8.コントロールフリーク
数日後。
珠美の指定により、彼女の部屋の近所のファミレスで、弁護士の谷口、及び長谷川孝之(旧姓水野)と会うことになった。
先日の電話の続きはこうだった。
長谷川(旧姓水野)からの依頼、と聞いて、珠美は思わず「…は?」と、問い返した。職場だから抑えたつもりだけれど、険のある声になった。
今頃なんの用だろう。長谷川でも水野でもどちらでもかまわないけれど、新婚半年くらい?で、ちょうど新生活も落ち着いて楽しく過ごされているんじゃないんですか。
と、言葉に出さないが声音には出た。谷口弁護士は、ごもっともです、とでも言いたげに、取りなすような口調で言い添える。
「端的に申し上げると、長谷川氏は前園さんに謝罪したい、とおっしゃられています」
…しゃざい。謝罪って……? 何それ今頃。
脳内が疑問符で満たされ、問い返そうにも何から聞いていいかわからず、口ごもっていると、
「お電話口では申し上げにくいので、できましたらご面会をお願いしたいのですが」
と重ねられた。
という次第で、珠美の指定により、ファミレスの一角にてご対面と相成った訳である。
谷口弁護士と長谷川(旧姓水野)は先に来ているはずだった。店員に告げて案内してもらうと、谷口とおぼしき人物が立ち上がった。電話で話した印象よりも若く見える。浅いグレーのスーツが畏まった印象だけれど、挨拶してくる表情は穏やかで明朗。
次いで立った人物が長谷川(旧姓水野)のはずだけれど、珠美は一瞬誰だかわからなかった。いや、一瞬どころか、よく見てもわからない。
「……前園さん、来てくれてありがとう」
声を聞いて、ようやく人物を同定した。が。
誰だこれ。
珠美は呆気にとられてまじまじと凝視する。
水野に最後に会ったのは約半年前。そのたった半年ほどで、彼は人相が変わっていた。
憔悴しきって顔色が悪く、ひどく痩せて頬骨が浮いてみえる。髪には白髪が混じり、目の下に濃い隈が染み着いていた。頬と額に変色したような痕があり、どうやら打撲の傷がようやく治りかけている、という状態であるらしかった。一言でいうなら、ズタボロの有様。
「どうしちゃったの、いったい」
「……そんなに酷いか」
珠美の驚きように、長谷川(旧姓水野)は苦笑まじりで答えた。これでもマシになったんだけどな。
「先週まで、頭に包帯巻いてましたからね。ようやく人前に出られるご面相になったってとこですよ」
谷口が言い添える。
呆然としたまま何とも言いようのない珠美の心情を察し、
「私から事情をご説明します」
と、谷口が順を追って経緯を話しはじめた。
私は長谷川(旧姓水野)氏の中学時代の同級生なんですよ。面倒なんで、この際、水野で通しますね。
水野は離婚を申し立てるつもりで、その準備をしているんです。
「…離婚。」
はあ、そうなんですか。勝手にすればよろしいのでは。と、呼び出された理由がいまだ掴めない。
谷口はいったん口を切り、こほん、と勿体ぶった。
「前園さんは、コントロールフリークってご存じですか?」
「コントロールフリーク?」
珠美は首を横に振った。
「自分の周囲の人物や状況を思い通りに支配したがる人物のことです。水野の配偶者は、そのコントロールフリークだったんですよ」
結婚する前もその傾向はあったようなんですが、水野は気づかなかったんです。というか、既に影響下にあったんですね。
そこで、水野は居心地悪そうにした。彼にとっては不名誉な話であるらしい。
谷口が、許可を求めるべく窺うと、しばしの重苦しい無言の後、観念したように頷いた。
水野が長谷川由紀さんと出会ったのは、通勤のバスの車内だそうです。彼女は以前から水野に興味をもっていたようですが、水野のほうは気づいていなかった。
で、あるとき、彼女が気分が悪そうだったんで席を譲ったんですね。大したことじゃないんであんまり覚えてなかったんですが、由紀さんはいたく感激したらしい。それで、水野と結婚したい、と思い詰めた。
いきなりだと思われるでしょうが、どうやら彼女は、何が何でも結婚しなくちゃならない、と思い詰めてたようなんです。たぶん、水野個人に対する思いではない。
社章バッジから勤め先を突き止めて、偶然を装って再会。水野は礼を言われて、喫茶店でお茶につきあった。
その後、飲みに誘われ、そのときは「恋人がいるから、誤解させたくない」って断ったそうです。彼女は、そのときはあっさり引き下がった。
それからしばらくして、また偶然、今度は電車で乗り合わせたんだそうです。今にして思うとこれも偶然じゃないでしょう。
変な男に絡まれてて、バッグがぶつかったのぶつからないの、って揉めて、で、成り行きで水野が止めに入ったんですね。
由紀さんはかなり動揺してたんで、途中まで送ることになった。足をひねったみたいだから少し休みたい、って言い出して、もう夜だったし、そのあたりは飲み屋しかなかったそうで。居酒屋に入って、彼女も少し落ち着いたし、まあ一杯くらいいいか、ってビール頼んで、そこで水野は寝落ちした。
「…ビール一杯で、寝落ち?」
水野はそんなに酒に弱いわけではない。珠美が怪訝に問い返すと、確証がないから断言できないが、と前置いて、
「一服盛られたかもしれません」
と言った。
そこで珠美は青ざめた。初めて、ことのヤバさに思い至った。
次の日、目覚めたら、水野は由紀さんの家でした。しかも彼女のベッドで、……その、いかにも関係をもった、的な様子で。
「…覚えてないんだ」
水野は苦しそうに呻く。
正直、ぜんぜん覚えてない。頭はガンガン痛むし、気持ち悪いし。
谷口は苦虫を噛みつぶしたような顔で続けた。
「由紀さんは“酔った勢いで、ってこともありますよね。彼女さんには言わない方がいいですよ。私も忘れますから”と言ったそうです」
それから、由紀さんは水野の出かける先で頻繁に出くわすようになった。もとから通勤のバスは知られているし、たぶん仕事の営業ルートも調べたんでしょうね。
彼女さんのことは気にしないから、“女友だち”としてつきあってほしい、みたいなことを匂わされた。
水野としては先般の“酔った勢い(疑惑)”の負い目があって、強く断りきれない。どうやら由紀さんは、自分が弱みを負ってみせて、水野に「自分が悪いんじゃないか」と思わせるのが抜群に巧かったようなんです。
困った水野は、きちんと話して諦めてもらおう、と由紀さんと話し合うことになった。
前園さんの話をしたそうです。彼女と別れるつもりはない、とも言った。
どんな人なんですか? って聞かれ、ふたりで一緒に写っている写真を見せた。ふたりの仲睦まじい様子を見て、そうですよね、彼女さんに悪いですよね。って納得したようだった。
残念だけど、仕方ないですね。あの夜のことは、私にも責任のあることですから、そんなに気に病まないで。
そんな感じだったそうなんです。
そして、今日いちにちだけ。最後に一回だけ、飲みにつきあってください。と言われて。一度「諦める」、と引いてみせてから、「最後に」「一回だけ」と押し引きの加減がこれまた絶妙で、水野は断りきれずに一軒だけつきあった。
このときは何もなかったそうです。仕事の話や他愛ない世間話をしながらごくごく普通に飲んだ。
由紀さんは、前園さんの話を聞きたがって、いいなあ、素敵ですね、とか、ニコニコしてたそうです。
彼女さんと末永く仲良くなさってくださいね。とまで言ってたそうですよ。
で、ここからいきなり唐突なんですが。
数日してから、また営業先の近くに現れたんです。そして深刻そうに、何かの間違いだと思うんですけど、と言いながら、前園さんの写真を見せてきたんだそうです。男といっしょにホテルに入るところ。
偶然見ちゃったんですけど、これ、彼女さんですよね。って。
「は?」
まるで心当たりのない珠美が素っ頓狂な声を出すと、すぐに取りなすように谷口が被せた。
「たぶん、コラですよ。フォトコラージュ。あまりにもタイミングよすぎでしょ」
その際、由紀さんは、前園さんを庇った。庇ってみせたんですね。
きっと何かの間違いです。たぶん、事情があるんですよ。調査会社に伝があるから調べてみます。もしかして、彼女さんが私のことを知って、誤解して自棄になったんだとしたら、私にも責任がありますから。おふたりには幸せでいてほしいんです。
的なことを言ったそうですよ。
で、あがってきた偽の調査報告書は真っ黒で、前園さんの不貞をでっちあげてあったそうです。
「俺は、それを信じた。信じてしまったんだ」
水野は苦しそうに呻き、谷口はできるだけ事務的で冷静な態度を心がけつつも不本意さが滲み出る。
「……それで、」
珠美は、一瞬で霧が晴れるように、今まで起こったことの経緯が見えた。圧倒的に腑に落ちた。
「……それで、あなたは、私のことを怒ってたんだ」
俺たちって、そんなんじゃなかったろ? という一言。
退職間際の挨拶、冷たい怒りを漲らせた声。
水野は、珠美が裏切ったと思っていたのだ。
「そういうことだったの……」
くずおれて、倒れてしまうかと思った。
「前園さん、大丈夫ですか?」
谷口が気遣って声をかける。
「本当に、すまなかった」
と、水野は苦しそうに言った。