1. 腕時計
お題「時計」
マンションのエントランスで、部屋番号を押してインターフォンを鳴らす。
呼び出し中を示す赤いランプの点滅を見つめながら、スーツケースを台にしてハンドバッグの中を漁る。探し物が見つかる前にランプの点滅は消えた。
無駄を承知でもう一度インターフォンを鳴らす。
「あった」
今度はランプが消えるより早く探し物を掘り出した。取り消しボタンを押して掘り出したばかりのキーを回す。
「もうっ。着く時間メールしたのに」
上昇するエレベーターの中で腕時計に目を落とし、ひとりごちる。
玄関のインターフォンも鳴らしてみるが、人の気配はない。
「なんなのよ、もう。荷物多いのに鍵開けるの面倒じゃないの」
やっと大阪出張から帰ってきたというのに出迎えもなしなわけ? 一週間もの新人研修をたった一人でこなしてきたんだから、労ってくれたっていいじゃないの。
社内では怖いくらいのできる女で通っていることは自覚している。その評価はまんざらでもない。むしろそう思われたくて敢えてクールに振舞っている節もある。
社内に女らしく見せたい相手でもいるならそれなりに可愛らしくもみられたいだろうけど、幸い私には夫がいる。ならば仕事がしやすいようにサバサバとしたできる女の方が仕事はしやすい。私を女扱いしてくれるのは夫だけで充分。
が、その夫が留守だ。疲れを癒してもらおうと期待して帰ってきた分、ショックは大きい。どっと疲れる。
「亮太~?」
スーツケースを玄関に放置し、ハンドバッグだけを手にリビングへと向かう。いつも通りきれいに片付いている。亮太は優秀な主夫だ。
「亮太~? いないの~?」
ソファーにハンドバッグを放り投げて、各部屋を覗いて回る。
いればインターフォンを鳴らしてすぐに出てくる。よく懐いた子犬のように。
その出迎えがないということは留守に違いないのだが、一週間ぶりの再会を望むあまり、無駄を承知で探し回る。
職場の同僚がこんな私の姿を見たらどう思うだろう。ちらりとそう考えて小さく笑ってしまう。同僚だけじゃない。私の友人だって、親や親戚だって、私のこんな姿は想像もできないだろう。傍から見れば、亮太が一方的に私を慕っているように見えるに違いない。
亮太との出会いは互いの友人の結婚式の二次会だった。
新婦は中学時代からの友人。新郎がバンドマン時代にライブハウスで親しくなった仲間の一人が亮太だった。
当時亮太はまだ大学生で、成人していてよかったと言ってはお酒を煽っていた。成人したばかりだと言うのにやたらアルコールに強いのが印象的だった。
新郎は新婦と同い年だったので、当時28歳。友人たちも同年代が多い中、20歳の亮太は目立っていた。外見だけでなく、人懐っこい明るさが切なさを伴って懐かしかった。
キッチンを覗いたら、いくつかの調理器具を出しっぱなしにして調理人の姿だけが消えていた。どうやら夕食の支度をしようとして、買い忘れにでも気付いたようだ。
キャベツがごろりと転がっている。思わず頬が緩む。
小麦粉とバターが用意されているのを見て、よしよしと呟く。私の好きなホワイトソースにしてくれるつもりらしい。
出迎えはなかったけれど、私の帰りを待ち望んでいてくれたのが伝わってきて、胸の奥がほっこりと温かく緩む。
腕時計を見る。出掛けたばかりだとしても、あと30分もすれば帰ってくるだろう。
あの二次会の間中、亮太は私につきまとった。
これまでずっと、同世代よりは先輩や年上の人達に囲まれてかわいがられてきたことがわかるような天真爛漫ぷりだった。
自分の言動がどれほど女性を喜ばせるのかわかっていないようだった。私と同年代の男が言ったなら下心を疑うような褒め言葉をさらりと口にする。受け手が冗談か本気か悩むような歯の浮くセリフを真顔で吐く。
冗談か本気か悩んで、本気にしてしまったのが私だ。8歳も下の男に。20歳の学生なんて子供だ。そう思うのに、私の気持ちはその子供に握られていた。
そうだ、亮太が帰ってきたら一緒にロールキャベツを作ろう。
洗面所で手を洗おうとして、慌てて腕時計を外す。
有名ブランドでもない、ありふれた国産メーカーの腕時計だ。亮太からの唯一のプレゼント。
出会いからすぐ付き合うようになって、学生の貧乏っぷりに驚いた。私も学生時代のお小遣いなんてたいしたことなかったのに、自分で稼ぐようになってそんなことすっかり忘れていたのだった。
亮太はアルバイトに勤しむあまり、就活に失敗し、そのままフリーターを続けていた。
それでも落ち込んだり卑屈になることのない亮太を見て安心した。なにをしていても亮太は亮太だ。本人もそう思っていてくれるなら私も嬉しい。
プロポーズは私からだった。
亮太にもしその気があっても言いづらいだろうと思ったのだ。彼の性格なら、その気がないならないとはっきり断るだろうし、それによって私たちの関係がぎくしゃくすることもないように思われた。だからどんなシチュエーションだったかも忘れたくらい気負いなく結婚を提案した。
亮太が子供のように泣いて喜んだことが答えだった。
私が自分で指輪を買おうとしたら、亮太は指輪の代わりにと言ってこの腕時計をプレゼントしてくれた。機能性だけでもない、デザインだけでもない、ごくありふれたこの時計が私はとても嬉しかった。
裏面にはきちんと私の名前が彫られていた。
手を洗い終え、洗面台の腕時計を手に取る。
ありふれた、けれども亮太が選んだ時計。
高価ではないけれど、女性らしい華奢なデザインが気に入っている。
to.kimika
from.ryota
亮太はなにを思いながらこの腕時計を選んだのだろう。金額だけならネックレスなどでもよかったはずだ。
同じ時を刻む、とか?
亮太だったら言いそうだ。私は亮太のそんなところに惹かれたのだ。そんな甘い言葉とわかりやすい愛情に惹かれたのだ。そんなドラマに加われることに惹かれたのだ。
ならば、亮太が亮太である必要は――?
ふたりで時を刻み、28歳と20歳だった私たちは、38歳と30歳になった。この腕時計は10年の時を刻んできた。
「ただいま~。じゃなかった、おかえり~。あ、ただいまでも間違えてないのか」
陽気な声が廊下を歩いてくる。
「ねぇ、帰ってるんでしょ? どこにいるの~?」
なにを買ってきたのか、ガサガサとスーパーのビニール袋の音がする。買い物に行くならエコバッグを持っていけばいいのに。いつもそう言っているのに「くれるんだから断らなくていいんだよ」と言って聞かない。主夫ならそこも気を遣おうよ、と思うけれど、細かい女と思われたくなくて「そうだよね~」と曖昧に笑って済ませてしまう。
くれるんだから断らなくていいんだよ――。
きっと亮太は全てにおいてそう。だから私と付き合った。だから私と結婚した。
「あ、いたいた」
弾む声で亮太が洗面所を覗いた。
「もし疲れてなかったら、一緒にロールキャベツ作ろうよ。お互いに相手のを作るんだよ?」
「――うん。いいよ」
「じゃあ用意しておくね」
軽い声と軽い笑顔が去っていく。
料理をするなら腕時計は邪魔だ。わざわざ付け直すことはない。
「ね~、まだ~?」
キッチンから私を呼ぶ声がする。
「今いく~」
私はいつも通りに――今まで通りに声が出せただろうか。
「早くおいでよ~、真奈美~」
腕時計を手に取る。
to.manami
from.ryota
料理するには邪魔だけど、いつも通り左手首にパチリととめる。
「真奈美~?」
甘えた声。
もうひとつの腕時計を手に取る。
to.kimika
from.ryota
「……誰よ、キミカって」
断らない亮太。
私はそこにも惹かれたのだろうか。
「真奈美さぁ~ん?」
おちゃらけて呼ぶ声がする。
「はぁ~い」
私は恥ずかしげもなくかわいこぶった返事をする。
キミカの時計は足元のゴミ箱に投げ入れる。ガツンと憎たらしいほど大きな音がする。
このゴミを捨てる時、亮太はなにを思うだろうか。
腕時計の寿命ってどれくらいなんだろうと考えながら、私はキッチンへと向かう。
~ fin ~