6.Are you kidding?
時系列的に、この話の前に「Chili pepper」(http://ncode.syosetu.com/n3794db/)になります。
水野の送別会の日以来、隣の部署の佐藤晴彦はしょっちゅう珠美を誘うようになった。珠美にとっては、終業後に自販機の陰で悔し泣き、などと醜態以外のなにものでもないのだけれど、何が気に入ったのか、佐藤は珠美を女性として好意をもち、親しく交際したい、的なことを言ってくる。
とはいっても、珠美は彼の口説きを大して真に受けていなかった。
佐藤はへらりと調子のよい男で、職場でもしょっちゅう女性をからかっている。つまり、わりと広範囲に愛想をつかうのだった。
もっとも、一応、相手の応対を見極めて、不愉快と感じさせない加減を心得ているようだし、不誠実な人物ではないらしい。天性の愛嬌と相まって、評判は悪くなかった。
「ガード堅いんだよな、前園さん」
佐藤はビアジョッキを傾けながら、半分からかうように珠美に目線を投げる。
「まあねぇ。前園は、学生の頃からカタいとかキツいとか言われてたもんね」
ウーロン茶片手に応えたのは今野マリエ。彼女は下戸なのだけれど、飲みの席は嫌いじゃない、と、つきあいがいい。
「良くも悪くもいいかげんにできないんだよ。だから、気持ちが通じて実際つきあうとなると、真剣に応えてくれて、情が深くていい女なんだよー」
…今野、こいつ。よく酒も飲まずにこんな冗談グチがきけるよね。しかも初対面で。
と、珠美は呆れた。
佐藤があまりにしつこく誘うので、友達もいっしょなら、と返事したら、彼はあっさり「あ、いいですね」と承知したのだった。
という訳で、マリエを誘い、3人で焼き肉屋に集っている次第。
「今野、こっち焼けてるから片づけてって」
タン塩が網の上でちりちり焦げそうになるのを見かねて珠美が世話を焼く。
「ん、任せろ。前園、レモン寄越して」
「佐藤さんも、食べて食べて」
「はーい、いただきまーす」
珠美さん、お母さんみたいでかわいいな。と独り言のように呟いたのを聞きとがめ、珠美は渋い顔でたしなめた。
「名前で呼ぶのやめて、って言ってるのに」
「えー、やっぱダメ? かわいいのになー」
叱られても大して堪えた様子のない佐藤に、マリエは苦笑した。解説半分、警告半分の口調で釘を差す。
「昔っからそうだよ、前園は。子どもの頃、「赤んぼう少女タマミちゃん」ってさんざんからかわれて、それ以来名前で呼ばれんの嫌いなんだって」
やめてってば。と、珠美はあからさまにしかめ面をする。
「なんですかそれ。赤んぼう少女?」
「楳図かずおのホラー漫画だってさ。私もタイトルは知ってるけど、読んだことないな」
「そうなんだ。きれいな名前なのにな」
佐藤は残念そうに呟いて、ちらりと珠美を見た。先日の泣き顔といい、この女性は何やらいろいろと抱え込んでこじれてるらしい。もっと楽にしてあげたいだけなんだけどな、と、わりと純粋に思う。
マリエは見透かしたように思惑ありげな視線で彼を見やった。
網を変えてもらうタイミングで、珠美が中座すると、佐藤はぽそりと呟いた。
「…頑固な人だなあ」
ん? とマリエがメニューから顔をあげると、彼は苦笑して、珠美の座っていた席に目線をやった。
「よっぽど好きな人だったんですかね」
なにやらしょんぼりと、飼い主に置いていかれた子犬の風情で、俺やっぱ無理かなあ、などとぼやいている。
「…こっぴどく振られた、とか言ってたけど。それでも、絶対相手のこと悪く言わないもんな」
佐藤は珠美がトラブった事情の詳細は知らないらしい。
同じ会社の同僚だから話しづらい、ということはあるにしても、珠美はもとから打ち明け話を好まない。
マリエにしても、婚約者から届いた荷物や水野の退職際の顛末などは、相当粘って聞き出した次第で。
思い出すだけで腸が煮えくり返る。水野とやらがそんなに腐った男だとは思わなかった。よく2年もつきあってたもんだ。
彼女は苦々しく頷いて、
「人のせいにしたくない、ってことなんじゃないのかなあ? 前園は格好つけすぎなんだよね。ばーかばーか、クソが、滅びろ。って罵っちゃえばいいのに」
吐き捨てるように言うと、佐藤は「マリエさん怖っ」と苦笑した。
「でもホントそうなんですよね。ひどい振られ方をしたんなら、盛大に文句とか悪口吐き出して、相手に見切りつけちゃえばいいのに。
でも、そうできないくらいその人のことが好きだった訳でしょ? きっと、相手を責めないで、自分の見る目がなかったから、とか言うんだろうなあ」
心配そうに眉をひそめる。ああ、言いそうだな。とマリエも思った。
そして、彼は案外と真面目な表情で続けた。
「程度の問題だけどさ。ひどい仕打ちを受けて、それをまともに受け止めすぎるのはよくないよ。自分が悪かったからだ、自分はそういう仕打ちにあって当然なんだ、って自己評価がダダ下がる」
おや、とマリエは意外に思って佐藤を見た。へらへら調子よく珠美にじゃれついているだけかと思っていたら、結構本気で心配しているらしい。
その表情に、マリエさん、わかりやすいなー。と佐藤は苦笑いした。
「別に、俺がどうにかしてやれる、とか思い上がってる訳じゃないよ。相手にされてないのもわかってる。たださ、珠美さんがそんなふうに自分を大事にできないのはイヤだな、と思ったんだ」
「…佐藤、あんたいい奴だね」
マリエが感心すると、彼は「でしょ?」と笑った。こう見えて意外といい奴なんだよ。
「俺のことはハルでいいですよ。晴彦のハル。ね、マリエさんて呼んでいい?」
「さっきから勝手に呼んでんじゃん」
「あ、気づいてた?」
「気づくわそりゃ。まあいいけどさ。
そんじゃ、ハルくん。ホルモン系いってみようよ、どれがいいと思う?」
「よく食うよね、マリエさん」
と、ふたりが妙に意気投合したところで、珠美が席に戻ってきた。
あ、キムチとコチュジャン追加お願いします。
また追加すんの?! 消費早過ぎんでしょ………。
えー、普通普通。あ、これは? シマチョウ焼こうよ。サガリも。
おー、いいね。ミノも食べたい。歯ごたえありそうなやつ。
珠美はふたりのやりとりをしばらく眺めて、それから、何ともいえず、呆れたように笑った。
佐藤はその様子を横目で確かめて、少し安心したように息をつく。メニューに没頭するふりをしながら、マリエは
「まあ、がんばってみてよ」
と小声で佐藤を唆した。
そんな経緯を知る由もない八重樫には、ちょっとばかりタイミングが悪かった、ということなのだろうけれど。
水野が退職してから半年ほど経っていた。
傷心と憂鬱の元凶とも言うべき人物がいなくなって、珠美は一見して平穏な日常を取り戻した。
“一見して”と注釈がつくのは、珠美にとって理不尽な出来事であり、傷心は傷心で、憂鬱は憂鬱であることには変わりないので。
だからといって今さらどうしようもない。人生いろいろあるよね。的な人生の糧として収めるにはまだ少し時間がかかりそうだった。
そんなある日。
「映画を観に行きませんか」
翻訳クラスの終了後、珠美は八重樫にそう話しかけられた。
「映画?」
珠美は怪訝そうに問い返す。
珍しい。
八重樫は普段、映画はひとりで観に行くことにしているという。入り込んで観入ってしまうし、観た後も考えごとに没頭してしまうから、一緒にいく相手を放ったらかしてしまうのだそうな。
その八重樫が映画に誘ってくる、というのはどうしたことか、と訝っていたら、
「これなんですよ」
彼はチラシをひらめかせて、珠美の目の前に置いた。
「あ、パディントン。へえ、実写映画化されてるんですね」
「実は僕、一回観たんですよ。聞き取れなかったところもあるし、もう一度観たいと思ってて。
で、よかったら前園さんもご一緒にどうですか。パディントン、かわいいですよ」
「声がベン・ウィショー? へえ」
「一家のお父さん役のヒュー・ボネヴィルがすごくいいんです。ニコール・キッドマンもハマっててよかったですよ」
映画に詳しい八重樫がいうなら期待できそうだ。
いいですね、と首肯しかけて、あ、そうだ、と思いついた。
「友達も誘っていいですか?」
マリエとはまだ映画館に行っていなかった。八重樫の話題も出たことだし、この際だから誘ってみるのもいいかもしれない。
と、珠美は軽い気持ちで言ってみたのだった。
八重樫のことだから、すんなり「いいですよ」と返ってくるかと思ったら、困ったように眉をひそめて口ごもった。
「…できれば、僕は前園さんとふたりで行きたいんですが」
「……私と?」
どうして。と、疑問が顔に出た。
八重樫はますます困り顔で軽くため息をつき、それから、いつもの癖で生真面目そうに首を傾げた。
参ったな。と低く呟いてから、珠美のほうに向きなおった。
「デートのつもりでお誘いしてるんですが。ご迷惑でしたか?」
珠美はそこで頭が真っ白にトんで思考停止した。
デート。デートだって?
別におかしな話ではない。でも。けれど。なぜか、理不尽な困惑を覚えた。
「……どうして」
「…どうしてって、それは」
「今までそんな素振りなかったですよね。英語と映画の話ばっかりだったのに。急に、なに? どうして?」
珠美の狼狽えように、逆に八重樫は面食らった。
「急に、っていうつもりはないんですが」
軽く視線をめぐらせて、少し考え込むと、うん、と自分に気合いを入れるように頷いて、続けた。
「僕は、こうして前園さんと会って話ができるのが楽しいです。話題に乏しい男なんで、映画の話ばっかりですが。
最初は、趣味の近い人と話せるのが楽しかった。けれど、だんだん、それだけじゃない、って気づいたんです。前園さんにこの映画の話をしたい、とか。この雑誌の記事はどう思うだろうか、とか。何かにつけてあなたのことが思い浮かぶ」
困ったように頭をかく。それから、いつも以上に真面目な顔で言った。
「僕は、あなたが好きです」
言わないでほしかった。
理不尽なのはわかっているけれど、黙っていてほしかった。
珠美はなぜか、手ひどい裏切りに遭ったような気持ちだった。
純粋に、友人だと思っていたのに。この人は、私に恋愛を求めないと思ったのに。心を乱されない、安全な場所のはずだったのに。
なおも何か言おうとする八重樫を遮るように、
「Are you kidding?」
自分でも思ってもみないほど、鋭い声が出た。
「冗談ですよね? からかわないでください」
目の前の大きな男の人が、傷ついたように表情を曇らせるのを見て、しまった、と思う。
それでも、止まらない。
「それで翻訳クラスまで通ってきてた訳ですか? 私に会いに? まさか。そんな訳ないですよね」
それは違います、と、否定の台詞を挟もうとしたようだけれど、言わせない。横隔膜のあたりから、喚きたくなるような衝動がこみ上げて、なんとかそれを抑えようと声が震えた。
「そんなくだらない理由で、毎週通いつめて? ご苦労なことですね」
叩きつけるように攻撃的な物言いは、自分でも八つ当たりだとわかっている。けれど、抑えられない。
この人が悪い。私のことを好きだなんて、そんなの許せない。
八重樫は深いため息をついた。生真面目そうに首を傾げる癖はいつも通りだけれど、まっすぐな視線はひどく悲しそうだった。
「前園さん」
低い、静かな声。
怒ってはいない。ただ、傷ついている。
「I am serious.」
こんな厳しい表情は見たことがなかった。
「…よくわかりました。ご迷惑を申し上げてすいませんでした」
再び、深々とため息をつく。そんなに嫌われてるとは思わなかったな。ぽつりと呟いた。
嫌っているわけじゃない。けれど、こんな混乱した気持ちを端的に伝えられる言葉など思いつかない。珠美は黙って唇を噛んだ。
その様に、八重樫は軽く苦笑してみせた。
「そんな顔しないでください。前園さんは僕を断っていいんです。正当なことですよ。それが正直な気持ちなんでしょうから、残念だけど、仕方ありません」
翻訳クラスでは、確かに、あなたに会えるのが楽しみだった。でも、僕なりに真剣に授業を受けていたつもりです。
映画関連で気になる英文テキストがあったから、それを読み込んでみたかったんですよ。それが終わったら、たぶんもう来ないと思いますから安心してください。
それから、彼は少し黙った。寂しそうに微笑んで、ほんの少し躊躇ってから、言った。
「できれば。僕の気持ちを“くだらない”とは言われたくなかったな」
掠れるような悲しげな声だった。
じゃ、失礼します。と礼儀正しく会釈して、八重樫は去っていった。
珠美は何も言えずに、ただ黙って佇んでいた。