机、中途半端に引かれたカーテン。
床には輪ゴムが一本落ちている。なにか紙の切れ端。小さな綿埃。
私の席は窓際の後ろから2番目。
壁にぴたりとつけられた机と、きちんとおさめられた椅子。
そっと机の表面を撫でると、少しざらついていた。ふっと息を吹きかけて砂埃を払う。
椅子をどけて机の中を覗き込むと分厚い卒業アルバムがあった。
取り出して机の上に置く。
ずしりと重い。重いけれども、ここに私の高校での一番重みのある思い出は入っていない。持ち帰れないほど重いから。だからここに置いていくしかない。
とりあえずの目的だった卒業アルバムを胸に抱き、窓を開ける。
グラウンドを使う部活はまだ集まっていなくて、空色のウィンドブレーカーを着た陸上部の男子が一人、50mダッシュをしてはスタート地点に歩いて戻り、またダッシュを繰り返していた。
スパイクの砂を蹴る音が微かに聞こえる。本当に耳に届いているのかどうかはわからない。でも私には聞こえる。最初の踏み切る時の力強く砂の擦れる音。
あの瞬間が一番好き。一瞬空気が、空間が、キュッと引き締まる感じが好き。
ウィンドブレーカーのシャカシャカ擦れる音も好き。そこで動いている、そこにいるって感じられるから。
何本目かのダッシュを終えて、膝を伸ばすストレッチをする姿をぼんやり眺めていると、その顔がふとこちらを見上げた。あまりに急で、私は窓辺から離れるどころか視線を外す暇もなかった。
「あれぇ? 遥ちゃ~ん!」
満面の笑顔で手を振り、声を張り上げる。
「だ・か・らぁ~! 星野、あんたはまたぁ! ちゃんと先輩って呼べっていつも言ってるでしょー!」
私も叫び返す。
「はいはい。坂本せんぱいね。でも、ほら、もう卒業しちゃったし?」
「卒業したって先輩は先輩でしょ」
「オレ、そういう細かいことこだわらないしぃ~」
「こだわりなさいよ。だいたい細かくないし」
星野は私の言葉を聞いているのかいないのか、ピョンピョン跳ねるようにして窓の真下まで歩いてきた。
「で、坂本せんぱいはなにしに来たの? 卒業式終わったのに」
「えっとね、卒アル忘れて、取りに来た」
胸に抱えていてあたたかくなっている卒業アルバムを掲げて見せる。
「でっかい忘れ物だな。そんなの忘れないよ、普通」
「うるさいっ!」
怒りの声を投げつけながらも、そりゃそうだよね、と内心苦笑する。
でもそこを指摘しないで。わざと忘れたなんて知られたくないから。
私は慌てて話をそらす。
「それより星野は記録会大丈夫なの?」
「大丈夫ってなんだよ~」
漠然とした問いかけに星野が笑う。
「いや、ちゃんと練習しているのかってこと」
「してますよ~、せんぱい。今だってちゃんとやってたでしょ? 見てたんじゃないの?」
カッと耳が熱を持ち、私は風に煽られた振りをして髪を頬の方に寄せる。
「あんたのことなんか見ちゃいないわよ。今来たとこだし、忘れ物見つけたからすぐ帰るとこだもん」
星野は「ふ~ん」とつまらなそうに呟いて背を向ける。練習に戻るのだろう。
来月は記録会だ。それは国体の選考会も兼ねている。
星野はいつも200mで県大会ベスト16止まりだ。それだってほんとうは凄い。けれども順位がつく競技で入賞しないことはベストいくつだろうと同じことだと星野は言う。
あいつも今年は3年生。最後のチャンス。
星野はダッシュのために引いたスタート地点の白線を足でこすって消している。この後に時間通りにやってくる他の陸上部員に見つかるのが嫌なのだ。
いつもひとりだけ早く来て練習している癖に、その姿を見られるのを嫌う。
たぶんそれを知っているのは私だけだ。でも知ったのは偶然なんかじゃない。
知ったのは去年の春だった。
練習が始まる時、星野ひとりだけ身体がほぐれて温まっているのがわかったから、不思議に思ったのだ。もしかしてと思い、ためしに早く来てみたらもう星野は自主練を始めていた。
私に気付いた星野は、一瞬気まずそうな顔をしたのち、「誰にも言うなよ」と低い声で言った。私は黙って頷くことしかできなかった。
「ねぇねぇ」
白線を消し終わた星野が再び窓の下までやってきてこちらを見上げる。
「もうすぐみんな来るから会って行けば?」
「ううん。いい。今日は本当にこれを取りに来ただけだから」
「そうなの? 今日は陸上部の練習があるって知っているから来たんじゃないの?」
まったくこいつは本当に頭にくる。
「違うって言ってるでしょ! あんたはしっかり練習しなさい! そんで、自己ベストだしなさいよ!」
「あたりまえじゃん。出すよ、自己ベスト」
「へぇ。自信あるんだ?」
「あるよ。だから応援に来てよ」
「そうだね、久しぶりにみんなにも会えるしね」
星野はちょっと顔をしかめる。
「記録会でさ、自己ベスト出したらご褒美ちょうだい?」
「なんで私があんたにご褒美あげなきゃなんないのよ?」
「ん~と。……せんぱい、だから?」
「卒業したんだから、もうあんたの先輩なんかじゃないよ~だ」
星野はにやりと笑う。いたずらっ子みたいだ。
「まあ、なんでもいいよ。オレ、記録会がんばるからさ。『みんなを』応援に来てよ」
「うん。応援に行くよ」
あんたの応援にね。
「じゃ!」
星野は片手を挙げてひらひらと振ると、くるりと背を向け、部室棟へ向かっていく。
私は窓から身を乗り出して叫ぶ。
「星野~! がんばれ~! 応援してるからっ!」
星野は立ち止まって振り向く。そして、一瞬なにかを考えるように軽く首を傾げると、大きく息を吸い込んだ。
「遙ちゃ~ん! 卒業、おめでとー!!」
それから両手を大きく振ると、部室に向かって全力疾走していく。空色のウィンドブレーカーが小さくなっていく。
スパイクの砂を蹴る音もウィンドブレーカーのシャカシャカという衣擦れの音も聞こえない。
私は窓を閉め、卒業アルバムを抱えて教室を後にする。
何度も何度も小さく呟く。
がんばれ。がんばれ。
昇降口を出て、校門に向かいながら私は考える。あいつへのご褒美、なににしようかな。
また会う日まで。ばいばい、星野。
~ fin ~




