3.しょうが糖
珠美が八重樫望に再会したのは、それからわりとすぐだった。
普段はクラスが全く違うので接点はないのだけれど、珠美の履修する“英文翻訳一般”のクラスで特別授業の企画が持ち上がったことがきっかけになった。とある映画のスクリプト解説、というのがその内容。
版権・上映権の交渉を要する映画コンテンツが教材になることは滅多にない機会で、映画好きの八重樫も聞きにきていたようだった。
「八重樫さん、こんにちは。先日はどうも」
授業が終わった後、珠美が挨拶すると、相変わらず生真面目な表情で会釈した。
「そうか、前園さんはこのクラスを通年でとってるんでしたね」
「そうなんです。普段はテキストの翻訳で、映画の字幕翻訳とはまた違うんですけどね」
八重樫は興味深そうに頷く。
「みたいですね。今日の授業で翻訳家の先生もおっしゃっていたけれど、翻訳とひとことで言っても、思っていたより幅広い分野なんだな…」
半分ひとりごとのように呟いた。彼にとってかなり興味をひく内容だったらしく、授業メモを読み返しながら何やら考え込んでいる。
「…………」
会話の接ぎ穂が途絶え、「……じゃあ、私はこれで」と、挨拶して去ろうとしたら、
「あ、待ってください。この後、お時間ありませんか?」
真剣な面持で引き留められた。
よほど興味があるらしい。混じりけのない知的探求心と学習意欲が見て取れて、珠美は小さく笑った。なんだか、清々しい。
「これから、講師の先生もいっしょにクラスの何人かでお茶しにいくんですよ。よかったら、ご一緒にいかがですか?」
「それは、ぜひ」
八重樫は嬉しそうに頷いた。
翻訳クラスは女性の受講者が多い。そして、授業の後、興味関心の近い者同士で女子会的に集ったりすることもある。
「講師の先生もお誘いすることもあるんです。結果的に授業の補講みたいになることも多いから、先生のお茶代は皆で負担することになっていて。八重樫さんもそれでいいですか?」
「はい、もちろん構わないです。というか、喫茶代だけで補講してもらうなんてかえって申し訳ないくらいですね」
「そうなんですよ。でも、先生も、自分の勉強にもなるから、とおっしゃって」
その日は、講師が「今日は自分の分ちゃんと出すから、ワイン飲みに行きたい」と言い出し、ビストロ風の居酒屋に行くことになった。
特別授業にあたって、準備や根回しなど、よほど大変だったらしい。無事に終わってよかった、と、講師は上機嫌に杯を重ねた。
「やはり、教材開発が一番大変なんですね」
八重樫が尋ねると、
「結局、そうなりますかね。いろいろ調べてると、これすっごくわかりやすい、とか、これも紹介したら絶対役に立つ、って、いろいろ使いたくなるんだけど、著作権の問題があるから」
講師はグラスを片手に、苦笑ぎみに応える。
「先生のつくってくださる参考文献リスト、すごいですもんね」
「ホントはあれ全部、ページをコピーして配っちゃうのがてっとり早いの。でも、まさかそうはいかないもんね。
ていうか、八重樫さん?でしたっけ。映画がテーマのクラスをよく履修してるっていうけど、それこそ授業でどうしてるんですか? 上映権なんてそうそう交渉できないでしょう」
「ああ、だから毎回ぎりぎりなことやってますよ。課題タイトルが出されて、次回までに各自でその映画を観てくるんです。で、映画の台詞そのままって訳にもいかないから、応用した言い回しに言い換えたりして」
うわキビシー…、と頭を抱える講師に、八重樫も苦笑した。
「本当はDVDどっさり持ってきて、次から次に観せまくりたい、って言ってますよ。でも、著作権を尊重することも映画へのリスペクトだから、って」
「趣味力総動員で成り立ってますね。まあ私も似たようなものだけど」
呆れたように笑いつつも、その心情はよく理解できるらしい。
「結局、好きなものを追求するのが一番身につくんだよね」
ごくシンプルな結論に至り、三人でグラスを合わせたところで、講師は別の生徒に呼ばれ、ちょっと失礼、と、グラスを携えて呼ばれたテーブルに移動していった。
「…………」
「…………」
テーブルには珠美と八重樫がふたり、斜向かいで残された。なんとなく間合いをはかるように、気遣わしげな視線を交わし合う。互いにその気配に気づき、なんだか可笑しくなって、珠美は曖昧に笑った。
先に口を開いたのは八重樫だった。
「…前園さんは、今、何を翻訳されてるんですか?」
「A.A.ミルンの“Winnie the Pooh”です。最近ちょっとサボっちゃってたんですけど…」
「「くまのプーさん」ですか。ディズニーアニメは知ってるけど、そういえばちゃんと原作読んだことないな」
「原作のプーは、クリストファー・ロビンのテディベアなんですよ。父親が、プーを主人公にした物語を息子に語ってきかせる、っていうメタ構造になってるんです」
珠美は軽く姿勢を前傾して、解説口調で話し始める。自分の趣味の分野であり、八重樫が興味深そうに聞いているので、つい饒舌になった。
「その仕掛けによって、これは想像のお話なんだよ、ってことが強調されるんですよね。
わたしは、そっちのほうが好きなんです。なんだか儚い感じがして、より物語の純度が高くなるように思えて」
へえ、と八重樫は軽く目を見開いた。
珠美ははたと気づいて、申し訳なさそうに口ごもる。
「ごめんなさい。なんだか、一方的に話してしまって」
「いや? 興味深いですよ」
八重樫はお得意の首を傾げるポーズをとった。彼がそうすると、幼い子どもが問うような、心底から純粋に疑問を投げかけられるような純朴な風情が漂う。
「「くまのプーさん」から、物語のメタ構造の話になるとは思いもよらなかった。おもしろいです」
「…そうですか? ならいいんだけど」
急に照れくさくなって、珠美はワイングラスを引き寄せた。足りてますか? と八重樫がデキャンタから注いでくれる。久しぶりのワインは甘さと渋みがほどよい。
「前園さんはディズニーランドって好きですか?」
唐突に尋ねられた。八重樫の中では話がつながっているらしく、穏やかながらも返答を促される。
「…正直、苦手ですね。人混みが好きじゃないし、何時間待ち、みたいな行列してまで見たい、とは思わないかな」
「僕も、そんなに興味なかったんです。メルヘンとか夢の世界、っていうイメージが強すぎて、僕みたいなむさくるしい男には気後れしてしまって。
ただ、この間「風とともに去りぬ」を観て。観たことありますか? ビビアン・リーとクラーク・ゲイブルの。長いんですよね、あれ」
「………?」
話の辻褄がどう繋がるのかわからず、珠美は曖昧に頷く。
「…観たことはありますけど、かなり以前のことなんで、あまりよく覚えてないですね」
「あの映画の、アメリカ南部の描写がものすごく印象的で。誰も彼も、キャラが立ってて、すごく濃いというか、クセがあるんですよね。ぜんぜん洗練されてない。人間くさくて、何より、土地に根づいた土着のパワーに溢れてる。で、それがなんだか、何故か知ってる感じがするんですよ。
あの感じ。あ、そうかディズニーだ、と思って。あのアメリカ南部の世界観から、土の匂いを取り除いたら、ディズニーランドになるんです」
「…え?」
珠美は呆気にとられて八重樫を見た。
いきなり何? 話がトんだよ?
「すいません。この話、僕もまだ自分の中で整理ついてなくて。誰に話しても「は?」って顔されるんです。うまく言えないな」
彼は大柄な肩をすくめ、困り顔で頭をかいた。
珠美には、彼の話は要領を得なくてよくわからない。けれど、不思議と退屈はしなかった。どうやら、彼の中では筋が通っているらしい、というのはわかる。そのぎこちなさに、なんとなく朴訥な可笑しみを覚えて、淡く笑った。
「えーっとですね。僕が言いたいのは、“Winnie the Pooh”も、イギリスの土地柄を離れて表されたことが大きな変化なのかな、と思って」
「ああ、確かに」
珠美は大きく頷く。
「プーたちの物語は、ハートフィールド村やアッシュダウンの森が舞台になってて。確かに、あの森の風景から離れてしまうと原作から変質してしまうかも」
「ただ、その土着を失ったからこそ、ディズニーは世界的に普遍に受け入れられてるのかもしれないんですよね」
「そっか。なるほど、そういうふうにもとらえられますね。
そうすると、同じクマのキャラクターでも、パディントンはディズニーになりえないのかも。あのコはロンドンの街とパディントン駅、っていう舞台が重要ですもんね」
「パディントン! 懐かしいな。僕、子どもの頃大好きでしたよ。あのマーマレードがおいしそうで」
八重樫は、ははっ、と笑った。笑うと目尻にくしゃっとしわが寄り、いかにも相好を崩した、といった風情で、普段の生真面目な表情とのギャップが印象深い。
珠美もつい、つられて笑った。
八重樫との会話は途切れずに続いた。
彼は特別話し上手という訳ではない。途中で話が脇道にそれたり、彼自身も言葉を探しあぐねて考え込んだりする。けれど、不思議とそれが苦にならない。
穏やかで静かな口調が、ゆったりと落ち着くリズムを持っていて、そこに珠美が相槌や返答を挟むと、心地よい音律を刻むように会話のキャッチボールが返ってくる。
中学のときに初めてついた家庭教師がイギリス育ちだったので、すっかりその発音になじんでしまったこと。
「オクスフォードって言ってたかな。父親の仕事の都合でかなり長く向こうで過ごしたそうで。英語を習うの初めてだったから、そんなに特徴的な発音だとは思わなかったんですよ」
「トレインスポッティング」が好きで、字幕なしで映画を観られるようになりたくて英語を学び始めたこと。
彼は、あ、そうだ、と何か思いついたように自分の鞄を探り「よかったらどうぞ」と平たい包みを手渡してきた。大真面目に、
「僕のおすすめの円盤です」
などと言う。
円盤、というのは、DVDなどの媒体を指して言うこともあるけれど、彼が差し出したのはその手のパッケージよりは小さめ。
ていうか、これ。円盤って…。戸惑い顔の珠美に、彼は生真面目な表情のまま「冗談です」と言った。
「これね、しょうが糖なんですよ。僕、好物で」
生姜の絞り汁をシロップに煮詰め、直径10cmほどの円盤状に固めたもの。長野の有名な七味唐辛子の店がつくっているものだという。
小さく割ってそのまま食べてもいいけれど、紅茶に入れてもおいしいです。先日まとめ買いしたので、お裾分けにひとつどうぞ。
「…ありがとう」
受け取りながら、珠美の中で、あるイメージがむくむくと湧いてきた。
冗談が下手な、生真面目で朴訥な生き物が好む甘いもの。
プーの蜂蜜。パディントンのマーマレード。八重樫のしょうが糖?
思わず噴き出して笑いそうになり、堪えるのに苦労した。
「…? しょうが、苦手でしたか?」
八重樫が怪訝そうに首を傾げる。その様がまた可笑しい。肩を震わせて笑いを堪える珠美を、彼は不思議そうに見守った。
気づけば、結構な時間が過ぎていた。
その間、こういった飲み会の常で、席の移動は流動的になり、何人かの受講者仲間がテーブルを移動してきたり、講師も戻ってきて加わったりもしたけれど、珠美と八重樫は同じテーブルから移動しなかった。
中には、珠美と八重樫の間柄を窺うような視線を向けられたりもしたけれど、八重樫はまるで頓着しない。珠美も笑ってかわした。
八重樫は一度だけ「ご迷惑ではないですか?」と尋ねた以外、恋愛的なつきあいの探りを入れてきたりすることはなかった。あまりの色気のなさに、ふたりをあやしんでいた向きもやがては呆れてしまったくらいだ。
ただ純粋に、語学学習と互いの趣味の話に終始する、まったく底意のない態度が、珠美には清々しく心地よかった。
「あ。そろそろ終電。八重樫さんは、帰りの電車大丈夫ですか?」
「もうそんな時間ですか? 早いな」
手慣れた幹事は既に会費を徴収し、会計をすませてしまっている。往生際悪く残ったグラスを空けていたら、店にふたりで取り残されていた。
「皆さんお帰りになったんですね。ご挨拶できずに失礼だったかな」
「大丈夫、みんな飲み会慣れしてるんですよ。ベタベタし過ぎない距離感で、私は好きなんですけど」
「わかる。仕事のつきあいだと、上下関係引きずって面倒だったりしますからね」
じゃ、帰りましょうか。送りますよ。
店を出て、地下鉄の駅に向かって連れだって歩く。てっきり、駅まで送る、程度の意味かと思ったら、珠美の住まいの近隣まで送ってくれるつもりらしい。
「いや大丈夫ですよ。八重樫さん、路線まったく違うのに、遠回りになっちゃいます」
「僕はどうとでもなりますから、お近くまで送りますよ。こんな時間だし」
なんでもないことのように言って、方向の違う路線のホームに向かおうとする。珠美はそれを押しとどめるようになおも断った。
「いや、ほんとに大丈夫ですから。うちの近所、24時間営業の店が多くて明るいし、人通りも結構あるんです。なんなら、最寄りの駅前でタクシーも拾えるし、大丈夫ですよ」
でも。と、彼は重ねて主張しようとして、それから「そうか。そうですね」と何かに気づいたように態度を改めた。
「あまりしつこく申し出るのもご迷惑ですね。前園さんにとっては、僕が信頼に足る人間かどうかわからないでしょうし」
「…いえ、そんなつもりは」
珠美が反射的に否定すると、八重樫は大真面目にかぶりを振った。
「いいえ。そのほうがいいです。世の中、不埒な人間もいますからね。知り合って間もない人物相手に慎重になるのは当然のことです」
生真面目そうに首を傾げる。見慣れてきた、八重樫の癖。
珠美は口元に微笑が浮かぶのを止められなかった。つい、くすくすと笑いだしてしまう。
「八重樫さんって、本当に…」
「……なんですか?」
そんなことまで、言わなくてもいいのに。
喉元までこみ上げてきた台詞を飲み込み、
「本当に、紳士なんですね」
と言った。ほこほこと胸の奥が暖かくなるような、礼儀正しいkindnessを感じる。
「お気遣いに感謝します。ありがとう」
なんだかとても丁寧な気持ちで、ごく素直にお礼の言葉が口をついて出た。
どういたしまして。と、彼は怪訝そうに答える。
礼を言われるほどのことではないのに、と顔に書いてあった。