卒業式
【卒業式】
「先生はどうして、教師になろうと思ったんですか?」
ちょうど、最後のホームルームが終わって、その残骸を拾うように教室に居座っていたころだった。まだ暖かさと冷たさを交互に繰り返していた三月のエアコンは今日の設定温度をちょうど高めに操っていた。
「そうだなあ……」
ヒゲをなぞって、考えた。忘れたことを思い出しているわけではなくて、話すかどうかを考えた。しばらくして、話す決意が固まった。これが最後の別れなんだから。
「先生は、女子高生が好きなんだ」
すると、相手は目を丸くして言った。
「ええー、それ女子高生の前で言う?控えめに言って気持ち悪いんですけど」
それもそうだ。
「まあ、普通そうだよね」
僕のその返答に、彼女はやけに過敏に反応した。
「普通、っていうか、法律違反だからね。未成年!わかる?ギルティだよ?イリーガルだよ?アブノーマルだよ?」
「それはわかってる。もちろん今までの教え子たちに性欲はおろか恋愛感情すら覚えたことはない」
すると、彼女は教卓の近くにあった机に手をついて息__どんな息かはいうまでもない__を交えて返した。
「理系クラスの松浦さん、文系クラスの柳沢さんと平野さん。あの三人だけ異様に面倒見良くなかった?」
「それは教師としてのサガだよ。よく質問にくるから、どうしても教えたくなる」
「いやいや、私知ってるよ。先生はそんなに割り切れる人じゃないって」
「いやそんなことは……」
何か返そうと思ったが、逆効果だろう。そう思って返答を渋っていると、彼女は得意げに語り出した。
「ほらね、先生はいつもそう。だから私は数III苦手なんだって」
「それは人のせいにするなよ。なんの脈絡もねえじゃねえか!それはお前がなんでもかんでも丸暗記するのがいけないからだって何度も言ったろう?ちゃんと数学的なロジックに基づいてだな……」
「そんなこと言って、そのロジックとやらについて質問したら、それはこういうもんだ、って言うくせに」
「だから……!定義と定理の違いの話をしただろ?先生は女子高生が好きって言う定義はあるけど、生徒に個人的な関係を求めるっていう定理は導き出せないんだ!」
「あーあ何それ意味不明。ド理系アタマの先生なんかと話すんじゃなかった。変な言い訳ばっかりで、おまけに女子高生大好きとか、やだやだ、こんな誰もいない教室にいたら犯されちゃう」
「あのなあ……」
彼女はケラケラと笑って机の上に座る。いつからこんなに生意気なやつだったかと聞かれれば、多分最初からだろう。出会ったときから、僕は下に見られていたに違いない。
「うーん、百万歩譲って先生が女子高生に変な気は起こさないとするよ。じゃあさ、どうして先生は女子高生のことが好きって言ったの?」
切り揃えた前髪から、長いまつ毛をのぞかせる。首を少し傾けて、上目遣いで聞くのが彼女の常套手段。無意識なんだろうけれど、僕はそれに答えざるを得ない。だが今回は、はじめからこれを話そうと決心していたから、すんなりと言葉が流れ出た。
「先生の初恋が、高校の時だったからだよ」
すると、彼女はニシシ、と笑って手を後ろについた。
「なにそれ、初耳」
「きっかけは、ちょっとした意地悪だった」
「え、先生女子に意地悪してたの?」
「違う、されてた方だ」
僕がそう言うと、彼女の輪郭を覆うショートヘアからぱちりと開く目だけよく見えた。そして、暖かいせいか、少し頬に熱を帯びていた。
「え、それって……」
彼女は何かを言いかけていたが、私は構わず続けた。
「先生は読書ばかりしていた生徒でね。どんなときも席について本を読んでいた。そんなとき、いつからか僕に意地悪をする女子が一人現れたんだ。
僕が読んでいる本を前から取り上げて、何読んでんの?って、毎回聞くんだ。それで僕が本についての内容を説明しようとすると、その子は決まって乱雑にカバーを外して、表紙だけを見てつまらなそうとか、面白そうとか感想を言って、そのあとは本を読んでいる僕をじっと見てるんだ。
でもね、先生にとって、それが毎日の楽しみでもあったんだ」
「いじめられるのが好きだったの?先生ってマゾなの?」
「いやそうじゃなくて、その不可解な行動が、本の世界以外ではじめて興味を持てたんだ。僕は新しく読む本を探すたびに、彼女が面白そうと言いそうな本を探すようになった。その子がどんな本に興味を示すかが気になった。
それで、そんな彼女への好奇心が恋愛感情になるまで、そう時間はかからなかったよ」
僕は恥ずかしさに風呂敷をかけるみたいに、言葉を大事そうに笑いで包んだ。
「へえ……そうだったんだ」
「その後、今日みたいな卒業式の日に、先生はその女の子に告白をしたんだ」
「それで?」
「返事は無かった」
「……うん」
少女は足をふらふら揺らした。
「でも、少ししたら家に手紙が届いた。その子のものだった。
それはまるで告白したときのことは嘘だったように、とりとめもない文章だった。それでも、手紙の中の彼女は、意地悪だけしていた頃とは違って、一人の女の子として僕の前に現れた」
「……何その言い方、なんかこそばゆいね」
「それから先生とその子は文通を続けた。菓子折りの箱がいっぱいになるくらい手紙は溜まった」
「それで……?」
「再び会うことになった」
僕の心情を察したのか、少女は俯いた。
「……」
「僕は待ち合わせ場所の駅に三時間前に到着していた」
「ちょっ、はやすぎ」
「でも、待ち合わせの時間を二時間、三時間と過ぎてもその子はやって来なかった」
「それで、どうしたの?」
「夜まで待って、その日は帰ったよ」
「……やっぱり結局、会えなかったんだ」
「うん。それから数日後、その子の父親からもう文通は出来ないという旨の手紙が来て、その子との関係はおしまい。僕はそのまま大学を卒業した」
「え?それで終わり?そのあと、新しい出会いとかは無かったの?」
「無いよ。だって僕はその子に二回目の告白をするつもりだったのに、お預けを食らったからね。とはいえ、僕が最後に見た彼女の姿は、高校時代で止まってた。だからきっと、そういうことなんだろうね。
僕は気がついたら高校の先生になってて、またあの頃の教室に戻ってた。」
「……へえ。え?でも、どうしてそれが女子高生が好きってことになるの?」
少女は聞いた。先ほどまでのだらけた雰囲気は雨上がりみたいに、気づいたらどこかへ消えてしまっていた。僕は上を向いた。
「先生は……結局卒業出来なかったんだよ。高校時代を。
あのときのあの子に、恋をしたまま。今もずっと、あの子に会いたいと思ってる。
もう会えない、あの子に。」
すると、少女は立ち上がった。いや、机から飛び降りたようにも見えた。そして、細くて折れてしまいそうな、梅の枝みたいな手で、僕の頬を包もうとした。
____それはまるで時間が取り払われたみたいで、春も冬も曖昧になった世界。
細い枝が支える赤い蕾は、膨らみを増した。梅は、風に流されるように細かく震える。その幹には蕾よりも赤く染まった白い肌と暖かい光を反射するプリズムが、二粒。
そして、その二つのきらめきを追うように雫のような二言がこぼれた。
「愛してくれていて、ありがとう」
「____。」
『先生&3-D卒業おめでとう!!』
黒板に書かれたその文字は、網膜を貫通して、前頭前野で反響する。そのとき強い風が吹いて、立て付けの悪いサッシを揺さぶった。これ以上一人で教室に居てもしょうがないので、職員室へ退職にあたっての挨拶をしに行くことにした。
季節風。大陸から流れるその風は、地球の公転による日照の変化で発生する。それは大気が安定するまで吹き続け、忘れた頃には春が来る。季節の変わり目を知らせる役割として季節風はそう名付けられたが、必ずや、季節そのものを表すことはできない。
卒業もきっと、同じように変わり目を知らせる役割にしか過ぎなくて、卒業という状態なんてだれも見つけられない。きっと、過去と未来との時間のデルタを限りなくゼロに近づけた値が卒業だろう。
そして、そんな卒業で世界との距離を割って求まる速度は正か、あるいは負に無限大をとるのだ。
とはいえ、人生においては定義域というものが定まっている。したがって極限は存在しない。極めて限りない値は、極度に限定された値となる。
漸近線は途中で途切れて消える。限りなく何かに近づこうとしても、誰もたどり着くことができない。それはたどり着けないのが矛盾なのではなく、たどり着くことが矛盾だったから。
距離をどれだけ詰めたとしても、肌と肌は触れ合って止まる。きっとどれだけつぎはぎをはめ込んで愛し合ったとしても、完全に交わることはできない。
そしてまた、仮に現実に存在しない無い所で誰かと誰かが混ざり合えたとして、それはもう、誰かと誰かではなく一人ぼっちだ。
でも、それでも、そうだとしても、__
『愛してくれていて、ありがとう』
『大好きだったよ』
僕は虚数の世界に君を探し続ける。
『卒業』を求めるための公式、卒業式を使って。