Scene1
汚れの上から『明日洗車予定』と指で書かれた跡がある、かつては真っ白だった営業車が、幹線道路で繰り広げられる、いつもの渋滞に巻き込まれていた。
それが日課となっているのか、事務所に帰る時間が一分でも遅れることを願っているのか――ハンドルを握る三崎真二は、果てしなく続くテールランプの群れを涼しげに眺めながら、エアコンから流れてくる令風を最大にし、バリューセットのハンバーガーを頬張っていた。
つけっぱなしのラジオからは、クーラーなど全く無縁の世界であろう、球児たちの熱き戦いを実況するアナウンサーの声が聞こえる。
「さあ、最後のバッターとなりますか北星高校、二死満塁。一打出れば逆転です」
微かに緊張を含むアナウンサーの実況の向こうでは、スタンドを埋め尽くしている歓声が聞こえ、その試合最大の山場であろう局面を嫌が上でも盛り上げていた。
三崎はハンドルをトントンと叩きながら、自らを落ち着かせるため、氷が解けて薄くなったアイスコーヒーで口の中に潤いを与える。
名前も知らない高校の、名前も知らないピッチャーであったが、三崎はマウンドで汗をぬぐう少年を脳裏に浮かべると、自らも緊張と共に息をのみこんだ。
「スタンドからは、あと一球コールが沸きあがっております。甲子園への切符を手に入れることが出来るか、春風高校、今ピッチャーが振りかぶって……投げた! 打ったぁーッ!」
アナウンサーの絶叫が最高潮に達するより早く、三崎の手がラジオのスイッチに伸びたかと思うと、瞬時にチャンネルを変えた。
試合の結末を置き去りにして、ラジオは一瞬で別世界の音を三崎の耳に運んだ。
三崎は大きく息を吐き出すと、スピーカーから流れてくる音楽に目を細める。
懐メロの特集でもやっているのか……オリビア・ニュートンジョンの『カントリーロード』が流れ出すと、三崎は自然とその歌詞を口ずさんでいた。
「懐かしいな……」
曲の合間にハンバーガーにかぶり付きながら最後まで聞き終わると、三崎は微かに口元を綻ばせる。
「あの頃は良かったな……」
車内の空気に溶け込んで消えようとしている呟きを、不意に誰かが拾った……
「あの頃が懐かしい?」
「へっ?」
耳に飛び込んできたその声に肩を跳ね上げると、瞬時に声がする方向――助手席に目をやった。
声の主は小学生の低学年くらいであろうか――オークランド・アスレチックスの野球帽をかぶっていた。帽子からはみ出たちょっと長めの髪はサラサラで、生まれたてのように素直で柔らかそうだった。
まっすぐに三崎を見つめる無邪気な瞳は、視野いっぱいに広がる夢をそのままに、海のように透き通った輝きに満ちている。
「そんな……」
三崎は目を見開くと、口にしていることさえも忘れてしまったハンバーガーと一緒に、息を飲み込んだ。
ゴクリと飲み込む音がとても遠い世界のもののように聞こえた……
「はじめまして、シンジ」
唖然と口を開ける三崎に、少年は悪戯っぽい微笑みで挨拶した。
何も返すことができない三崎の心に助け船を出すように、少年は悪戯っぽい瞳で質問していた。
「シンジは久しぶりって言うのかな?」
それが誰であるかは、三崎自身が一番良く理解していた。
実家のアルバムの中に閉じ込められている少年……どの写真にもトレードマークの野球帽を被って、夢を湛える向日葵のような笑顔を浮かべている。
疑う余地は無かった――目の前にいる少年は紛れもなく、かつての自分自身であった。